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まなざし(30) 暗闇の端と端

彼のお父さんとお母さんと、その後も他愛のない話をした。
真名人くんは小さい頃、ドジで近所の川に落っこちたことがあること。
小学校の運動会のかけっこで、一番でテープを切る寸前に転んで二位になってしまったこと。
その時、子供ながらとても悔しそうにしていたこと。
真名人くんはどの話を聞いても、
「そんなことあったけー」
「覚えてない」
と知らないフリをしていたが、本当は照れ臭かったんだということを知っている。
だって、彼は私と話したことを今までただの一つとして忘れたことがなかったから。
「瞳美さんは、どうだったの?」
真名人くんの話が一通り終わると、お母さんが私のことを訊いてきた。「どうだった」とはどんな子供だったのかということだろう。
「私は……、たぶん、大人しい方だったと思います。ただ、興味のあることを話したり聞いたりする時だけ、やたら興奮していたのを覚えています」
私の話を聞きながら、お母さんは曖昧にうなずいたり微笑んだりしていた。
伝えたいことを、手話で正確に伝えるのはとても難しいことだった。
いくら「大人しい」や「興奮する」ということを手話しても、細かなニュアンスまで伝えられない。まして相手は手話を知らない人となれば、1ミリも話が通じていないのは明らかだった。それでもお母さんは、私の話を聞こうとしてくれた。熱心に目や耳を傾け、私の身体から吐き出される吐息や瞬きのタイミング、頰の微妙な動きを捉えようと頑張ってくれていたと思う。

それなのに私は、自分のことを話し終えてからどっと疲れていた。時々顔をしかめては真名人くんの方を見て、「今、なんて言ってるの?」というように彼に答えを求めているお母さんの姿を見ては、そのまま話すのをやめてしまいたくなった。お互いがお互いに理解しようと一生懸命にも関わらず、双方が疲弊していた。

その間真名人くんのお父さんはというと、「ふんふん」「それで?」と、簡単な相槌を打ってくれていた。そのことだけが、私が自分のことを話すための原動力だったように思う。本当はお父さんにだって、自分の話が伝わっていないことは分かっていた。けれど、少なくともお父さんの方には、楽しい気持ちで話しているのか、悔しいと思っているのか、という気持ちの面が伝わっているのが分かった。こういうのは理屈じゃない。ただ分かるのだ。お互いの目と目を合わせていれば、感情の動きがどれくらい相手の方に流れているのかが分かる。
お父さんには伝わっている———という事実は、私の心を凪いだ海のように押しとどめてくれるのと同時に、お母さんには何もかも伝えられていないという絶望をもたらした。

それは、初めての経験だった。

私は自分の耳がうまく機能してくれないと悟った時から、何度も沈み込み、それでも誰かと交わす表情や息遣いによる会話でまた回復してきた。
最初は確かに不便だと思ったし、言葉が話せないだけでこんなに苦労するなんて知らなかった。言葉が話せないだけじゃなくて、音が聞こえないということは、外を出歩く際に様々な危険と隣り合わせだということも。後ろから近づいてくる車のエンジン音が聞こえない。電車がやってくるというアナウンスも。不意に知らない人から声をかけられてきた時の対処法だって、知らなかったのだ。

けど、それでも何とか立ち直って前向きに生きてこられたのは、いつも完全に人と通じ合えないということがなかったからだ。
皆なんだかんだ私のテンションや仕草で気持ちを汲み取ってくれていた。
何を言っているのか分からなくたって、それで良かった。それだけで救われていたんだ。
真名人くんにいたっては、私のために手話まで勉強してくれた。そこまでしてほしなんて一度もねだったことはないのに、彼自身がそうしたいんだと言ったのだ。
嬉しかった。どんな甘い言葉をかけられるよりもずっと。

だから、今真名人くんのお母さんが困ったような表情で愛想笑いをしているところを見て、ズキン、と心臓が疼いた。

「……」
「……」

私もお母さんもそれ以上何も言えなくなって、気まずい空気の中食事を終えた。
私たち四人とも複雑な気持ちのまま、それぞれ「ごちそうさま」と言って食卓から離れる。
私はというと、手話で「ごちそうさま」をするのがいたたまれなくて、ただ皆がそうするように両手のひらを合わせるしかなかった。

その夜は、真名人くんの家に泊まることになった。
お父さんとお母さんが、「今日はうちでゆっくりしていきなさい」と言ってくれたからだ。
真名人くんの部屋が二階にあるというので、二人でその部屋で寝ることにした。
学習机とベッドがある、ごく普通の男の子の部屋だったけれど、彼がずっとこの場所で生活していたと思うと不思議な気分になった。彼にとっては大学を卒業するまでのほんの二年前まで、過ごしてきた部屋だ。相当な思い入れがあるだろうな。

「瞳美、今日は来てくれてありがとう。ゆっくり休んで」

私のことを気遣って、彼は私にベッドを譲り、自分は床に寝ると言う。申し訳ないと思いつつ、彼の好意に甘えることにした。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

気兼ねなく手話で「おやすみ」をする。その瞬間、張り詰めていた緊張の糸が少し緩んだ気がした。

はっと、目が覚めた。
寝る時に時計の音すら聞こえない私は、普通の人よりもすっと寝られることが多い。
しかも、いつも一度眠ってしまえば朝までぐっすり。
でも、今日はなぜだか深い眠りにつくことができず、まだ夜も更けていないような時間帯に目が覚めた。
(真名人くん……?)
ベッドの上から、床で寝ていたはずの彼に気づいた時には目が闇に慣れてきて、壁に掛かる時計が見えるようになっていた。
午前1時12分
眠りについてから、それほど時間は経過していなかった。
真名人くんはトイレにでも行ったんだろうか。
気づけば喉の渇きを覚えていた私は、ベッドから起き上がり、1階まで飲み物をもらいに行こうと動いていた。
タン、タン、と階段を降りる際に聞こえるはずの自分の足音を振動で感じながら、静かにダイニングへと続く扉をゆっくりと開けた。

(あ……)

咄嗟に目に入ってきたのは、二人の人影。
慌てて扉をサッと閉めて、呼吸を整える。ダメだあれ、怖いものじゃないよね。まず最初に浮かんだのがそんなことで我ながら呆れる。あれは間違いなく、人間の影だ。もっと言えば、真名人くんとお母さんだということは間違いない。

その時、すぐに部屋に戻れば良かったんだと、後から考えればそう思う。
なのに、ほんの少しの怖いもの見たさでドアをそうっと少しだけ開け、隙間から彼らの様子を窺おうとしたことが、最大の間違いだった。

「……さ」

「……がう……」

「でも……り……」

二人が何を話しているのか、最初は全然分からなかった。薄暗い空間で二人の口元を凝視して、会話を盗み聞く。すると、だんだんと目が順応し、一つ一つの言葉を拾えるようになった。
その中で、私は聞いてしまったのだ。

「瞳美ちゃんとは、大変なんじゃないの」

お母さんの声が、聞いたこともないのに脳天にツンと響いたような気がした。

ひとみちゃんとは、たいへんなんじゃないの。

見間違いじゃない。
全身が震え、その場にへたり込みそうになった。
戻らなきゃ。
帰らなきゃ。
この場を去らなきゃ———。
ひどい動揺の中、バレないようにゆっくりとドアを閉める。途中でつっかかるような感触があったが、気にせず振り向いて部屋へと戻ろうとした。
早く、早く。
一刻も早く、ここからいなくなりたい。
頭が痛い。お腹が痛い。ひどく、心が苦しかった。もしも暗闇の端と端をつなぎ合わせてこの闇を閉じることができるのなら、そうしてほしいと願った。

真名人くんの返事は、どんなものだったんだろう。

崩れゆく精神の中で、永遠と思っていた。


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