ベルクソン『二源泉』進歩?

ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』、平山高次訳、岩波文庫、1977年。

p. 328-9

「これらの進歩は同じ方向のなかで生ずるのだろうか。それは進歩であることが是認された以上は、方向はもちろん同じだということになろう。その場合、進歩のそれぞれは、実際、一歩前進だと定義されるだろう。しかし、それはひとつの比喩でしかないだろう、そして、ひとつの方向が前もって実際に存在していて、ひとは単にそれに沿うて進みさえすればよかったとすれば、道徳的革新は予見しうるものだろうし、道徳的革新のいずれにとっても、創造的努力はなんら必要でなくなるだろう。本当は、いつでも最後の道徳的革新を取り上げて、それをある概念によって定義し、そして、そのほかの道徳的革新は、この概念に含まれているものを多少なり含んでいたのであり、従って、すべてこの最後の革新への歩みだったということができる次第である。しかし、ものごとがこうした形をとるのは、遡及的に考察された場合だけである」


進歩——歴史がある方向に向かって進んでいる——というのは事後的に言われるだけである。

歴史を語るとき、ある視点から語らざるを得ないという問題でもあるかもしれない。持続するもの時間的なものはすべからく意識であるが、自己意識にまで高められるのは人間においてのみであり、そこから歴史というものの特異性が出てくるというのが、ドゥルーズの読解だった。

ホネットは『承認をめぐる闘争』において、ベルクソンの影響を受けたソレルの、社会的神話——民衆のネガティブな革命的情動を実定的な法に変換するための言葉——についての論を相対主義として批判し、革命の妥当性を要求できないとしたが、ベルクソンの議論においては、そもそも社会の進化において妥当性は問題とならないのではないか。

というのも、社会の進化のなかで実際に起こっているのは、動的道徳の体現者への憧れによって人々が動かされるということだけなのであり、それが向かう先は事後的に考えられるに過ぎないと言うことになるからだ。妥当性というのは、後から言われる言い訳みたいなもので、実際の社会の運動にはあまり意味がないものとなってしまう。それでいいのか?

まず、進化というのが、進歩のようにある目的の実現なのではなく、潜在的なものの差異化であるはずで、社会の進化もそうしたものであったはずなのだから、そこに優劣はあるべきではない。しかし、人間は自己意識を持ち、自らを変化させることのできる存在ということになっている。ここから、ベルクソンにおいても進歩という話が出てくるような気がする。(多分?)それで、努力とか言いはじめるのか。

事後的な知性の働きが、社会の進化にどう影響を及ぼしうるのか、考えてみなくてはならない。

歴史を語るという営為に、虚構の人物について物語を語る仮構機能は関わるか。

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