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深夜徘徊太郎


 午前四時頃の人気のない道を、「僕」が歩いていた。そいつは気怠そうにしながら酒を飲み、時折苛立ったように頭を掻いたりしている。その様子は、散歩というよりも徘徊に見えた。
 午前四時というのは不思議な時間だ。ある人は夜中だと言うだろう。しかしまた、ある人は早朝だと思っているのである。どんなに日の出が早い日でも、まだ太陽なんて出て来ていないのに。夜中と朝との境界線はどこにあるのだろうか。色んな人が色んなことを言う。
 僕は午前四時を真夜中だと思って歩いてるから、時々向こう側から走ってくる誰かを、通り魔なのではないかと思って不安になったりする。だけども、それはたいていの場合午前四時を早朝だと思っているランナーだ。それから、ごくたまに幽霊だったりもする。僕が見たことがあるのは、男の幽霊であった。なぜ僕にも幽霊だと分かったのかと言うと、彼は僕の真横を通り過ぎる瞬間に姿を消したからであった。
 僕は彼を二回見た。一度目は、僕が缶チューハイを片手に深夜徘徊していたときで、二度目は、僕が缶ビールを片手に深夜徘徊していたときだ。どちらの時も、幽霊は陰鬱そうな顔をして走っていた。別に走りたくはないのに、走っているみたいな顔。そして僕の真隣で消える。場所はいずれも、僕の家の近くの公園の前だ。
 僕は度々、夜中に家を抜け出して街を徘徊した。抜け出すと言っても、大学生にもなってそれを咎められることはないから、こそこそとではなく、堂々とごく普通に家を出る。だけども、僕には抜け出すという言葉がしっくりきていた。閉じられた空間の中から、狭い穴を通って、外に出て行くようなイメージなのだろう。家というのは僕を閉じ込めるための装置なのだと思っていた。
 深夜とも早朝ともつかないこの時間の暗闇の中で、身体と僕は分裂する。身体は闇の中に溶け込んで、バラバラになり、自由を得て駆け回る。一方僕はというと、身体の主人である責任から解き放たれて、彼もまた自由を得る。僕が夜中に出歩くのはそのためだった。アルコールの酔いが回ってくるとなおよい。しかし、あんまりにも酔っ払ってしまうと、肉体はもう戻って来なくなってしまう。だから、ほろ酔いくらいになったら、帰り時だ。僕が幽霊を見たのは、いずれも家に帰る間際だった。
「夜中、幽霊に会ったんですよ」
 最初に幽霊を見た日の夕方、僕は文芸サークルのボックスでノゾミさんに言った。サークルに入ってしばらく経った六月頃だった。ノゾミさんは、二回生の先輩だ。サドとか澁澤龍彦を読むというだけの理由で一部の男子からちやほやされている。先輩と言っても、僕は浪人して大学に入っているから、歳は同じだった。ノゾミさんは、タメ口でいいよと言っているのだが、僕はなんとなくタメ口が使い辛くて敬語を使ってしまうのだ。
「幽霊?なにそれ、不思議くんアピール?」
 確かにその通りかもしれないなと、僕は思った。
 ノゾミさんは、入学当初の僕を面白がってよく絡みに行った。彼女は、僕という人間はやるかやられるかの世界観で生きているのだと考えていた。実際、僕という奴は自分以外全員敵だと思っている。常に身構えて、他人に敵意を剥き出していた。それが彼女にとって面白いのだ。弱い犬ほどよく吠えるという諺をノゾミさんはよく使う。最初、彼女は僕のことを馬鹿にしているのだと、彼は思っていた。だから、彼女に対しても敵意を向けていたが、ノゾミさんはあまりにもしつこく僕にちょっかいをかけるものだから、僕の方が折れたのだった。
 僕のスマートフォンには、ノゾミさんからのメッセージが届いている。明日(日付で言えば今日)二人で遊びに行かないかという誘いのメッセージだった。深夜の散歩から帰るまでに返信しようと思っていたが、どのように返信するか考えがまとまらないまま、もう幽霊を見た例の公園まで戻ってきてしまったのだった。誘いを受け入れるのであれば、返事に悩む必要はないだろう。だけども、僕は彼女の誘いを断るつもりでいたのだ。僕が考えていたのは、誘いの断り方であった。僕は誰かと親密な関係を築くことを極力避けていた。人と深く関わっても、面倒なことの方が多いと思っていたからだ。人と人とが集まれば、必ずそこには対立が生まれる。それでどうせ傷つく、と。それならば、なぜサークルなんかに入ったのかと言うと、ボックスにある本を読みたかったという、ただそれだけの理由だった。
 敵か味方かしかいないのだとしたら、自ら味方を作らないのだから、僕には自然敵しかいない。だけども、ノゾミさんは別なのかもしれないという、甚だしい勘違いを僕はしていた。彼自身もそれを勘違いだと分かってはいたが、彼の身体は彼女に好意的に振る舞った。僕が誘いを断ろうとするのは、そのように彼女に対し好意的に反応する身体をコントロールしようとするからかもしれなかった。僕と身体とが分裂してバラバラになってしまうということは、自由であると同時に恐ろしいことでもある。だけども、普段から身体が思い通りになることなんてほとんどないし、身体をコントロールしようとするというその主体がどこにあるのか、僕にはよく分かっていなかった。ついでに、今このように考えているのが誰なのかもよく分かっていない。僕は僕に対して、三人称的な視点で見ているようなそんな感覚がある。
 身体が全然言うことを聞かないものだから、僕は身体自体が勝手に思考して動いているのだと思っている。その身体の運動に従うことしかできないのだ。それは、集団の中で、僕の意志とは関係なく物事が決定されて行くときの感覚と、似ていた。逆らうべきではないのかもしれないとも僕は思っていた。そう思って、彼はノゾミさんに、誘いを受け入れるメッセージを返信してしまった。あとのことは、僕の知ったことではなかった。
 僕は缶のビールを飲み干した。幽霊がまた、向こう側から走ってきて、消えた。三度目の遭遇であった。

 僕が家に帰った時、母親と弟はまだ寝ていた。父親はいなかった。もうとっくに死んでいる。二年前の夏休み、父親は自殺した。ということになっている。確かに父親は自分の部屋で、首を吊って死んでいた。警察も自殺として処理したし、僕も父親の首吊り死体を見た。だけども、僕は推理小説の探偵気取りで、父親が他殺された可能性を今でも考えている。父親のような人間は誰かに殺されるべきだと、僕は思っていたからだ。
 父親の人との関わり方は、ほとんど暴力だけだった。母親を殴ったり罵倒したりするとき以外は、ほとんど口を開かない。輪の中に入りたそうにおずおずと何か喋っても、的外れなことしか言わない。父親は暴力以外のコミュニケーションの仕方を知らないかのようだった。そのような人間は、誰かから暴力を受けたとき、初めて双方向のコミュニケーションが成立するだろう。だから、父親の死因は他殺であるべきなのだと、僕は考えていた。
 そしてできれば、その犯人は僕であることが望ましかった。それは僕が父親を憎んでいるからである。僕が父親殺しの犯人になりうるためには、そのためのトリックが必要だろう。だけども、まだ、僕はトリックを思いついていない。僕以外が殺害することはできたとしても、どう考えたところで僕が犯人になることのできるような方法が分からなかった。
 その最大の原因は、僕にはいわゆるアリバイがあることだ。ここで少し、父親が死んだ時の状況についてまとめてみよう。
 父親が死んだのは、僕が高校三年生であった八月十五日のことだ。父親は少し高いところにある押入れの取っ手に縄をかけて首を吊っていた。取っ手の高さは百五十センチメートルもないと思う。足が着くくらいの高さだ。それに、もちろんそんな取っ手にたいした耐荷重はないから、父親は地面に落ちた。しかし、それでも死ぬのには十分な時間、取っ手は父親を支えていたらしい。父親はしっかり死んだ。僕は父親が落ちる、どすんという音を聞いていた。またいつものように父親が暴れているのだろうと、特に気には留めなかった。それが、午前三時半頃のことだ。
 その当時、僕と弟は同じ一つの部屋を使っていた。父親が自殺した年、僕は受験生であったから、本来なら勉強をしなければならないのだが、その日は夏休みで遊び呆けている弟と、夜中までゲームをしていた。日付が変わるくらいの時間から、日が昇る直前の午前四時過ぎまで、僕は弟と一緒に過ごしている。それが僕のアリバイだった。
 もっとも、アリバイがなかったところで、父親の自殺を偽装するのは難しい。例えば、首を絞め殺した後から、ロープで死体を吊ったところで、首にロープの跡が残ってバレる。それに、どうやら首を締める場合には動脈までは圧迫されないが、首を吊る場合には動脈も圧迫されるから、死体に現れる反応も違うらしい。だから、寝ている間に、どうにかして吊るす必要があった。その上、父親のような低い場所での首吊りの場合、目が覚めてしまったならば、自分で降りることもできるだろう。だからといって、睡眠剤などの薬を使っても、死体の解剖でやはりバレてしまう。
 父親が死んだ夜、断末魔だとか、そういう叫び声は聞こえなかった。ということは、父親は静かに死んだのだ。首吊りっていうのは結構すぐに気を失うものだと聞いたことがある。そういうものなのかもしれない。ならば、ロープを父親の首にかけて、高いところから引っ張ったり、どこかにロープをひっかけて吊るし上げたりすれば、案外うまく殺せるかもしれない。そうすると、ロープで引っ張り上げる際に、床に引きずられて服がずれてしまうことが問題だったが、それはあらかじめ父親を釣り上げる場所に誘導してから、酔って寝るのを待てばいい。実際、父親の死体の横には飲みかけのビールの缶が転がっていた。
 しかし、この方法の問題は、釣り上げる際に犯人がその場にいなければならないことであった。それゆえ、アリバイのある僕には不可能なのである。
 寝転がりながら、僕は父親が首を吊った押し入れの取っ手を見上げていた。地面から見てみると、取っ手はかなり高い位置にあるように見えた。去年僕が浪人生の時、僕には一人部屋が与えられている。与えられた部屋というのは、まさに父親が死んだこの部屋である。父親が死んだ時とは、内装は変わっていた。父親の体液まみれになった床をそのまま使うのは流石に嫌だろうという配慮だった。もちろん、父親が首を吊ったロープがかけられていた押入れの取っ手も、もう全く別のものに変わっているし、扉自体も付け替えられていた。だけども、押入れの位置は変わらないから、新しく付けられた扉の取っ手の高さは、以前と同じだ。父親が首を吊った取っ手は、無機質な金属で出来ていたが、新しい取っ手は黄ばんだクリーム色をしている。
 この部屋の中に、父親の気配を感じることが僕にはあった。だけどもそれは、夜中の道で見た幽霊とは全く違うのだ。幽霊は、僕の外側に確かに存在していて、視覚を通してしか僕に関わることをしなかったが、父親の気配はこの部屋と僕の身体との関係の中にのみ存在した。つまり、父親の気配というのは、僕がいなくなってしまったら消えてしまうようなものだ。雑な言葉で言うならば思い込み。だけども、もちろんその父親の気配には思い込み以上のものがあった。

 ノゾミさんとの待ち合わせは、午後六時だった。僕が目を覚ましたのは午後五時だ。待ち合わせの場所までは、家から一時間ほどかかる。明らかに、今すぐ急いで支度をするべきだが、僕は布団から出る気にはなれなくて、そのままスマートフォンをいじっていた。ノゾミさんとの約束が面倒くさかったからというのももちろんあるが、僕が起きる気にならないのはいつものことであった。何かに取り憑かれたみたいに身体が重い。身体を思い通りに動かすには、何か動くべき理由が必要だった。目的のためなら身体は動いてくれる。
 結局僕が家を出たのは、ノゾミさんから到着の連絡があった後のことであった。
「ごめんなさい、遅れました」
 ノゾミさんは、僕を待っている間、マクドナルドで時間を潰していた。僕は何も買わずに、彼女のいるところまで入って行った。
「遅い」
 ノゾミさんは、いつも取り繕うことをせず、率直な物言いをする。サバサバした性格という風にも言えるかもしれないが、どちらかと言うと彼女は本音と建前を使い分ける術や、感情を隠す術を知らないと言った方が近い。彼女は、すぐ怒り、すぐ笑い、すぐ泣いた。
「もう七時半だし、今から本屋行ってもすぐ閉まるから、晩ご飯食べに行こ」
 そう言うとノゾミさんは、トレーを持って立ち上がった。ノゾミさんの服は、少女的なフリルのついた水色のワンピースだった。ノゾミさんは大人びた顔をしているが、不思議と可愛らしい服が似合う。
 ノゾミさんと入ったのは、どこにでもあるような居酒屋だった。僕らが通されたのは、落ち着いた雰囲気の個室だ。チェーン店の居酒屋の中でも決して安い部類には入らないだろうなと思って、僕は財布の心配をした。
 僕とノゾミさんは、料理を何品かと、ビールを注文した。ノゾミさんは、お酒に強い方ではなかったが、よく酒を飲みに行っていた。
「そうえば、今朝また、幽霊見ましたよ」
 注文を待っている間、僕は言った。僕から人に話題を振ることは普段あまりなかったが、ノゾミさんに限っては別であるらしかった。
「よく幽霊見るなあ。酔っ払って、幻覚でも見てるんじゃないん?」
「アルコールで幻覚は見れませんよ」
「じゃあ、死んだお父さんが会いに来てくれてるんだ」
「そんなんじゃないです。顔はいつも見えてますけど、父親とは別人ですもん」
「じゃあ、誰の幽霊だろ」
 僕は少し考えた。思い当たる節がないではなかった。
「うーん、その幽霊、少し僕に似てるんですよね」
「え、マジ? ドッペルゲンガーじゃん」
「いや、そんなそっくりって言うほどではないんですよ、なんとなく雰囲気が似てる程度で」
「美濃凶作郎、読んだことある?」
「いや、ないです」
 ノゾミさんと僕とでは読む本の分野が全然違った。それにしても、作家の名前くらいはなんとなく分かるつもりでいたが、聞いたことすらない作家だった。
「名前の通り岐阜出身の、新青年で小説書いてた大正時代くらいの作家なんだけどね、怪奇小説ばっかり書いてて、夢野久作の友人で、江戸川乱歩とかとも知り合いで影響受けたみたいなんだけど、その美濃の作品でね、似たような話があるんよ」
「『太郎奇譚』っていう小説なんだけどね、主人公の太郎は偏屈な奴で村の人間からは、嫌われてるんだけど、頭は結構いいわけよ。それで東大に入るんだけど、進学して東京に住んでるときに父親が夜中に殺されちゃうの。なのに、その犯人が太郎だって女中が言うわけよ、血まみれの太郎を見たって。他にも目撃者がいるの。でも、下宿の女将は太郎がその晩、夕食食べるの見てたし、アリバイはあるのね。当時、東京から岐阜なんて晩に出てその日中に着くなんて無理だし。ここまではありがちな推理小説なんだけど、すごいのがここからで、太郎は自分が犯人で、女中が見たのはもう一人の自分なんだって言うわけ。誰かを庇おうとして言ってるわけじゃなくてね、調べても太郎が庇いそうな人物なんていないし。でも、ここにいる自分は自分であって、自分でない、自分はあらゆる所に存在しているとか、訳の分からない誇大妄想を語り出すわけ。裁判でも、そうやって証言するものだから、みんな困り果てちゃって」
「それと、幽霊の話と、どう関係があるんですか?」
 ノゾミさんは、少し考えていた。彼女の話す物語は、僕が父親親殺しの犯人になるようなトリックを考えていたことと少し似ていたが、彼女はそんなことなど、知らないはずであった。
「うーん、なんだろ、太郎も君も、偏屈だってところ?」
 彼女は、そう言って笑った。

 店を出たときには、ノゾミさんはべろべろに酔っ払っていた。夜の暗闇と街の灯りとがせめぎ合うその境目の上で、彼女の脚はふらふらと、前進運動を繰り返す。脚はもはや、身体を支えるための器官ではなく、自由な動きを楽しんでいるように僕の目に映った。
 ちなみに、美濃凶作郎なんていう作家は存在しない。ノゾミさんが口から出まかせを言っていただけだ。僕はそれをさっきグーグルで調べて知った。
「太郎くーん」
 ノゾミさんは、そう言いながら僕に抱きついてきた。僕は太郎ではなかった。だけども、太郎だと言われたら、太郎だったような気もしてくる。ノゾミさんを振り払うべきか、どうするべきか迷った。
「なんですか? 自分でちゃんと歩いてくださいよ」
「えー、いやだ。太郎くんに介抱してもらう」
「ノゾミさん、酔ったらこんなことになるんですか?もう飲みに行きませんよ」
「へへー、こうやって甘えるのは、太郎くんだからだよー」
「僕は太郎じゃないです」
「君は太郎だよ」
 ノゾミさんは訳の分からないことを言った。
「ねえね、太郎くんさ、私と付き合う気ない?」
 ノゾミさんは媚びるような目で僕を見た。わざと酔ったフリをしているのだなと僕は思った。そう気がついた途端、美濃凶作郎の話がそうだったように、僕にはノゾミさんの言動全てが嘘であるように感じられて、彼女が僕のことを騙そうとしているかのように思えた。あたかも二人の間には対立なんてないかのように装い、僕を対立の渦中へと引きずり込もうとしているのだ、と。僕は腹を立てた。押し当てられたノゾミさんの胸がぶよぶよとして気持ちが悪く感じられる。彼女に対する嫌悪感ばかりが募っていく。
「いやですよ。離れてください」
 僕がそう言うと、ノゾミさんは泣き出してしまった。
「ええ、いやなの? 私のこと嫌い?」
 涙を拭ったせいで、赤色のアイシャドウが擦れて広がった。僕の服の袖にうっすらと赤い色のついた涙がこぼれた。じゅくじゅくと泣くノゾミさんの声は、耳障りだ。僕は彼女を振り払おうとしたが、出来なかった。だから殴った。
 ノゾミさんを殴ると、彼女はケロッと泣き止んだ。殴るつもりはなかったから、僕は少し戸惑っていた。謝るべきかなとも思ったが、振り払おうとしただけなのだから、正当防衛だとも思う。いずれにせよ、身体が勝手に動いたのだった。
「酷い。そんな奴だとは思わなかった。死ねよクソが」
 ノゾミさんは、怒りをあらわにしてそう言うとスタスタと歩いて帰って行った。やっぱり、さっきの千鳥足は嘘だったのだと思った。終電が迫ったこの時間の繁華街には、沢山の酔っ払いが歩いている。ノゾミさんは、その中に消えていった。
 店の明かりに照らされた歩道のど真ん中に、ゲロが落ちているのに気がついた。まだ新鮮なゲロだった。僕はそのゲロをわざと足で踏んだ。何もかもが嫌になった。

 今日は深夜徘徊をせずに大人しく家で寝ることにしたらしかった。僕は家に帰ると、すぐに布団に入った。だけどももちろん、昼夜逆転した生活リズムはそう簡単に治るものではないから、寝ることはできない。寝られないのには、結果としてノゾミさんに暴力を振るうことになってしまったことを、僕が気にしていたからというのもあった。向こうにも非があると考えていたから、反省しようというつもりは全くないようだが、後味が悪いのだろう。人を殴るという行為が、憎んでいた父親のことを思い出させたのかもしれない。
 ノゾミさんを殴ったのは僕の身体であって、僕ではないのかもしれないと、考えてみた。感覚としては案外しっくりくる考え方である。ノゾミさんを殴ったのは僕であって僕でない。ノゾミさんがでっち上げた太郎の話を思い出しながら僕は考えていた。
 布団に入ったままで、全く寝られそうにないから、僕は冷蔵庫から、母親が買い溜めしてある缶ビールをこっそり取って行って、部屋で飲むことにした。もうこれ以上目を覚ました状態で、ノゾミさんを殴ったことを考えたくはなかった。
 リビングには、弟がいた。弟は今年高校三年で、受験生だ。弟は兄が部屋から出てきたのを見ると、何度か気まずそうに顔を逸らして、それから、俯きながら兄に向かって喋り出した。
「にいちゃんさ、明日、父さんの三回忌じゃん?」
 言われるまで、僕はそのことに気がついていなかった。夏休みだから、日付の感覚がまるでなくなっていたのだ。
「あのさ、父さんを殺したのは、俺だって言ったら、どう思う?」
  僕はその言葉に驚いた。僕はあの晩、弟と一緒にゲームをしていた。それが僕のアリバイだ。ということは、それは弟のアリバイでもあるはずなのだ。彼が父親を殺せるはずがなかった。
「えっと、さ、父さんが死ぬ一週間くらい前にさ、俺、父親さんと喧嘩して、死ねって言っちゃったんだよね」
 呆れてしまった。そんなしょうもないことで気に病んでいる弟のことを、僕は心底見下した。僕は適当に聞き流しながら、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「いや、それはないよ。だって、父さん殺したの、にいちゃんだもん。にいちゃんが、父親さんの首を吊るし上げて殺したんだよ。このこと誰にも言うなよ」
 缶ビールをぷしゅっと開けて、一口飲んでから、僕は言った。ノゾミさんの虚言癖が移ったのかもしれないと思った。
「冗談でもそう言うこと言うなよ、あの日は俺とゲームしてたし、それに、にいちゃんが父さん殺すわけないだろ」
「あのな、よく聞けよ。ゲームをしてたのは、にいちゃんであってにいちゃんじゃなかったんだ。父さんを殺したのは、もう一人のにいちゃんなんだよ。にいちゃんはどこにでも存在するんだ。深夜徘徊してる時に、三回、にいちゃん自身とすれ違ったこともある」
「訳分かんないこと言うなよ、からかうな」
 弟はどうやら本気で怒っているようだった。僕は冗談の分からない奴だなと思ったが、言っている内に自分でも冗談なのか何なのか分からなくなってしまっていた。
「からかってなんかないって、まあそのうち分かるさ。おやすみ」
 そう言ってから、僕の手はレバータイプのドアノブを開けて、僕の身体は僕の部屋に入っていった。「僕の」の「の」という単語が気に食わない。所有の「の」であるはずだが、もうアルコールが回ってしまって、身体は僕の所有を離れている。いや、元から身体が僕の所有物であったことなんてないだろう。僕が身体を所有できているのであれば、もっと上手くコントロールできているはずだ。さっきだって、ノゾミさんの出鱈目のパクリみたいなことを口走るつもりなんて全くなかった。僕の身体を動かしているのは僕じゃなかった。何か人に嘘をつかせる妖怪でもいるのかもしれないと、僕は思った。ノゾミさんの言動が全て嘘だったのも、僕が嘘をつくのも、同じ妖怪のせいなのだ。僕が彼女を殴った瞬間に、その妖怪は僕に乗り移ったのかもしれない。
 僕はビールをごくごくと、胃に流し込んだ。僕が座ったのは、父親が死んでいた場所だった。ちょうど、押し入れの取っ手の真下。

 僕は取っ手の下で、酔っ払って完全に寝ていた。午前三時頃。恐らく皆、今の時間を夜だと思っているはずだ。たしかに、真夜中に違いなかった。
 幽霊は座りながら寝ている僕を上から見下ろした。僕を殺す。父親を殺したのと同じ場所で、同じ手口で。縄を持って、ゆっくりと僕に近づく。まるで足のない幽霊みたいに、静かに。音を殺して、光を殺して、意識を殺して、己を殺して。縄を僕の首にかけて、扉の取っ手にかけて、後は引っ張るだけだ。
 その時、僕がかさかさと衣擦れの音を立てて、動いた。開いているのかいないのか、分からないぐらいの薄目を開けて、上を見る。
「幽霊?」
 僕は、寝ぼけた舌っ足らずな声で言った。僕の寝言に、「そうだ」と答えてやるべきかどうか、迷った。だけども、今声を出して僕の目を完全に覚ましてしまってはいけない。だから、辞めた。
 僕は自分の首にかかった縄に気がついていないようだった。僕がまた目を瞑った時、縄を引いた。
 人というのは結構重い。死ぬまで持ち上げ続けるのには無理がある。僕が考えたトリックとも言えないような殺し方の弱点はそこにあった。だけども、概ねいい線はいっていて、改善点はひとつだけ。実際の殺し方では、縄は引っ張るのではなく、重いものに固定する。破片が飛び散らないようにビニール袋に入れたブロックなんかが最適だ。もちろん、ブロックだけでは人間の重さと釣り合わないから、ブロックの上に体重をかけるのだ。
 ブロックに結びつけた縄を引っ張ると、僕の身体が半分持ち上がったくらいの時、ばきんという音がして、張りつめられた縄の緊張が解けた。扉の取っ手が折れたのだった。リフォーム後に取り付けられた取っ手は、以前のものほど強度がなかったらしい。誤算であった。
 僕は落ちた衝撃で目を覚ました。

 僕はさっき、部屋の中で、幽霊を見たような気がしていた。スマートフォンで時間を確認すると、午前三時半くらいだ。ロック画面にはノゾミさんからのメッセージの通知が表示されている。僕は眠たそうに目を擦った。しかし、実際には眠気などほとんど感じていないはずだ。目ヤニをとろうとしただけである。だけども、一時間も寝ていないのだから、目ヤニなどついていない。
〈今日はごめん、酔っ払ってた。私も全部忘れるから、君も忘れて〉
 ノゾミさんからのメッセージだ。僕は無視した。しかし、このまま実際に昨日の出来事を僕の記憶の片隅に追いやって、考えないようにするのであれば、やはり忘れて欲しいという彼女の希望を聞き入れたことになるかもしれない。そういう風になるような気が、僕にはしていた。
 床に、薄汚れたクリーム色をした、押し入れの扉の取っ手が落ちていることに僕は気付いた。
 午前四時。僕はまた、家を抜け出して徘徊をすることにしたらしい。部屋着のまま玄関に向かっていた。靴下も履いていないから、サンダルを履くべきであったが、今あるサンダルはすぐに靴ずれした。裸足のまま運動靴を履くのと、靴ずれしやすいサンダルを履くのと、どちらの方がよいだろうかと、僕は考え、何も履かずに裸足のままで外に出ることにした。裸足に決めたのは、単なる思いつきでもあったし、選択をするということを避けた結果でもあった。
 昼間ならば裸足では立っていられないくらいに熱くなるアスファルトも、もうとっくに冷たい。アスファルトがまだ冷えているうちは、夜なのだと僕は思った。足の裏が痛かった。
 僕はまた、いつもの徘徊コースを歩き始めた。いつも同じ道ばかり通る。前の個体が出した分泌物の跡をつけていくアリのように、毎日毎日、昨日の僕の跡を辿り続けていた。だけども、それは働き者だからというわけではない。遺伝子に書き込まれた習性のようなものだ。
 僕はとぼとぼと歩きながら、公園の方に近づいてきた。アスファルトに当たる足が痛いのか、いつもより歩くペースが遅い。
 僕は、公園の前で、幽霊を見た。いつものように走ってはおらず、立ち止まってじっと僕を見ている。四度目の遭遇だった。
了   


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