近況報告20240929

 著作の数が少ないとか全部買いそろえても一万円いかないとか、舐めた理由で選んだベルクソンであったが、数年読んでいるうちに身体になじんできて、それでようやく哲学というものの門前に立ったような気分でいる。
 疲れた。クソ。なんていうか、やっぱり自分が何をしたいのか分からないし、自分の関心というのも分からない。諸々の申請書でようは博論の計画をかかされたわけだが、いまだ修論すらはっきりとした見通しが立っているわけではない。そんなわけで学振は落ちたのだが。まあ、他で生活の保障はされているから別にそれはいい。
 とはいえ、ベルクソンを通して哲学というものを覗き見て、なんとなく何が問題になるのかということは分かってきたような気がする。別にベルクソンじゃなくてもよかったのだと思う。それこそドゥルーズの方がいいかもしれない。とはいえ、選んでしまったものはしかたがないし、いまさら修論の研究対象を変えるわけにもいかないので、しばらくはベルクソンに向き合わなくてはならない。ある種の決め打ちである。そういえば、ベルクソンを選んだとき、決め打ちというつもりで選んだ。それで、ベルクソン以外にも手をのばしていけばいいと思ったのだった。ひとまずの足場を作っておくというくらいの気持ちだった。しかし、今ベルクソン以外に手をのばせているかというと、ちょくちょくつまみ食いをしている程度でほとんど触れられていない。それも、発表が迫ったここ一か月は特にそうだ。
 要はベルクソン研究に自分のやりたいことを託さなくてはならない。しかし、そのやりたいことも分からない。ひとまず、ベルクソンが歴史性をどのように考えていたのかということは、目下の課題のひとつである。日付を持ったもの、ようは歴史のある点で生じたもの、ようは『二源泉」においては神秘主義なわけだが、それをベルクソンはみずから引き受けているようにも見える。それも、自身の哲学に結びつける形でである。ベルクソンも『二源泉』の記述がある立場からのものに過ぎないということは自覚していた。しかし、それにもかかわらず、キリスト教神秘主義の特殊性よりも普遍性に重きを置いている。なぜそのようなことが可能であるのか。
 この問いが私という人格のどのような関心から出てきたものなのか分からない。とはいえ、それを確定することは回顧的に理由を後付けすることでしかないだろう。その作業が有用であることもあるかもしれない。今後研究の計画を立てたり、学振であるとか実務的な煩わしい文章を書くときなんかがそうだ。しかし、あんまり自分の関心がわからないということで悩んでいても無駄だろうとも思う。見るまえに跳べ、歴史から飛び出せ、私が生まれるよりずっと前にだれかがそんなことを言っていたが、行動することが大事なのだ。私の場合その行動というのは、あまりアクティブなものではなく、ひきこもって文章を生み出し続けることかもしれない。まあそれもいいだろう。
 でもまあ、実存的な問題として、自分がなにをしたいのか、つまりは自分の人生の目的が分からないまま生きていくのは苦しい。その苦しみに見合うだけの快があるというわけでもない。クソですね。ベルクソンにおいて歴史性ということを問うてなにになるのか。その答え方はふたつある。ひとつはベルクソン研究上あるいは哲学史上いかなる問いに繋がるのか、もうひとつはそんなこと考えて私の人生において何になるのか。これらは別個の問いであるようでつながっている。僕はベルクソン研究なんてして何がしたいのか、僕は哲学なんてやってなにがしたいのか。そういう目的性の意識を手放したいとも思うが、現在のアカデミックな研究の場においてそれも許されていない。ディレッタントにでもなって、興味のそそられることだけをひたすら読んで書いてしたい。バイバイアカデミア。グッド・バイ。ということができるかどうかも、食い扶持の問題になってくる。哲学するまえに生きねばならない。ベルクソン先生のありがたいお言葉だ。まったくもってそのとおりである。gagner la vie、生を得ること、まずそれが第一の問題である。
 ちょっと前には人類を救うのだと本気で思っていた。今でもそうかもしれない。しかし、そんなことは到底僕の短い人生においては成し遂げられない。そのほんの少しでもなにかできれば、それが目的になり、今生きていることの意味にもなるのではないかと思っていた。さて、どうだろうか。そうだとして、僕はなにかを信じ切ることができない。ノリきれない。酔えない。どうせ人類も宇宙も滅ぶ。さっさと死ねばいい。すべて燃えてしまえ、世界なんて滅んでしまえ。俺が世界を滅ぼしてみんなを救ってやる。そんなことも今は本気では思えない。そのフリをしているだけだ。フリをし続けることは、昔の自分を肯定してやることであり、同じような気持ちの奴らを救ってやることだ。悟りを得ることができるのに、衆生が救われるまでこの世に留まり続けた菩薩のようなものだ。それは誇大妄想か。
 まず、生きる意味なんて考えてしまうこと、これは人間としてのナチュールなのか、あるいは特殊な事情によるものなのか。歴史性の問いはここに繋がる。われわれはどこからきたのか、われわれは何者なのか、われわれはどこへいくのか、この問いはベルクソンにおいて生の関心と言われた。vitalという形容詞、それが何を意味しているのか。単に、めっちゃ重要だというくらいのことなのか、人の生き死にに係わるようなものなのか、あるいは生というもの自体に本来的にそなわる関心であるということなのか。ベルクソン自身なら、一番最後の意味を主張しそうである。まあもしかするとその通りかもしれない。そして、人間というのはその関心が噴出した火山口なのかもしれない。この問いが歴史性を持ち、ある時点で生じた問いなのだとしても、同じように言えるかもしれない。それが本質主義だといわれれば、あくまで言葉のあやでと逃げればいい。実際、あらかじめそういう本質があったと言えるのは、その本質が現働化したあとから回顧的に言うしかないのであって、その過程が重要であるという点で、ベルクソンは本質主義ではない。 
 そんな感じ。なぜ目的なんて求めてしまうのか、目的とか言いやがるベルクソンにその問いをぶつけてやるのがしばらくの課題というところだろうか。

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