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小説「まなざし」

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交通事故で聴力を失った女性、瞳美と彼女と生きることを選んだ恋人の真名人。音のない世界で、彼女のまなざしは何を語ろうとしていたのか。 普通の恋人と同じように愛し、すれ違い、味わうこ…
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#社会人

まなざし(最終話) 伝えられる言葉

まなざし(最終話) 伝えられる言葉

土曜日の朝8:00、彼女が玄関から出ようとしていた。
今日はシフトで介護の仕事が入っているというので、彼女だけが仕事に行く。一ヶ月に数度、週末に仕事が入る彼女にとっては当たり前の日常だ。
「いってらっしゃい」
普段は7:30に家を出る俺の方が彼女に見送られているので、時々こうして彼女を見送れる日があることはいいことだ。
「いってきます」
いつものように手話で答えてくれる瞳美は、目元から微笑みを浮か

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まなざし(37) たった5文字

まなざし(37) たった5文字

「だ、い、じょーぶ、で、す」

誰がどう聞いても彼女の本来の声ではないと分かる声色だった。
けれど言葉を覚えたばかりの子供のようにゆっくりと放った言葉は、母の肩を震わせ、頭を上げさせるのには十分強力だった。

「瞳美ちゃん、あなた……」

言いたいことは分かった。
きっと母は「喋れるようになったのね」と続けたかったのだ。でも母さん、それは違うよ。瞳美は前から“喋れない”わけじゃない。今みたいな発声

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まなざし(35) 迷わずに

まなざし(35) 迷わずに

看護婦さんに彼女の居場所を聞くと、俺が眠っていた病室のすぐそばにある部屋にいるらしかった。自分たちのいる病棟は軽度の患者が入院している棟であるため、瞳美も命に関わるような怪我をせずに済んだらしい。ただ、地震の衝撃で川の土手から落下した際に足首を捻挫していると聞いた。治療のため、しばらくは入院生活になるだろうとも。
しかし俺にとっては、彼女がこうして軽度の怪我で済んだというだけで十分だった。

「え

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まなざし(32) 我が子へ

まなざし(32) 我が子へ

足元から崩れ落ちるんじゃないかというふらつきの中、必死に掴んだドアノブを離すことができなかった。

「なんだよっ、これ!」

経験がないわけではなかった。ただ言葉にしないだけで、地面と視界の揺れの大きさが事の重大さを物語っていた。
台所から、「きゃーっ」という悲鳴が聞こえてきた。父さんが、「テーブルの下に!」と張り上げる声も。
永遠に続くんじゃなかと感じられるほどの強烈な揺れに、真っ先に思い浮かん

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まなざし(31)揺れる視界

まなざし(31)揺れる視界

東向きの部屋に、朝の暖かな日差しが差し込んできた。いつも、朝日のまぶしさに目を覚ますのが日課だった。そのせいで、夏と冬では朝起きる時間が全然違う。冬になると、母親から毎日叩き起こされたものだ。

ああ、起きなきゃ。

自分の部屋の中で床に敷いたお布団からのっそりと起き上がる。昨日の夜、寝る時にふとベッドを見遣った。自分よりもとっくの昔に床についたであろう彼女は、背中をこちら側に向けていた。寝る時に

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まなざし(30) 暗闇の端と端

まなざし(30) 暗闇の端と端

彼のお父さんとお母さんと、その後も他愛のない話をした。
真名人くんは小さい頃、ドジで近所の川に落っこちたことがあること。
小学校の運動会のかけっこで、一番でテープを切る寸前に転んで二位になってしまったこと。
その時、子供ながらとても悔しそうにしていたこと。
真名人くんはどの話を聞いても、
「そんなことあったけー」
「覚えてない」
と知らないフリをしていたが、本当は照れ臭かったんだということを知って

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まなざし(29) 急転

まなざし(29) 急転

真名人くんの実家は、私たちの住んでいる街からおよそ1時間の場所にあった。先週遊びに行った桜川と同じくらい時間がかかるけれど、方向的には真逆。二週連続でちょっと遠くまで足を伸ばすのは久しぶりかもしれない。

この二週間で、とにかく私の人生は急転した。しかしこの感覚は初めてじゃなかった。

14歳のあの日、親友だった佐渡歌が突然この世から去ってしまったとき。
20歳の誕生日、交通事故に遭い、目が覚めた

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まなざし(28) 好きになってほしくて

まなざし(28) 好きになってほしくて

隣にいる彼女が、ぽかんと口を開けて目の前に差し出された婚約指輪を凝視していた。

結婚、という言葉を人生で初めてまともに使ったような気がする。
小学生の時、教室で仲の良い男女がいれば、
「お前ら結婚するんだろー?」
とからかった記憶がある。
高校ではバスケ部の同期の友人が、付き合っている彼女と「結婚したい」と惚気ていたのを聞いて、中島と一緒に「絶対今の女と結婚なんかしねーだろ」と呆れ気味にそいつを

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まなざし(24) 一世一代

まなざし(24) 一世一代

「早坂、今日何時まで?」

日中の営業で外回りをし、夕方ごろ事務所に帰ると同僚の西田遼から声をかけられた。

会社で「今日何時まで?」というのは、つまり今日は何時まで残って仕事をするのかということに他ならない。俺は大抵1,2時間残業をして帰るが、同じ時間まで残業している同僚とは飲みに行くこともしばしば。

「あ、ごめんけど今日は無理だわ」

聞かれなくても分かる。西田は今日、俺と飲みに行けないかを

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まなざし(23) 普通じゃない

まなざし(23) 普通じゃない

最初に一緒に暮らそう、と言い出したのは、俺の方からだった。

24歳でごく普通の商社のサラリーマンとなった俺は、あの頃と変わらずに耳の不自由な彼女と一緒にいた。

「いってきます」

朝、アラーム音が聞こえない彼女を起こすために、毎日6:30には目を覚ます。大学時代、夜遅く寝て朝遅く起きる習慣がついてしまった自分としては、かなり成長したんじゃないだろうか。

(いってらっしゃい)

右手をひら

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