小説の好き嫌いについて

 その作品の出来不出来にかかわらず、小説について個人的な好みによる評価というものがあることは疑いえない。サリンジャーは『キャッチャーインザライ』のなかで主人公に、その人にとってよい小説というのは、作者と友達になりたいと思うかどうかだと語らせていた。ウェルベックも『服従』のなかで似たようなことを述べていたように思う。
 僕がその作者と友人になりたいと思った小説とはなんだったかと考えてみると、それは難しい問いである。けれど反対に、友人になりたくないと考えた小説や作家というのは、わりあい簡単に思い浮かぶ。例えば、村上龍などは僕にとって、(彼の『コインロッカーベイビーズ』は僕のお気に入りの小説の中でも上位に入る作品であるにもかかわらず)後者の側に振り分けられてしまうことになる。もっとも、村上氏本人について僕は何も知らないし、氏本人について何かここで述べるつもりもないのだが、彼の作品の登場人物たちのホモソーシャルな性格にはあまり好感が持てないというだけのことだ。
 ホモソーシャルというならば、僕の好きな作家のなかでも、例えば大江健三郎の初期小説の登場人物たちも同様だろう。寺山修司の『ああ、荒野』なども含めてもよいかもしれない。これらの小説の登場人物たちは、強さや男らしさを求めているし、セックスの強さが男としての優秀さの指標と考えている節がある。けれども、彼らはそうした男性としての自己形成の失敗に起因する歪みを抱えている。それに対して、村上龍の登場人物たちはいとも簡単に女を「もの」にしていまうところがあるように思う。例えば『シックスティーナイン』なんかは顕著である。
 しかし、小説の好みというのはサリンジャーらが言うほど簡単ではないらしい。このことは、僕が『コインロッカーベイビーズ』を好んでいるということからも伺えるし、あるいは僕の好きな他の作家について考えてみてもよく分かる。
 僕は中島らもの小説が好きだが、彼自身が実際にお近づきになりたいタイプかと尋ねられると少し考えてしまう。少なくとも、アル中の父を持つ身としては彼と家族として関係するのは苦労しそうだとは思う。もちろん、彼の語りはユーモラスで面白いし、話せば楽しそうではある。それに彼の生き様というのはなかなかにカッコいい。しかし、小説という媒体を挟んで、少し遠いところから眺めるのがその作者とのちょうどよい距離感ということも考えうる。先に友人になりたい作家は誰かというのは難しい問いだと述べたいのも、こういった事情を考えてしまうからである。
 そもそも、このような問題というのは、小説のナラティブを必ずしも作者と同一視できないということから生じているように思う。テキストに外部がないかどうかはともかくとして、小説だけからその作者の性格について推しはかることができるなどとは、誰も本気では考えていないはずだ。もっとも、やはり小説を読んでその語り手にシンパシーを感じることがあるのも事実であることに変わりはないのだが。
 

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