ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』を読むために
1. ベルクソンについて
アンリ・ベルクソン(1859~1941)は19世紀末から20世紀半ばにかけて活躍したフランスの哲学者である。実証科学が台頭したこの時代において、彼は心理学や生物学などに深くコミットしつつ、実証科学には回収され得ない非物質的なものについての研究を行った。
2. ベルクソンのキー概念
①純粋持続(durée pure)(『意識に直接与えられたものについての試論』(1889))
〇質から量へ
ベルクソンは彼の最初の著作において、本来質的なものであるはずの心理的体験が、日常言語や科学の言語においては量的空間的な言い方で表されるのはなぜかという問題を考えた。
(ex. 痛みなど。我々は痛みなどの感覚について、「大きい」または「小さい」という表現を用いる。あるものがあるものよりも大きいというのは、一方が他方を空間的に包摂しうるということである。しかし、痛みのような心理的な経験はそのように空間において大きさを比べることはできない。
心理的な感覚は質的なものであるのだが、われわれは経験によって、質的なものを量的に扱うことを学ぶ。哲学においてはそうした思い込みを白紙にもどして、意識へと立ち返らなくてはならない。(こうした哲学の方法は後に「形而上学入門」(1903)において、直観として定式化される)
〇持続について
本来質的であるはずの経験が量として表されることで、実在的なものを捉え損ねてしまうことがある。その最たるものが、時間概念だ。
ニュートン以来の科学において、時間とはグラフに表されるようなものでしかなかった。そして、哲学においても事情は同様であった。
ここで、一度ベルクソンを離れ、持続についての思想史を軽く辿ってみよう。(cf. 熊野純彦『西洋哲学史——近代から現代へ』pp. 76-7)
(以下引用はすべて、熊野純彦『西洋哲学史——近代から現代へ』からの孫引き)
・ニュートン『プリンキピア』
ベルクソンが批判の対象とする科学における時間
このように、ニュートンは持続を絶対的で自律的な均一の流れとして定義し、運動や感覚を尺度とした相対的な時間と区別した。
・ロック
持続を均一で絶対的な流れと考えたニュートンに対し、ロックは次のように述べる。
このようにロックは、持続を等しい一様な流れとすることの有用性は認めつつも、そういった均一な持続というものが我々の経験のなかにはないことを指摘する。
・バークリー
また、バークリーもニュートンの『プリンキピア』に一定の評価を与えつつ、次のように付け加える。
以上のようにバークリーは、時間を観念の継起として捉え、ニュートンが考えるような均質な持続というのは、それを抽象化することによって得られるものと考えている。
・ヒューム
ヒュームは空間の観念も、時間の観念も、同様に、知覚の継起として考える。空間の観念は、目に見えるか触れられるものからのみ受け取られるのに対し、時間の観念は、反省などあらゆる種類の知覚の継起に起因する多種多様なものとする。
そして、時間はこうした観念や印象の継起によって形成されるのであるから、時間それだけで現れたり、知覚するということはできないとされる。(cf. ヒューム『人性論』、第二部第三節)
・ベルクソン
ベルクソンにおいては、ニュートンの「ひとしい一様な流れ」としての持続、そして経験論における非連続な「観念の継起」という時間理解は全く正反対にひっくり返される。ベルクソンにとって持続とは「異質なものの連続」である。
均一⇔異質
非連続⇔連続
時間が均一なのであれば、新しいことは起こらないということになってしまう。しかし、実際には、常に全く新しい何かが生成しているのであり、その点で持続の各部分は異質である。けれども、そうした新しさとは、これまでの時間と不連続にやって来るようなカオスな状態ではない。必ず、前の状態を引き継ぎつつ新たな状態が生じるのである。それゆえ時間とは継起ではなく連続である。
(ex. メロディーの例。ベルクソンはこうした異質なものの連続ということを説明するとき、メロディーを例にとる。様々な異なる音階を連続して鳴らすことによって、メロディーは成立するのであるが、そのうちのひとつの音をとりだしても、メロディーは現れてこない。このように多様なものが他の部分と有機的につながっているような流れが持続である。
〇自由の問題
ベルクソンにとって、時間の問題は自由の問題と直接結びつく。というのも、時間が均質なものであるならば、未来は予想可能であり、人間の行動が介入する余地がなくなるからである。
これまでの自由の議論では、時間というのはすでに流れてしまった時間であり、行為は事後的に振り替えられるのみであった。しかし、流れつつある時間について考えてみるならば、持続が予見不可能で創造的なものであるのだから、そのなかで行われる私の行動もなにか新しい事態を生み出すのであり、自己原因的であるという意味において、われわれが自由であるのは自明のことであるということになる。
しかし、日常おいては習慣や慣習として、行動のうちに反復が忍び込むのであり、完全に自由であるということは稀である。自由には程度があり、より外的な理由の少ない行動がより自由であるとされる。
この自由のグラデーションは、自我のグラデーションとパラレルである。これまでの行動の総体として人格というものが(内的自我⇔表面的自我)
②創造的進化(évolution créatrice)
〇有機組織化(organisation)
ベルクソンは精神と物質の二元論の立場をとる。
・精神=意識=記憶(「意識と生命」『精神のエネルギー』)
この三つ組みの反対側の物質が置かれる。
ベルクソンにおいて精神と物質とは傾向性の問題である。精神は持続の緊張。たいして、物質とは、持続の弛緩、として説明される。つまり、持続のうちにあった創造性や連続性をより残しているものが精神であり、反対に持続の各部分が切断され同じことを反復するものが物質である。
こうした精神と物質の中間に生命がある。生命とは、精神が行動のために物質(身体)を用いる努力であるとされる。(=有機組織化)物質は行動のための障害ともなりうるが、物質がなければそもそも行動を起こすことができない。(偉大な作家の精神によって夢想された作品も、実際に書かれなければなにものでもなかったのである。)
(便宜上こうまとめたが、生命の語は精神あるいは意識と同等の意味で用いられていることもある気がする)
〇生の飛躍(élan vital)
生命は機械論的に進化するのでも、目的論的に進化するのでもない。機械論は物理的・数学的法則によって自然のすべてを説明しようとする点で、持続の予見不可能性取り逃しているし、目的論もこの世界をあらかじめ仕組まれたプログラムによって駆動するものとしてとらえる点で同様に、予見不可能性を捉え損ねている。
ベルクソンにとって進化もやはり、流れつつある時間のなかで展開される予見不可能で創造的なものである。生命は世界に新しさをさしはさんでいく。
ここでは、生命は全体としてとらえられており、各々の個体はエランのひとつの表現であり、またそのエランを次の個体へと運ぶ通り道(passage)である。
〇知性と本能
生命進化は様々な方向へと展開する。そのなかでとりわけ重要なのが、知性と本能の分岐である。ベルクソンは、他の同時代人たちのように、本能を劣った知性としてとらえるのではなく、生命の努力の別の側面として理解する。それゆえ、知性と本能はあらゆる動物種において相補的に働いている。
本能と知性はどちらも行動を準備するものであり、原物質(la matière brute)から何かを獲得しようとする生命の努力、すなわちただあるだけのものに働きかけて自らの生存のための道具にする努力であるという点で共通するが、それぞれ逆を向いた努力の傾向である。本能は原物質に有機的な道具を用いて直接働きかける仕方であり、他方知性は無機的なものを加工して道具を作り間接的に働きかける仕方である。
・本能について
本能とは「生命が物質を有機的組織化する作用を引き継ぐものでしかない」と述べられているとおり、個体や種の形成の作用の延長として存在する能力である。
このような本能の働き方を最もよくあらわしているのは、共感(sympathie)という語であろう。ベルクソンはジガバチがアオムシに卵を産み付ける場面を例に挙げる。ジガバチはアオムシの神経中枢を的確に針で刺し麻痺させる。どうしてこのようなことが可能なのか。当然ジガバチは科学者と同じように知性による分析によってそれを知るのではない。ジガバチの習性を理解するのが困難であるのは、知性の言葉で説明しようとするためであるとベルクソンは言う。そこで、彼は共感という語を導入する。
このようにジガバチはアオムシを活動性としてとらえ、その活動性を内側からそのままとらえるのである。
・知性について(映画的錯覚)
ベルクソンにとって知性とは、最初の主著である『試論』以来一貫して、創造的で予見不可能な持続を切り分けて、不連続な断片として表象する認識の仕方として捉えられている。質的なものを空間化してとらえる人間に本性的な働きが知性である。
(ex. 先にも上げたメロディーでいうと、ひとつひとつの音をメロディーから切り離してとらえようとするのが知性である。
『創造的進化』において知性は次のように述べられる。
このように、知性は活動性を目的によってしか表象しない。知性はその表象を用いて思考するのであり、ここでもやはり運動は捨象され、不動のものがまずあって、それが運動するというように考えられている。
しかし、それはベルクソンによると錯覚である。「実在するものとは、形態の絶え間ない変化なのであり、形態は移り変わりを撮ったスナップショットでしかない。」
ベルクソンはこのような錯覚を映画に例える。すなわち、表象とは静止画なのであり、知性はその静止画を組み合わせることによって運動を表現するのである。つまり、表象に関して、知性が無機的なものを扱い製作をするというのは、生成変化する実在の運動を捉え損ねて、死んだものとして表象し、またその表象を用いて新たな表象を形成するということである。
・知性と本能の比較
本能の働きは専門化されている(spécialisé)のであり、その仕事を完全になし遂げる。しかし、本能がどのような仕方で働くかは、その種ごとに決まっているのであり固定的だ。その働き方が変化するならば、種の変化を引き起こすのである。
反対に知性のつくる道具は、人間の本性にも影響を及ぼし、行動の可能性を開いていくものだ。しかし、知性の道具は最初は不完全であり、目的を達成するのに本能よりも不向きなものである。知性が本能を上回るためには、努力が続けられなくてはならない。
本能と知性は生命の努力のふたつの側面であり、これらの欠点を互いに補い合いながら働くのである。
③直観(intuition)
・「形而上学入門」(1903)
ベルクソンは『創造的進化』以前の「形而上学入門」において自身の哲学的方法を論じ、その中核に直観を据えた。
上に述べた知性の認識の仕方は「分析」といわれ科学の方法とされる。それに対して直観が形而上学の方法であり、直観こそが絶対的なものを捉えられるとする。
分析⇔直観
直接に全体を捉えることのできる対象とはなにか。まずもっとも確実なのは、意識である。先に述べておいた通り知性によって身につけられたものの見方を一度取り除き、意識を直接に捉えなおすこと、これがベルクソン哲学の出発点であった。
・『創造的進化』(1908)
『創造的進化』において直観は、本能を知性によって高めたものとして説明される。上で述べたように、本能は対象を直接に捉えることができるが、あらかじめ限定された対象に対してしかその能力を用いることはできなかった。生命維持の必然性にとらわれているからである。しかし、知性はそうした必然性を超えて働きうる。こうした継起を経て、直接に対象を捉える能力は人間において直観にまで高められる。
3, 『道徳と宗教の二源泉』へ
『創造的進化』以後、ベルクソンの関心はなぜ進化の努力が人間に至るまで続けられたのかという問題に向かう。ざっくり言えば、人間とは何かということを進化論的に考えようとしているということだ。こ
こうした問題意識をあらわにしているのは例えば、『精神のエネルギー』に収められた「意識と生命」(1911)においてである。
この論文から『二源泉』までには二十年以上のあいだがあり、細かな点についてはベルクソンの考えに変更があったかもしれないが、人間の存在理由の解明のためには、道徳と社会について論じなければならないという彼の問題意識は『二源泉』まで共通しているように思われる。
ベルクソン年表
1859 ベルクソン誕生
1889 『意識に直接与えられたものについての試論』(『時間と自由』)
1896 『物質と記憶』
1900 『笑い』
1908 『創造的進化』
1919 『精神のエネルギー』(論文集)
1922 『持続と同時性』(のちベルクソン自身の指示で出版停止)
1932 『道徳と宗教の二源泉』
1934 『思考と動き』(論文集)
1941 ベルクソン死亡
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