Mitsuko Mori Matsuda

バートランド・ラッセルが好きです。 日本語になってないものや昔のムズカシイ感じの和訳で…

Mitsuko Mori Matsuda

バートランド・ラッセルが好きです。 日本語になってないものや昔のムズカシイ感じの和訳で埋もれちゃってるものを翻訳したりしてるもの好きです。

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バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 6/15 【設計論証】

THE NATURAL LAW ARGUMENT設計論証 次に取り上げるのは「設計論証」だ。 設計論証については、皆さんもご存知だろう。この世の全ては、我々人類が生きていけるように作られている、もしこの世がちょっとでも違う風だったら、我々は生きていけなかったであろう。これが、設計論証だ。 設計論証は面白いことを言うことがある。 例えば、ウサギの尻尾は、銃で撃ちやすいようにできている、と言われている。ウサギがこの考えに同意するとは思えないけれども。 設計論証は、愚弄するに

    • バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 11/15 【キリストの教えの欠陥】

      DEFECTS IN CHRIST’S TEACHING キリストの教えの欠陥 福音書の格言は確かに優れたものだが、その中には、キリストの無比なる知恵と善良さが疑問になるものが幾つかある。 なお、ここでは歴史的な問題については触れない。 歴史的観点では、キリストが実在したかどうかは極めて疑わしく、たとえ実在したとしても、我々は彼について何も知らないからだ。 したがって、ここでは難解な歴史的問題は取り扱わず、福音書で描写されているキリストについて考察する。 その内容に

      • バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 2/15 【クリスチャンとは何か?】

        昨今ではこれはそう分かりやすいことではない。 キリスト教の意味合いをもう少し曖昧に捉える必要がある。 だが、キリスト教徒というには、最低限2つの条件があると思う。 一つ目は神と不死に対する信念である。この二つを信じていなければ、キリスト教徒とは呼べないだろう。 二つ目はその名の通り、キリストの存在を何らかの形で信じていることだ。 例えばイスラム教徒は神と不死を信じているが、彼らは自分をキリスト教徒とは呼ばない。 (自分をキリスト教徒と自称するには)最低限、キリストは、神

        • バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 14/15 【恐怖心 〜宗教の土台〜】

          宗教の主たる土台は恐怖心であると私は考えている。 一部は未知に対する恐怖であり、一部は既に述べたように、すべての問題や争いから守ってくれる兄のような存在がいつも傍にいると思いたい願望である。 恐怖心はすべての土台である - 不可思議なことに対する恐怖。敗北の恐怖。死の恐怖。 恐怖心は残虐行為の源泉だ。残虐行為と宗教が一体化しているのは当然である。残虐行為と宗教の根本にあるのは、恐怖心なのだ。 現代において私たちは、科学の力で徐々に物事を理解しコントロールしていけるよう

        バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 6/15 【設計論証】

        • バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 11/15 【キリストの教えの欠陥】

        • バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 2/15 【クリスチャンとは何か?】

        • バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 14/15 【恐怖心 〜宗教の土台〜】

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 15/15 【我々はどうすべきか】

          我々はどうすべきか  自分自身の足で立ち、世界をありのままに見つめるべきだ ー いい事実も、いやな事実も、美しい部分も、醜い部分も。世界をありのままに見つめ、恐れないことだ。   世界を知性で克服する。世界を知る恐怖に虐げられるのではなく。   神というコンセプトはそもそも古代東洋の独裁政治から派生したものだ。 自由市民には全く似合わないコンセプトである。   教会では、自分を卑下し、自分は惨めな罪人であるなどというが、そのような卑劣な考えは自尊心を持つ人間には相応し

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 15/15 【我々はどうすべきか】

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 5/15 【自然法論】

          THE NATURAL LAW ARGUMENT自然法論 (神の存在を証明するための議論として)次に非常に用いられるのが、自然法の議論である。 これは18世紀を通してお馴染みの議論であり、ニュートンの宇宙論の影響でそれに拍車がかかった。 重力によって惑星が太陽の周りを周っているという観察がなされると、人々は「それは神が惑星にそう周るようにしたからだ」と考えた。 勿論それは、そういうことにしておけば、それ以上万有引力の法則について考えなくてよくなる、都合の良い単純な説明だった

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 5/15 【自然法論】

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 4/15 【第一原因論】

          第一原因論 恐らく最も単純で分かりやすいのは、第一原因論だろう。(この世界の全てに原因があり、その原因の繋がりをずっと遡っていくと、最初の原因に突き当たる。その第一原因が神であるという論) この議論は昨今ではそこまで尊重されていない。というのも、そもそも「原因」という概念が昔とは違うからだ。 哲学者や科学者が「原因」について議論しているものの、その議論は昔ほどの熱を帯びていない。それに、第一原因が存在するという議論には何の有効性もないことがお分かりだろう。 私も青年時代

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 4/15 【第一原因論】

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 3/15 【神の存在】

          神の存在 さて神の存在というのは、大きく難しい問題である。十分に扱おうとすると世界の終末まで待たねばいけないであろうから、ざっくりと扱うことをお許し願いたい。 ご存知の通り、カトリック教会は神の存在は純粋なる理由によって証明されるとの教義を説いてきた。 やや興味深い教義ではあるが、これはカトリック教会の教義の一つである。 無神論者たちが神が存在しない理由をいろいろと議論するようになったため、カトリック教会側ではそうした教義を導入せざるを得なかった。 ただ勿論、教会側

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 3/15 【神の存在】

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 2/15 【キリスト教徒とは何か】

          クリスチャンとは何か? 昨今ではこれはそんなに分かりやすいことではなくなった。 キリスト教の意味合いをもう少し曖昧に捉える必要がある。 だが、キリスト教徒というには、最低限2つの条件があると思う。 一つ目は神と不死に対する信念である。この二点を信じていなければ、キリスト教徒とは呼べないだろう。 二つ目はその名の通り、キリストの存在を何らかの形で信じていることだ。 例えばイスラム教徒は神と不死を信じているが、彼らは自分をキリスト教徒とは呼ばない。 (自分をキリスト教徒

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 2/15 【キリスト教徒とは何か】

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 1/15 【冒頭】

          下記は、1927年3月6日の日曜日にバターシー·タウンホールにて、ナショナル·セキュラー·ソサエティ南ロンドン支部の後援のもとで行われた講演です。多くのご要望を頂き、小冊子の形で刊行されました。 なお、政治的およびその他の意見については、著者自身が責任を負っています。(訳註:著者=ラッセル) 議長がお話しされたように、今夜私が皆さんにお話しするテーマは「私がキリスト教徒でない理由」です。 それにはまず、"キリスト教徒"という言葉の意味を明確にすることから始めたいと思います

          バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 1/15 【冒頭】

          バートランド・ラッセル 「バートランド・ラッセル 最後のメッセージ」(1970)

          中東における宣戦布告なしの戦争の近況は、まったくの見当違いによるものである。エジプト地域での爆撃によって、市民が降伏することはない。それどころか、抵抗の決意を強くするだろう。同じことが全ての空爆に言える。 数年に渡りアメリカの強烈な空爆攻撃に耐え続けたベトナムの反応は、降伏ではなく、敵機を撃ち落とすことだった。 1940年にイギリスがヒトラーの空襲を受けた時、イギリスはこれまでにない一体感と決意をもって対抗した。 このことから、現在の攻撃で、イスラエルは本来の目的を果たせな

          バートランド・ラッセル 「バートランド・ラッセル 最後のメッセージ」(1970)

          バートランド・ラッセル 「ナショナリズムの長所と短所」(1956年)

          ナショナリズム(国家主義・民族主義)には色んな面があり、長所もあれば短所もある。 最初の大きな分岐点は、文化的な面と、経済と政治に関する面である。 ナショナリズムは、文化的視点から見ると長所があるが、政治・経済の視点からは通常短所がある。 現代においてナショナリズムは、人間性の一部であり無視できない永遠の事実として受け止められている。 だがそれは、歴史的事実とは異なる。 ナショナリズムは、中世社会システムの衰退が発端となって生まれたものであり、それ以前にナショナリズムはほぼ

          バートランド・ラッセル 「ナショナリズムの長所と短所」(1956年)

          バートランド・ラッセル 幸福論 「嫉妬」

          注:翻訳中、部分訳です(2024年7月現在) 〜 嫉妬というのは、事実、一種の悪習である。 同義的また知能的な面で、物事それ自体を見ることなく、他との比較でしか物事を見ないという点で、一種の悪習である。 〜 こうした諸々に適した処方箋は、心をしつけること、すなわち、無益な考えに陥らない癖をつけることだ。 結局のところ、幸せよりも妬ましいことなどあるだろうか?(解釈:妬むより、幸せになる方がいいではないか) 〜 嫉妬しないためには、自分に今ある喜び、自分がしないとい

          バートランド・ラッセル 幸福論 「嫉妬」

          バートランド・ラッセル 幸福論 「競争」

          あなたが、生きる喜びを感じられないのは、なぜか。 アメリカ人やイギリス人にそう聞けば、彼らはこう答える:「日々生きていくことが辛いのだ」と。 彼らは真剣に、本気でそう思っている。 ある意味、それは真実だけれども、ある重要な意味合いにおいて、ひどく見当違いである。 人生の苦難というのは、当然起こる。 我々の誰にも、不運であれば、起こりうる。 コンラッドの小説「フォーク」では、航海士であるフォークが乗船した船が漂流する。乗組員のうち、拳銃を所持しているのは二人だけで、フ

          バートランド・ラッセル 幸福論 「競争」

          バートランド・ラッセル 幸福論 「仕事」

          仕事が幸福の源泉なのか、不幸の源泉なのかは難しい問題だ。 つまらない仕事は沢山あるし、非常に苦痛な仕事というのも掃いて捨てるほどある。 だが、どんなにつまらない仕事であっても、過重労働でない限りは、大抵の人にとって、暇でやることがないよりは苦痛にならないと思う。 仕事は、退屈凌ぎに過ぎないものから、この上ない誇りを感じられる喜ばしいものまで、仕事の性質と働く側の能力によって、実にさまざまである。 大抵の人がしないといけない仕事というのは、それ自体面白くないことが殆どだが

          バートランド・ラッセル 幸福論 「仕事」