2024年7月13日(土) 終わった。 とうとう終わった。 終わったのだ。 やり切った。 十分満足したし、それ以上でも以下でもダメだった。 今日、こんなにも晴れやかで嬉しい感情になるとは思っていなかった。 施設を出た時、スキップしたいほどだった。 思えば、4年ほど前、母が肩を骨折したのが始まりだった。 それまで1人で暮らしていた母が、介護なしでは生きられなくなった。 手術してリハビリ入院している間に、私には準備の時間があった。 母と一緒に暮らし介護をするか、それ
全力で眠る 私は30代の時、極度の不眠症になったことがある。 仕事が忙しく、子育てにつまずき、恋愛に不安を抱えていたのが原因だ。 子供が学校に行けなくなっても、私は仕事をやめられず、毎日、23時過ぎまで残業し、 地下鉄に飛び乗って帰宅。 帰ると、子供たちに適当にご飯を食べさせて、12時過ぎにバタンキュー。 布団に入るとすぐに入眠するのだが、1時間後に目が覚め、トイレへ行き、明日の仕事の段取りを考えながらまた寝る。 そして、そのまた1時間後に起き、ヤバい!明日、こ
今年(2024年)の3月に、心斎橋大学で、「いしいしんじ先生」の特別講座を受講することができた。 私は熱心な読書家ではないので、実は存じ上げなかったのですが、有名な作家さんの1人だったのですね。 スタートからお話がとても面白くて、私は夢中になってメモをとった。 特に、書き方のテクニックなどを教えてくれたわけではなかったが、 1番印象的だったのは、小説の書き始まりだった。 まずじっと待つ。 ただ、ひたすら待っている。 すると、急に「始まる」 「こう始まるのか」
私の母は、背が低い。 もともと、142cmで足のサイズは、22.5cm。 顔立ちは美人ではないが、可愛らしさが売りだった。 その母も80歳近くなると、だんだん腰が曲がってきて、見た目は、120cmくらいに縮まってしまった。小学校1年生くらいだ。 気丈で頑張り屋の母は、市内のマンションで一人暮らしをしていたが、2020年の夏、寝苦しい夜にトイレに起きた。 枕元に置いてあった水差しとコップを、一旦キッチンに持って行こうと立ち上がった時、バランスを崩してしまい、転倒した。
紫陽花のように美しくみずみずしい文章を書いてみたいものだと思い続けて十数年が経った。 漠然と、心のうちにあるものを吐き出してみたい。言語化したいと思いながら、スマホで人の文章を読んでいたら、ふと、 「note」に出会った。 プロも素人も、何かやりたい人も、特に希望も欲望もない人も、いろんな人が文章を発信していた。 素晴らしい 私も書いてみようか!と気楽な気持ちで始めたけど、 なんだかしっくりこなくて、しばらく休眠していた。 その間に、母の介護が本格的になり、仕事
おはようございます。 こんにちは。こんばんは。 私は、向井理子(むかいみちこ)と言います。 「みっちゃん」もしくは「りこちゃん」と呼ばれています。 1968年生まれ 申年(さるどし) 双子座 動物占ライオン A型 現在56歳 愛知県名古屋市在住 ◯保育園を創立した両親に育てられる ◯よく動き回る幼少期をすごす ◯運動と音楽が大好き ◯中学生の時に、ジェームスディーンのような容姿のめちゃくちゃかっこいい不良に片想いをしていた。恋は実らないと諦めていたが、20歳で彼と再会し
今日は大切な用事で大阪に向かっている。 どれどれ、久しぶりにnoteでも書いてみようか? 自分の記事は何度も読むけど、人の記事を読んでいないので、みんながどんな記事を書いていらっしゃるのかわからない。 ごめんなさい。 さてと、11:00ちょうど、名古屋発の「ひのとり」に乗車したのだが、今回は、初めて「プレミアムシート」なるものに座ってみた。 私はいつものごとく、近鉄のホームにあるコーヒーショップで380円のコーヒーを買って乗り込んだのだが、なんと!プレミアムシートの
「生きるとか死ぬとか父親とか」 最終話、見終わりました。 トッキーさんの役が、吉田羊さんで本当に良かった。 トッキーさんは、スーさんではないけれど、すっかりスーさんと同一人物として、見ていました。 スーさんって、強くて言葉の天才で、仕事ができて、友達からも信頼されて、ラジオでは相談者さんの本質を読む力や、行間に隠された、本当の気持ちを汲む力に長けた人っていうイメージでした。 もちろん、その素地のイメージは今も変わらず抱いていますが、 吉田羊さん扮する、トッキーさん
夜勤中に、留守電が5回も入っている。 また、いつもの「子犬がたくさんいるから、助けに来て〜」かな?と思って無視していた。 朝方4時位に今度は、看護師をしている妹からLINEが入る。 「お母さんが腕を骨折したらしくて、救急車で運ばれてる」と。 夜中の着信が1:30頃。 妹からの連絡が4:00頃。 その間、何やっていたんだろう?一人痛くてのたうちまわっていたのだろうか? 当時、79歳になっていた母は、持病のパーキンソン病と付き合いながら、1人で生活をしていた。 私
母は、保育園の園長先生だった。 母の理想の保育園を作り上げていく姿に、娘はいつも感心していた。 その中の一つの取り組みが、給食の時に使っていた、プラスチック容器から、陶器の食器に変えたこと。 母に取材してみた。 私「お母さんって、なんで保育園の食器を陶器にしたの?保育士さんや調理師さんに、反対されなかった?」 母「反対されたよ。特に調理師さんにはね。」 私「でも、陶器にしたんだ。なんでそこまで?」 母「時代の流れだったのと、何より、私がプラスチックで食べるの嫌だ
朝から下剤を飲み飲み、大腸検査へ。 母は、普段からかなりの便秘。 そして体も人一倍小さい。 よって、この下剤がかなりご負担でしたようで、 全ては飲みきれず、しかしながら、ウンチは割としっかり出て、いざ、ブラザー病院へ。 先日の女性の優しい先生とは打って変わって、今日は、男性の中年先生でした。 お尻の穴からカメラを挿入して、念入りに見ていくと、小さなポリープが一つ。 ジョキッと切除してもらいました。 ポリープを切除したので念のために1泊入院。 部屋は個室で、と
母の自伝を書こうと思い立ち、タイトル、何が良いかなー?と考えています。 「娘から母へ、あなたの伝記」 にしようかなー?と、今朝、閃きました。 さて、昨日は、22歳までの年表が完成しました。 かなりハイペースですすめられた。わーいわーい。 さて、母の生まれた頃の話 お父さん(文五さん)が、エアコンの設計をしていたため、大阪にいた。 母は、大阪のセントバルナバ病院で生まれた。 大正時代の建物のような、レンガ造りの病院で、中には螺旋階段があった。 セントバルバナ病
祖父(文五)が軍隊に入隊後、徳島の山奥に、祖母(隆子)が面会へ行った。 帰りの電車がアメリカ軍に爆撃された。狙われたのだ。 祖母にはあたらず助かったが、同じ車両に乗る多くの人が一瞬のうちに命を亡くした。 祖母は、飛行機を操縦する若いアメリカ人の顔がはっきり見えたと言う。 その若者は、ニヤリと笑っていた。
今日は、朝から実家にいられるので、なんとか聞き取りが成功したら良いなと思い、カレンダーの裏に、年表に年号を書いてみた。 すると、母も覗いてきて、生まれた頃からの話をし始めた。 しめしめ。 かなり幼少の頃の記憶がハッキリしていて、聞き取りもサクサク進む。 1940年生まれ。 大東亜戦争勃発が、1941年なので、生まれてすぐに戦争が始まったことになる。 生まれてから4歳頃までは、大阪に住んでいて、戦争が激化してきて、祖父の船で、徳島に家族で引っ越し。 とつとつと話し
母の自伝を書くと決めたが、まだ母の同意が得られていないので、 日常会話から、少しずつ、ここにメモとして残してみようチャレンジ。 今日は、母に洗濯物を干すように頼まれた。 大概、私の干し方は「なっとらん」らしく、小言を言われることが多い。 そう。私は大雑把。母は几帳面なのです。 私が子供の頃は、母も父も保育園の園長をしていたので、2人とも等しく忙しくしていた。 もちろん、家事も分担。 母は、主に食事全般。買い出しから調理、後片付けまで。 父は、掃除、洗濯、子供の
今、ブラザー病院の5階で書いている。 母の胃カメラ検査の付き添い。 強い母は、胃カメラ検査を麻酔なしで受けている。スゲー。 前々から、母の歴史や想いや大切にしてきたこと、そして、感情なんかを書いてみたいと思っていたが、 というか、母が残したいと言っていたが、 母は、もう字を書くことが難しく、誰かが手伝ってあげないと、記録として残さないのだ。 胃カメラを頑張って受けている母を見て、私の決意も固まった。