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人生敗北主義者宣言

 昔ブルーハーツは「あれもほしい、これもほしい、もっとほしい」と歌った。貪欲で前向きな情動。共感できなくはない。他方で、常識的な人間なら、こう言うだろう「どれを選ぶか決断しろ」二兎追うものはなんとやらと言う通り、この反論もごもっともである。人生の大事なときには決断を必要とする。いいとこどりというわけにはいかないときもある。
 けれども、僕らはそのどちらも退けて、こう言いたい。「あれも違う! これも違う! 全部全部違う!」僕らはどんなものにも満足しない駄々っ子である。色んなことをやってみる。色んなものを試してみる。しかし、全部気に入らない。あるいは、やってみる前から、なんか違うと食わず嫌いをする。
 全てに「否」を突きつける。そういうとカッコがいい。しかし、僕らは破壊的なアナーキストでもなければ、悟りを開いた禅者でもない。破壊したところで何になる? 否! 悟りを開いて何になる? 否! 否、否、否!
「それになんの意味がある?」この言葉は万能だ。行動しようとする人にこの言葉を投げかけ続ければいい。どれだけ意志の強い人間でも最後には答えに詰まるはずだ。
 それでも行動するとしたら、それはなぜか。それは彼が強い信仰を持っているからである。現代の僕らが行動するためには、また人生が有意味であると信じるためには、数々の否を無視できるくらいに能天気になるか、あるいは数々の否を振り払えるほどに強い信じる意志を持つか、そのどちらかが必要なのである。
 そういう意志の強い人間を僕らは応援する。頑張ってほしい。あなた方がこの世界を動かすのだ。しかし、僕らはあなた方とは違う。数々の否に耐えられない弱い人間だ。人生の意味を信じることのできない冷めた人間だ。行動すれば何かがあるのではないかと信じることすらできない臆病者だ。だからどうかせめてその弱さをバカにしないでほしいのだ。僕らもあなた方を冷笑しない。だから、ほっといてくれ! そう主張する権利くらいは主張したい。
 そう、僕らが唯一主張すること、積極的な意味を見出す唯一のことは、否といい続ける権利である。僕らはこの世界のなにもかもが気に入らない駄々っ子である。

ー働け!
働いてなんになる?
ー金がもらえる
金があってなんになる?
ー生活ができる
生きていてなんになる!
ーなら死ね!
死んだところでなんになる!
ー社会からクズが1人消える
社会になんの意味がある?
ー人々の生活の役に立つ
お前らが生きてたからってなんだ! お前らのことなんて知るか! くたばれゴミムシが!

 否を突きつけると言っても、僕らは価値を破壊することを目的とするのではない。僕らはニヒリストではない。信じるべき価値が破壊しつくされた時代に僕らは生まれた。僕らの名前を教えてあげよう。価値など知らない子どもたち、否しか知らない子どもたち。僕らは生粋のメランコリー患者だ。
 そんな僕らはとっとと自分自身の生に否を突き付けて死んでしまうべきなのだろうか。それも断じて違うのだ。僕らの理想はこの世界の中にはない。だから、否と言い続ける。けれども、だからと言って死んだらその理想が見つかるというわけでもないのである。僕らは価値を探し続けている。だからこそ、言葉ひとつで簡単に価値を否定できるこの世界のあらゆるものが嫌いなのだ。そんなものに人生をささげることはできない。僕らは常に、人生をかけるべき目的を探している。僕らは人生を出し惜しみしているのだ。「人生は最後の武器なのだ」
 僕らの人生敗北主義とは、何かしたいことがあるけどそれができない、というのではない。僕らは仮になんでもできるとしても、何をしたらいいか分からないのだ。この世界に打ち負かされるのではなく、勝負すらしないままに不戦敗するのが僕らの敗北主義だ。
 大事に大事に抱えたその人生を、腐らせそのまま死んでいく。そんなのは当然まっぴらごめんだ。けれども、そうするしかない、それしか道がないという閉塞感。この世界の一切が気に入らないというなら、仕方がないことだ。
 しかし、それではあまりにも希望がなさすぎる。僕らが否と言い続けるのが、この世に僕らの理想がないからなのであるならば、否を突き付ける権利は同時に、この世ならざる理想を求め続ける権利でもあるはずだ。この世では実現しえない理想。それは一般的に救済と呼ばれるものだろう。僕らは救済を求めているのである。
 僕らはすべてに否を突き付ける。この点において僕らはダダイストでありアナーキストである。僕らは救済を求める。この点において僕らはキリスト教徒であり仏教徒である。けれども、僕らはこれらの内どちらかを選ぶことはできない。あるいは、これらの内どちらも選ぶことができない。最初に述べた通り、僕らの立場は「あれでもないこれでもない」なのである。
「あれでもないこれでもない」とはある見方からすると、決断の拒絶である。そしてまた別の見方からすると、「あれもこれも」よりもさらに強欲で傲慢な態度である。決断をしないのだから、何者かになることもできない。潜勢的なあらゆる可能性を残し続けておく。また、この世のすべてに満足しないのだから、残しておいた可能性も腐らせたままである。僕らはどうしようもないダメ人間なのだ。
 この世界は僕らを「だめ」というだろう。けれども、その世界に僕らは「否」を突き付ける。僕らがダメ人間であるということが、僕らが否といった世界から下された評価なのだとすれば、ダメ人間であるということは僕らにとってなんの価値もないはずである。ダメ人間であることをアイデンティティとする人は、どこかでこの世界を受け入れているのだ。しかしながら、世界をどこかで受け入れているこの人間も、やはり僕らなのだ。
 僕らはここまで、非常に極端な原理を説いてきた。けれども、僕らは実際に生きている中で、極端なままではいられない。否と言い続ける駄々っ子の僕らも、たまには行動をする。いや、というよりも常に行動している。飯を食ったり、小銭を稼いだり、文章を書いてみたり、友達と遊んだり、セックスしたり……。けれども、資本主義や大量消費社会の批判者も、マクドナルドを食べ、コーラを飲んで、ユニクロを着ていてもよいのと同様に、僕らもそんなに神経質になる必要はない。むしろ、何らかの理念に本気になる必要がそもそもない。僕らの立場を人生敗北主義と名付けてみたところで、その主義にさえ否と言ってのけてもよいのである。
 そういう主義のような凝り固まった主知主義的な原理を行ったり来たり、従ったりそむいたり、そういった運動をするのが実際の僕らの人生だ。トリスタン・ツァラはダダ宣言において宣言そのものに反対した。
 僕らは行動するが、行動そのものに否ということができる。これは矛盾ではない。先に述べた通り、否を突き付ける行為というのは、ここにはない実現しえない理想を求めるということであるのだから、現実の行動には実のところ無関心なのである。無関心であるから行動できない。けれども、また、無関心であるから、否といったところで行動すること自体を制限することはできない。比喩を用いて言うならば、否ということは手に持ったボールを手放すことである。手放したからといって、そのボールが重力にしたがって落下することを止めることはできない。けれども、ボールを遠くに送ることもできない。それだけのことだ。否ということは重力と慣性に従うことである。重力や慣性に抗うことでも、重力と慣性を否定することでもない。無為自然というのが最も近いだろうか。
 僕らが手放したのはなにか。僕ら自身である。僕らは重力にしたがって落ちていく。けれども僕らの心が反対に登っていく方向に傾いたのならば、つまり落ちるのが怖くなって苦しくなったのならば、今度は自然と重力に抗ってみたりする。そうしながら、あるかどうかもわからない救済を待つ。それが僕らの人生敗北主義である。


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