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まなざし(最終話) 伝えられる言葉

土曜日の朝8:00、彼女が玄関から出ようとしていた。
今日はシフトで介護の仕事が入っているというので、彼女だけが仕事に行く。一ヶ月に数度、週末に仕事が入る彼女にとっては当たり前の日常だ。
「いってらっしゃい」
普段は7:30に家を出る俺の方が彼女に見送られているので、時々こうして彼女を見送れる日があることはいいことだ。
「いってきます」
いつものように手話で答えてくれる瞳美は、目元から微笑みを浮かべている。
瞳美、母さん、俺と父さんで食事に行ったあの日から、彼女の表情は明るい。
彼女の中にあった不安、恐れ、もやもやとした気持ちが一気になくなったのだろう。
「今日も仕事、頑張れよ」
「ありがとう」
俺の実家で大きな地震が起きた日、知らない間に彼女が家を飛び出したことが俺の中で衝撃的な出来事として記憶されている。もう二度とあんなことがないように、毎日お互いに出かける前はこうして声を掛けるのだ。

パタン、と玄関の扉が閉まった。彼女が出かけていったあとの家の中は妙に静かだ。普段彼女は賑やかな人ではない(というか喋らない)のだけれど、家の中にいれば確かにその存在を感じられる。声を発しなくたって、そこに体温があるなら分かるものだ。
「さて、と」
一人で家にいる時にやることといえば、漫画を読むかゲームをするかの二択だったが、今日はひとまず洗濯をし、部屋を片付けた。普段は瞳美が家事をしてくれるのだが、週末に彼女がいない日は俺がこうして動く。もっとも、普段も彼女には「そんなに家事をやってくれなくていいから」と言っているが、「気づいたらやっちゃうのよ」と笑って答えていた。介護の仕事をしている彼女の血が騒ぐのだろうか。でもやっぱり、いつもいつも彼女に任せてばかりはいられないと思う。

それに、俺たちはもうすぐ結婚する。
一年以内には籍を入れようと思っている。
それゆえの、覚悟でもあった。

「ふう」
洗濯がひと段落し、ダイニングでコーヒーでも飲もうかと思いコップを用意していた時に、ふとテーブルの上にあるものが目に留まった。
「瞳美のか」
水色の表紙が特徴的なB6サイズのノートだった。
俺たちの家では筆談用にノートを多用しているため、ノートがその辺に置いてあること自体は不思議ではないのだが、今テーブルの上に置かれているものは筆談用ノートではない。
瞳美の私物だ。
なんでここに置いてあるんだろう。書き物をすることが多い彼女のことだから、またエッセイでも綴っていたと考えられるが。昨日の夜ここで何か書いて、しまうのを忘れていたんだろうか。

ほんの出来心だった。
俺は無造作に置かれた水色のノートをそっとめくってみた。
俺は彼女のエッセイを、読んだことがない。
読んで聞かせてくれたことならある。
でもそれは、彼女が「俺に聞いてもらう用」として書いたものだろうし、それだってかなり前、学生自体の話だ。
だからこうして彼女の文章をまじまじと眺めるのはもっぱら初めてのことで、気づかないうちに心臓の動きが速くなっていた。

日記の始まりは彼女が交通事故に遭い、目覚めた日2020年6月7日からだった。
だがその前の始まりの1ページにはこう書かれていた。

7月11日
今日、編集サークルの皆と再会した。
皆変わってしまった私を見ても、変わらずに優しく接してくれた。
嬉しかった。
だから私は自分らしく、この日記を続けていこうと思う。
どんな人の人生にもそれぞれの物語があると信じて。

それは、この日記に対する彼女の決意だった。病院を退院して、初めてサークルのメンバーと顔を合わせたんだろう。

俺は彼女の決意を心に留め、すっと次のページをめくり、中身を読み始めた。
彼女の日記には、事故を起こしてからの毎日が、リアルな実感をもって書かれていた。
耳が聞こえないと知った時の絶望、友達に理解してもらえた時の喜び。中でも、日記の中で何度も「真名人くん」と書いてくれていたのが妙に照れ臭く、同時に嬉しかった。

2024年9月21日
真名人くんと桜川まで遊びに行った。
私の20歳の誕生日に、行くはずだった場所。
そこで彼から結婚しようって言われてびっくりした。

でも、泣きたいくらい嬉しかった。

俺があの時抱いていた高揚感が、彼女の日記を通して鮮やかに蘇る。
この四年間、彼女は1日たりとも休むことなく日記を書き続けていた。彼女にとって、毎日の情感を綴ることがどれほど生きがいだったのか、これを見れば明らかだった。
最後の、本当に最後のページは昨日。
「あれ……」
最後のページを見ると、他のページとは明らかに違うことがあった。
「長いな」
そう、長い。
他の日記が大体3~4行くらいで終わっているのに対して、1ページ全ての行が埋まっている。
俺は、少し緊張しながらその1ページに綴られた文章を目で追いかけた。

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2024年11月4日

今日はちょっとたくさん書きたい気分だから、奮発して1ページ全て使います。

真名人くん
私が今もここにいられるのは、あなたのおかげです。
あの日、あの大きな地震があった日、私は真名人くんのお母さんの言葉を聞いて、気づいたら知らない町の中で一人彷徨っていました。
夜中だったから、あたりは真っ暗で普通なら怖いと感じたんだと思う。でも、暗闇に対する怖さは少しもなくて、それ以上に他人から向けられた確かな嫌悪を、とても恐れていました。
あまり覚えてはいないけれど、放心状態だった私はとある川を渡り、橋の下で小さくなってそこにいました。
一人きりでいれば、誰かから嫌われることも疎ましがられることもなく、心穏やかでいられると思ったの。
その場所でじっとしていると、普段頑張って誰かと話をしている時よりもずっと、「自分になれる」気がしました。たった一人で、誰の視線も感情もなく生きていく方が、私にとって正解なのかもしれない。
本気でそう思いました。
だから、朝になって地震が起きて、周りを土砂に囲まれてしまったとき、このままずっと、ここに閉じ込められたままでもいい気がしてた。きっと誰も私の存在に気がつかないだろうし、私も外の誰かに助けを呼ぶことさえできない。信じられないでしょうけれど、その時の私には怖いという感情がどこにもなくて、とっても穏やかだった。耳が聞こえなくなってから四年間、私はたくさん苦労したし、知らない誰かに奇異の視線を向けられることもあった。そんなことがもうなくなるのならそれでいいと思ったの。
でもね、そんなとき、信じられないことが起こりました。
「ひとみー!!」
あなたの声が、まっすぐに飛んできたのを私は捉えたんです。
幻聴だと思うのに、その声を聞いたとき、私とても安心した。
他の音は何も聞こえないのに、あなたの声が聞こえたとたん、勝手に涙が出てきた。
ああ、本当は私、もっと生きたいんだって思えた。
あなたの隣でなら、私は生きたいと思った。
だからね、嘘だと思うかもしれないけれど、頑張って声を出してみたの。
自分じゃちっとも聞こえないし、本当に声が出ているか不安だった。でも、精一杯力を振り絞って叫びました。
私はここにいるよって。
そうしたら真名人くんがすぐ近くにいて、私を助け出してくれた。
だから私は今ここにいるんだよ。
真名人くんが、私を暗闇から救ってくれました。
あなたの瞳に見つめられているとき、不安や恐怖が何もかもどこかへ溢れ出して消えてゆくのです。
真名人くんは私を日向に連れて行ってくれる。
だから私は今日も笑っていられるんだと思う。
ありがとう、本当に。
ずっと私のそばにいてくれて、ありがとう。

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気がつけば俺は、溢れ出る涙を拭っていた。
「こんなの、反則だろうっ……」
今日は俺の誕生日でも、二人の記念日でもない。なんのサプライズなんだ、と考えたけど、多分違う。瞳美は、今心に感じていることをその時その一瞬のうちに、言葉にして閉じ込めたのだ。何かの日であるとか、サプライズだとか、そういうのじゃない。関係ないんだ。彼女にとって、今書き留めていたいことをただここに綴っただけなんだ———。

それでも、今とても心が温かい。
彼女の言葉が、俺の心をいつも慰め、退屈な毎日に色をつけてくれる。今までもこれからもきっと。

「ありがとうな、瞳美」

瞳美が喋れなくたって、彼女のまなざしが、俺にいつも伝えてくれていた。
「ありがとう」や「大好き」が、いつだって聞こえてくる。

今日、彼女が仕事から帰ったら言おう。
いつもと同じ、「おかえり」を言おう。
それから、大切なことを言おう。
「ありがとう」も「大好き」も簡単に伝えられる言葉が、あるじゃないか。

瞳美。

俺はきみを心の底から愛しています。

【まなざし 終】

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