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外山合宿とは何か 第30回教養強化合宿体験レポート


はじめに

 外山恒一氏の開催する教養強化合宿、通称外山合宿の第30回に僕は参加した。30回というのは並大抵な数ではない。1回の参加者を10~15人とすると400人程度が参加したことになる。しかも、今この文章を書いているあいだにも第31回合宿が開催されているらしく、今後も合宿出身者は増え続けていくだろう。なぜこれだけの若者が外山合宿に集まるのか。また外山合宿とはどのような役割を果たしているのか。合宿に参加したうちのひとりとして、こうした問いについて考えてみようと思う。

学生運動の土壌を耕す

 この教養強化合宿というのは、活動家である外山氏の政治活動のひとつであることは言うまでもない。問題はこの合宿がどういった種類の活動であるかということだ。合宿にはデモやストのように何か明確なイシューがあるわけではない。そして、行われているのは、ただ教養のあるおじさんが若者に講義をするというそれだけのことに過ぎない。当然、ファシストへのオルグがなされるわけでもない。それに、合宿出身者のうち活動家になるのはほんの一部だろう。OBOGのうちの多くは、合宿で人脈を広げるだけだったり、あるいは政治活動よりもむしろ文化的な活動に向かったりする者たちだ。最近では、このような状況をツイッターで冷笑している人間をよく見かける。彼らによれば、外山合宿というのは、政治的な結果を残せていないと言うのである。
 しかし、政治的なものとは必ずしも分かりやすく政治の看板を掲げているとは限らない。むしろ政治性が隠された場所にこそ、より深い政治性が存在したりするものだ。政治の看板を掲げた活動しか政治的であると認めない人間というのは、看板に「ラーメン」と書かれていなければラーメン屋でラーメンを食い終わっても自分が食べたものがラーメンであったことに気づかないような間抜けである。
 合宿出身者が活動家にならないことを非難する人たちがまず根本的に誤解しているのは、外山合宿は活動家を育てる場所では必ずしもないということだろう。次の引用は毎回の合宿参加者募集に書かれた文章である。

私の究極的な(といっても中期的な)目標は、常々公言しているとおり「(左右混淆の)学生運動の再建」である。合宿参加者の中からその担い手が出てきてくれればもちろん嬉しいが、私もいきなりそんなことまで期待してはいない。たった10日程度で伝えられることは基本的には表層的な知識のみである。これを踏み台として単に“優秀な学生”になってもらうだけで現段階では充分だ。優秀な学生があちこちに散在しているという「学生運動の再建」の前提条件をととのえていくことが、現在の私の短期的な目標である。

「現役学生限定“ライバルに差をつけろ!”教養強化合宿」参加者募集より

 このように、合宿の目的は学生運動の再建それ自体ではなく、その手前にあるのであり、学生運動の再建の前提条件を整えることであると明言されている。外山氏はこれを10日間という限られた時間ゆえの限界であるかのような書き方をしているが、宗教団体だって10日の合宿で熱心な信者を作り上げるのだから、たとえ10日でも参加者を熱心な活動家として組織することは不可能ではないだろう。要するに、合宿を開いても土壌を耕すだけというのでは方法として少々回りくどいのである。こうした回りくどいやり方にならざるをえない理由は、かっこのなかに入れられたあまり目立たない修飾語である「左右混淆の」という学生運動にかかる副詞にあるだろう。というのも、運動が左右混淆であるためには、洗脳教育で同じ思想を植え付けるのであってはならないからである。
 これは学生運動が党派的であってはならないということでもある。外山氏は学生運動の衰退の原因を内ゲバにみており、そしてその内ゲバの遠因を68年の前史として安保闘争で党派が力を強めたことにあるとしている。運動を持続させるために重要なのはノンセクトラジカルが運動の中心になることなのだ。
 また、なぜ左翼だけでも右翼だけでもなく、左右混淆でなくてはならないのかというと、それは外山氏がファシストであるからだろう。合宿中外山氏が冗談めかして言っていたが、右翼と左翼が一緒になれば自然とファシズムになるらしい。この主張の真偽を判断するだけの能力は僕にはないのでその点についてはひとまず置いておこう。重要なのは外山氏が直接ファシストを育てるのではなく、右翼か左翼かを経たのちにファシストになるように仕向けようとしているということだ。またしても回りくどいやり方である。この点については、やはり知識不足ゆえ語ることをあまり持っていないのだが、外山氏が「最初からファシストになる奴はダメだ」という旨のことを言っていたのを覚えている。そういうことらしい。

英雄にあこがれ

 以上のように、教養強化合宿は直接的に活動家を育成するものではない。けれども、なんらかの活動に向かうように方向づけはなされている。それは例えば、運動史における英雄たちのエピソードを語ることによってであり、また例えば運動をテーマとした胸を打つ作品を鑑賞させることによってである。合宿中の講義においては、外山氏が運動の当事者たちから直接聞いてきた逸話が氏の軽妙な語り口によって生き生きとして語られる。偉人であれ身近な人物であれ、誰かの行動が人々のこころを動かし、憧れを生じさせ、また行動を引き起こす、ということをベルクソンという哲学者は論じている。人々を行動に導くこのような人物には直接会う必要はなく話に聞くだけでも十分であるし、さらにはその人物は実在している必要すらない。外山合宿とはまさしく参加者を行動に導くようなこうした憧れを生じさせる場でもある。
 しかし、合宿で紹介されるのは政治活動家だけではない。芸術家にミュージシャンにお笑い芸人など多岐にわたる。分かりやすく政治的な話題のみを教えることをしないのは、やはり外山氏が文化的なものの中にも政治性を見出しているからである。例えば、氏は『全共闘以後』において、たまのイカ天への登場を次のように述べている。

それ は まさに〝 革命〟 の 瞬間 だっ た と 言っ て いい。〝 たま〟 の 楽曲 や 言動 には 何ら( 普通 の 意味 での) 政治 性 は ない が、 ストレート な 政治的 表現 以外 の 方法 で〝 こちら 側〟 の 勝利 を あっさり と 実現 し た。

外山恒一『改訂版 全共闘以後』 イースト・プレス、2018年、p. 168。

 たまというマイナー性を前面に打ち出したバンドがテレビのメジャーな世界に唐突に現れ人々を圧倒したという出来事が上の引用では「革命」と言われている。「革命」は必ずしも分かりやすい政治のかたちをとってやってくるとは限らない。ここでもまた控えめに「普通の意味での」という言葉がかっこにくくられているが、言い換えるならば外山氏の考える意味での「政治性」であれば、たまにも見出せるということである。外山氏の好む言葉に、ブランキの「革命は彼方より電撃的に到来する」というものがあるが、付け加えるならば「革命は彼方より電撃的に何食わぬ顔をして到来する」ということだろう。
 革命が政治の顔をしていないのだとすれば、分かりやすく政治的な知識や活動ばかりでは革命への備えとして片手落ちである。それゆえ、教養強化合宿の出身者が政治活動に向かわず文化的な活動において活躍することは、なにも「教育の失敗」ではないのである。

「ヘンタイよいこ」の政治的組織化

 なぜ外山合宿が直接的に活動家を育てるのではないかということについては、ひとまずの説明を与えたように思う。しかし、なぜ合宿という形態がとられるのか、あるいは言い換えるならば、合宿という形態をとることによってどのような効果が期待されるのか、ということはまだ考える余地がありそうだ。
 真っ先に思い浮かぶのは、共同生活によって団結が生まれるということだろう。毎日同じ場所に通ったクラスメイトたちに思い入れが生じるらしいのと同様に、10日間も文字通りひとつ屋根の下で同じ釜の飯を食っていればそこそこに強いつながりが生じやすい。そして合宿に集まるのは、少なからず政治運動に関心のある同年代の若者たちである。合宿には特定の層の若者を引き合わせる効果がある。こうした若者同士の引き合わせというのには、先例が多くあるだろう。例えば、合宿で毎回説明される糸井重里編集の「ヘンタイよいこ新聞」が掲載されていたサブカル雑誌『ビックリハウス』などは、紙面において読者同士が実際に会うことを促していた。そこに集まる『ビックリハウス』読者の傾向は「ヘンタイよいこ」と呼ばれるような部類の若者である。「ヘンタイよいこ」というのは、ヘンタイとセイジョーの軸、よいことわるいこの軸によって生じる4象限のうちのひとつだ。つまり「ヘンタイよいこ」とは、セイジョーにもなれない、かといってわるいこになろうというのでもない、そうした何かに包摂されることのないカテゴリーのことである。そして、外山氏はこの「ヘンタイよいこ」という区分について次のように述べている。

「 ヘン タイ よい こ 新聞」 は これら 3 者 を 排し、「 ヘン タイ よい こ」( の アイデンティティ に 目覚め た 先進 的 部分) の 結集 軸 たら ん と し て いる の だ が、 それ は 時代 状況 によって は〝 活動家〟 と なる タイプ の 若者 たち の こと で ある

同上書、p, 32。

 このように「ヘンタイよいこ」というのは「活動家」タイプであるとしている。まさしく外山合宿に集まる若者というのも、「ヘンタイよいこ」同様に社会から何らかの形で疎外された人々だろう。ただ『ビックリハウス』と外山合宿とでは当然違いがある。『ビックリハウス』の読者らは政治性を排して、サブカル的センスによってつながるのに対して、外山合宿でのつながりは政治性を排除しないし、それどころか政治を勧める集いですらあるということだ。外山合宿とは「ヘンタイよいこ」に政治を吹き込み「活動家」へと育成する働きをするものである。

合宿という運動形態

 けれども、そうした社会のはみ出し者を結びつけるというのはどのようなことだろうか。
 先に述べたように、外山合宿は前衛党を組織するものではない。ではノンセクトラジカルを組織するのかというとやはりそれも違う。合宿出身者のネットワークというものはあっても、それは全共闘のような集団として存在するわけではない。まさしく学校のOBOGと同じような、単なるゆるやかなつながりとして存在するのである。つまりは、一定の教育を修了した者が社会の中に放り出され、各々が個人的なつながりを持つに過ぎないということだ。けれども、やはり合宿参加者は何らかの意味で組織化されているのである。外山合宿のOBOGネットワークとは、党派のように閉じた集団ではないが、かといってノンセクトのように開いた集団でもない。合宿出身者とそれ以外という内と外の区別がはっきりと可能なのだ。教養強化合宿が現在のように「難関私塾化」しておらず、オープンに参加者を募っていたとしても事情は同じである。
 その上、こうした合宿参加者とそれ以外という区別を煽るのは外山氏本人である。氏はツイッターなどにおいて、例えば「外山合宿参加学生の優秀さは異常、人文系では外山合宿参加学生以外は話にならん、という評判を目指して頑張ります」(2015年8月6日)というように、(比較的早い時期から)合宿参加者をエリートとして、それ以外を「Fラン」として区別するような発言を繰り返し行っている。つまりは「最高学府」としてのブランド付けがなされているのだ。
 もっとも、OBOGのうちでその後も「外山合宿出身者」の肩書に固執している人間はそれほど多くないだろう。しかし、歳を重ねても学歴に固執するのは、その人間には学歴しか誇れるものがないからだというような話を考えるならば、「合宿出身者」の肩書にこだわらないOBOGが多いのは不思議ではない。
 また、例えばもともと同級生であった複数人の中にまた別の人間が入り仲良くすることも可能であるように、非合宿参加者が合宿参加者のコミュニティに入ることは当然可能である。
 しかし、以上のような事情にもかかわらず、合宿出身者ネットワークの排他性を論じるのは、なにも合宿を非難しようということではまったくなく、ここに外山氏のエリート主義が垣間見られるように思うからである。いや、垣間見えるというよりも隠すつもりはそもそもなさそうだ。
 外山氏は少数者による統治を説くファシストである。氏のファシストとしての方針は我々団のホームページから読むことができるが、「ファシスト党〈我々団〉の基本政策」(2020年)では学校教育の全廃が掲げられている。そして「最高学府」については次のように述べられている。

 大学制度は、諸々の抜本的改革(レッドパージなど)の上で存続することも検討されるが、少なくとも私学助成は全廃される。基本的には、文系の学問には大規模な図書館さえあればよく、研究活動は個人レベルあるいは私塾で充分だし、さらに云えば我が党の指導者養成機関が文系の最高学府の役割を現在すでに果たしている。

我々団 (warewaredan.com)

 すなわち外山合宿とは、外山氏の掲げる政治体制におけるエリート教育のプロトタイプなのである。そしてその「最高学府」は管理教育こそ行わないものの、必然的に卒業生たちによる「学閥」が形成されることだろう。
 この「エリート教育」が実際にどのような成果を上げているか、その全体像を記述することは僕の能力を超えている。しかし、確実に言えるのは、政治的教養を身に着けた若者たちが着々と野に放たれ続けており、彼ら彼女らは、政治的立場を共有していなくとも、互いにつながりながら多方面で活動しているということである。
 このように政治的立場を共有していなくとも人々が政治的につながることを可能にする機能を果たす場であるという点で、固有の価値を持っているように思われる。外山合宿とは共通認識としての「教養」が欠如したこの時代に逆らうようにして「教養」を形成する活動であるのだ。

おわりに

 さて、冒頭で挙げた問いのうち「なぜこれだけの若者が外山合宿に集まるのか」という方が残ってしまった。参加者にはそれぞれの動機があるだろうし、一概には答えることのできない問いである。そこで、最後に少しだけ個人的なことを書いて締めくくろう。
 僕という人間は、都市のように人と人とが分断された社会では自ら人との関わりを作ることができず孤独感を抱えこみ、かといって村社会のような閉鎖的な共同体では息が詰まって苦しくなるというどうしようもない人間だ。そして、僕みたいな人間は決して少なくないだろう。笠井潔に従えば、そうした社会のあぶれ者こそがインテリである。
 このようなあぶれ者が外山合宿に集まるのにはいくつか理由があるだろう。ひとつには限定的な共同生活が味わえるということだ。学校みたいに長期間誰かと一緒に生活するのは嫌だが、どこか同じところに放り込まれなければ他人と距離を詰めれないというようなコミュ障にとって、10日間の合宿というのはちょうどよい。
 しかし、集まりの趣旨が異なれば同じ10日間の合宿であってもパンピーばかりが集まるということもありえる。もうひとつの条件が必要だ。そのもうひとつというのは、外山氏が常に「少数派」に語り掛けてきたということだろう。外山氏がどんな人物であるか全く知らずに人の勧めで参加したという場合であっても、それはその人が「少数派」であるからその人のところにまで外山氏の名前が届いたということだ。あるいは反対に、外山氏の名前を意識し始めた時点でその人はすでに外山氏の言う「少数派」である。少数派は多数派を内側から食い破りその力を強めていくのだ。
 僕たちはファシストにオルグされたわけではないが、少数派としてゆるやかに組織された。そしておそらく、ここからファシズムまではそれほど距離はないだろう。しかし、だからといって少数派同士が分断されたままでは何も行動を起こせない。統合失調症患者が生活に不便をきたすように、個人個人が分裂していたのでは集団として行動できないのである。社会的な行動のためには社会的な身体が必要なのだ。外山合宿はそのような少数派によって形成された可能な限りゆるやかな社会的身体を生産するのである。


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