日記を書くということについて(2023年7月26日)


 18時頃。数時間前に起きたばかりであり、日記もクソもない。初日であるから、日記を書くということについて、ごく個人的なことを書いておこうと思う。

 日記というのは、その日自分が行った行為や考えたことについて書き留めておくものだろうと思う。けれども、それは僕にとって困難なことだ。

 まず、最初の困難は日記というのはフィクションではいけないということだ。たとえば、僕は小説を書いたりすることもあるし、私小説に近いものを書くこともある。私小説というのはどのように書くかというと、なんらかの状況のなかに語り手を置いてみて、そこからそいつがどう動きなにを考えるのかを記述するわけだ。その語り手についてキャラクターのような設定をあらかじめ与えていないのであれば、彼は自然と僕に近づくが、当然僕自身がそのような状況を生きたというわけではないのだから、そいつは僕ではない。

 ベルクソンは『笑い』のなかで、シェイクスピアの悲劇などを取り上げながら、悲劇やドラマにおいて登場人物とはありえたかもしれない作者自身であると述べている。私小説というのは、そのようなものの極めて純粋な形態と言えるだろう。しかし、「ありえたかもしれない」作者自身であるのだから、実際の作者自身ではないわけだ。そこが日記やエッセイなどとは異なる。(もっとも、自分自身についての事実を記述しようとしても、どこかフィクショネルな部分が混入してしまうということは大いにありえるだろうし、語ることに本源的な問題であるかもしれないが、ここではひとまず脇に置いておこう)

 最初からフィクションとして書くのであれば、いくらでも好きに想像力を働かせることができる。だが、現実の自分自身について記述するのであれば、そうした勝手は許されないわけだ。これが日記を書くことが困難であるということの理由である。

 書くにあたいするだけのことが起きない日などザラにあるわけだし、そもそもぼーっと生きている僕のような人間からすると、その日何をしたかなどもう一日の終わりには忘れている。気が付けばもう寝る時間である。では、読んだ本についてでも書けばいいかというと、そうもいかない。そのためにはある程度の労力がいりそうだ。そんなことを毎日続けられるはずがない。

 しかし、そんなことよりも、僕にはその日の自分の行動についてなんらか言語化することができる人間がよくわからない。自身の行為に何らかの動機付けをしたり、感想を持ったり、というようなことは、一度冷静になって自身の生活から一歩外に出なければできないことだ。けれども、そのような反省の行為もまた日常の中に含まれるというのが、日記を書くということである。こうした一種のフィードバックシステムが日記というものだろう。これには訓練が必要だ。僕のように直接的衝動的に生きている愚鈍な人間にはなかなか骨が折れる作業である。

 他にもいくつかの困難があるが、それらは些細なことだ。たとえば、ありふれたことだが、一つだけ挙げておくならば、僕が飽き性であることとか。

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