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まなざし(28) 好きになってほしくて

隣にいる彼女が、ぽかんと口を開けて目の前に差し出された婚約指輪を凝視していた。

結婚、という言葉を人生で初めてまともに使ったような気がする。
小学生の時、教室で仲の良い男女がいれば、
「お前ら結婚するんだろー?」
とからかった記憶がある。
高校ではバスケ部の同期の友人が、付き合っている彼女と「結婚したい」と惚気ていたのを聞いて、中島と一緒に「絶対今の女と結婚なんかしねーだろ」と呆れ気味にそいつをあしらったこともある。
どちらにせよ、これまでの人生において、結婚なんて夢見る女の子が描く幻想で、自分たちとは何ら関係もなくて、それを口にする男がいようもんならからかいの対象になるものなんだと思っていた。
なにも、自分だけがそうだったわけじゃない。
周りのやつも、特に男友達のほとんどは、結婚に対して大した思い入れなんか持っていなかっただろう。

それが、いつしか自分が直面する現実になり、あの時一緒にケラケラ笑っていた友達の中にも、交際中の女性と結婚するかもしれないという話をちらほら聞くような年齢になって。

いま、自分事として我が身に降りかかっている。

しかしそれは、間違いなく幸福な現実だった。

俺は、未だ俺の右手の上にある指輪を見つめている彼女の背中にそっと手を触れた。

「俺と、一緒に生きて欲しい」

この日のために覚えたその言葉を表す手話を、彼女の目に映るように、大げさに披露した。
彼女はピクリと肩を震わせ、ようやくおずおずと指輪を受け取り、それをぎゅっと自分の胸に押し当てた。
同時に、うつむいた彼女の顔からキラリと光る涙が滑り落ちるのを見た。

それだけでもう、十分だった。
「うん」も「はい」もないけれど、彼女の答えは明白だった。
言葉など、今の自分たちには必要ない。
彼女の瞳と仕草と表情が、それを教えてくれた。


二人で電車に乗り、一緒に家に帰る途中、瞳美はずっとケースごと指輪を握りしめていた。
逆に俺の方が恥ずかしくなり、
「それ、バッグに入れたら?」
と言っても、首を横に振るだけだった。
よっぽど嬉しかったんだろうか。嬉しいと思ってくれたことがまた、俺の胸の奥をじんわりと温めてくれた。


***


夢を見ていた。
夢の中で、私は自分が交通事故に遭っている場面を上から俯瞰していた。幽体離脱をしたら、こんな感じなのかな。車にはねられ倒れている人物を、実態のない私はどこからともなく眺めることしかできなかった。
それがあまりにリアルで、目が覚めた途端自分がどこにいるのか一瞬分からなかったぐらいだ。
(んん……)
目を覚まして、テーブルの上に四角い包みが置いてあるのが目に入った。
私の隣で、ちょっと前に起きていた彼が大きく伸びをしながら「おはよう」と言う。
ああ、そうか。
ここは私と真名人くんの家。
社会人になってからもう2年も一緒に暮らしているマンションの一室だ。
そして昨日は二人で桜川まで遊びに行った。私の20歳の誕生日に、本当は行くはずだった場所。20歳の誕生日の前日に交通事故で聴力を失ってから、一度も訪れることのなかった地にようやく降り立ったのだ。
一秒一秒過ぎるごとに鮮明になってゆく記憶の糸を手繰り寄せながら、テーブルの上に置かれている四角い包みを再び見やった。
彼からあれを渡された時の衝撃と突き上げるような喜び。それは、家に帰るまでの間に後から後から濃くなったものだ。
受け取った直後は嬉しいというよりも不意の出来事にびっくりして、まともに返事をすることができなかったけれど、言葉にしなくても真名人は分かってくれただろう。
彼と結婚する。
私が彼の気持ちを受け入れて、二人が同じ気持ちになれば、何の障害もなかった。
ないと思っていた。
少なくとも幸せな気分に包まれた今朝、窓から差し込む朝日を浴びている間は、何もかもが上手くいくものだと勝手に思い込んでいた。

しかし、現実はそう簡単には事を進めてくれないのだと、後から思い知ることになる。
私も彼も、大人の社会ではまだまだ初心者で、子供だった。
子供にはどうやっても超えられない壁があることを、本当の意味で理解していなかったのだ。


「瞳美、今日時間ある?」
彼にそう聞かれたのは、一週間後の週末。家でお昼ご飯を食べ終え、皿洗いをしながらこれから何しようかと考えていた時だった。
「今日? うん、空いてるよ」
週末は二人で出かけたり買い物に行ったりすることが多いけれど、あいにく今日は予定がない。
「そうか。それなら、ちょっとついて来て欲しいところがある」
「ええ。いいけど、どこに?」
「俺の実家」
「実家!?」
それって……。
まさかこんなにすぐに彼の実家に呼ばれるとは思いもしなかった私は、洗っていたお皿をシンクの中でガシャンと落としてしまう。
先週といい今日といい、彼の不意打ち攻撃には驚かされる。まあ、そういう決断力のあるところが好きなところでもあるので、非難はできない。
「父さんや母さんに、瞳美のこと好きになってもらいたいから」
その気持ちはとても嬉しいし、私も自分の親に真名人くんのことを好きになって欲しいからよく分かる。
でも……。
私は動揺を隠せなかった。
原因は言うまでもなく、この耳のことだ。
両手を耳に当て、自分の耳を外界から遮断してみる。
いつも通り、そこには無の感覚が広がるだけで、手を離しても何ら変わりない。
当たり前だ。私の耳は正常じゃない。普通じゃないから、外の空気とは隔絶されたままだ。
普通じゃなくても私は働けるし、こうして二人で生活をすることもできる。
でも、それを彼の親はどう思うのだろうか。
偏見で申し訳ないけれど自分の親を含め、自分たちの親世代といえば、ありとあらゆる固定観念に縛られている人が多い。
就職、結婚、子育て……。
そこに何か一つでも周りと違うことがあれば、反対されるんじゃないだろうか。
そう思うと、私は彼の提案に、すぐには頷けなかった。うんと言いたかったけれど、無理だ。

「私、行けないわ」

本当は否定なんてしたくないのに、気持ちとは裏腹に、手話で否定の意を唱えた。

「どうして?」

それでも優しい彼は、全く取り乱すことなくその理由を手話で問いかける。

「だって、怖いから……」

ついついポロリと出てしまう本音。もっと明るく振る舞わなければ嫌われてしまうかもしれないという恐怖はあった。せっかく勇気を出して結婚を申し出てくれた彼に対して失礼だという気持ちも、もちろん。
けれど、それ以上に襲ってくる不安が、私に手放しで「うん」と言わせることを拒んだ。

「怖い、か。そりゃそうだよな」

彼にだって、私の躊躇はよく分かると思う。難聴という壁を二人で一緒に乗り越えて来たからこそ、その苦楽は彼も知っている。だから、「瞳美の気持ちは分かるよ」と言ってくれた時には心底安堵した。

「ええ。だからやっぱりもう少し———」

私にはまだ時間が必要だと思う。
そう、伝えようと思った。
しかし彼は、そんな私の手話を手で制して、代わりにこう続けた。

「心配しなくていい。瞳美には何も気にすることなんかないから」

「え?」

「俺の親なら大丈夫。俺と血の繋がった家族なんだからさ、きちんと話せば分かってくれるよ」

「そうかもしれないけど……」

「それに今を逃したところで、同じだと思うんだ。怖いという気持ちから逃げて先延ばしにしても、後から立ち向かわなくちゃいけないのは一緒だろ。だからできるだけ早いうちに、瞳美のこと、俺の親に知って欲しい」

言われてみれば確かにそうかもしれない。
たとえ今日彼のご両親に会うとしても、何も今日その場で私たちの結婚を受け入れろなんていう話をするわけじゃない。ただ私はこういう人間で、真名人くんとお付き合いをさせていただいていて、近い将来に結婚するかもしれない。そのことを、伝えるだけでいいのだ。結婚に対して賛成とか反対とか急に迫るわけじゃない。

彼の言葉を聞いて、だんだんと頭が冷静に働いてゆくのが分かった。自分の中で少しでも怖いとか不安だとかいうネガティブな感情が芽生えると、やはり冷静ではいられなくなる。
それが収まって良かった……。

「分かった。今日、いこう」

「うん」と口にした途端、あれ、案外大したことないのかもという感覚に陥るから不思議だ。
私はきっと大丈夫。
真名人くんもついているし、これまでだって職場での新しい人間関係の中で上手くやれてるんだから。

「ありがとう、瞳美」

彼の優しい声が、耳の奥で聞こえた気がした。

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