九鬼『「いき」の構造』

九鬼周造『「いき」の構造』

「いき」のうちには、二者の性的関係でありながら、互いに完全に対象化しえないようなありかたが含まれている。エロティシズムにとってはこの不連続性は限界だが、いきにとってはここに美意識が働いている。(いきにおける所有の不可能であるとか不連続性と、心中の関係も気になる)

生命であること、ものであることを自在に行き来するような流動性の美? 弛緩と緊張。自由であること、物質的な存在であること。自由に振れすぎても「いき」じゃない。これらの間の傾向性を生きること?

主客二元論的なエロティックな関係とは異なる、性的な関係の倫理の可能性を感じる。自律的な他者ともことなる異性との関係。しかし、どこまでも「異」性であり、自己との同一性を語ることはできない。(あるいは語ることは無粋?)

(キャラクターのグッズを所有することはできても、キャラクターを所有することはできないというような、オタクとキャラクターの関係とか?)


民族に固有の趣味をどう論じるかという問題意識が根底にある。「いき」という趣味に普遍性を要求することはできないし、またするべきではなく、「いき」を論じることが民族のオリジナリティを示すことでもある。しかし、これは単なるナショナリズムであるというよりは、西洋的価値観に回収されない価値観を示すことの必要性からくるものでもあるはず。

忘却されないための語り。

「いき」が普遍なものではないというのは、民族的なものであるというのと同時に、当然時代的なものでもあるというのもあるはず。現代の日本において「いき」が死んでいないとしても、ここで語られているような形のままで生きているとは言えない。

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