バートランド・ラッセル 「ナショナリズムの長所と短所」(1956年)

アメリカやフランスの政情から、ナショナリズムについて考えることが増えましたね。ナショナリズムは国家主義とも民族主義とも訳されます。

世界政府に関する段落の、州に委ねられる事項の箇所だけは、現代起きていることを考えると、果たして現実的なのか個人的にはわかりません。

ですが、根幹の考え方としては70年近く経った今でも読む価値が十分にあると思っています。

Pros and Cons of Nationalism (1956)
By Bertrand Russell
Fact and Fiction掲載

https://users.drew.edu/~jlenz/br-nationalism.html


ナショナリズム(国家主義・民族主義)には色んな面があり、長所もあれば短所もある。
最初の大きな分岐点は、文化的な面と、経済と政治に関する面である。
ナショナリズムは、文化的視点から見ると長所があるが、政治・経済の視点からは通常短所がある。

現代においてナショナリズムは、人間性の一部であり無視できない永遠の事実として受け止められている。
だがそれは、歴史的事実とは異なる。
ナショナリズムは、中世社会システムの衰退が発端となって生まれたものであり、それ以前にナショナリズムはほぼ存在しなかった。

どの地域でも、ナショナリズムの発端となるのは異国による征服、侵略への抵抗であった。

一番最初のナショナリズムが発生したのはフランスで、イギリスによる侵略にジャンヌ・ダルクが抵抗したものである。
イギリスでは、スペイン無敵艦隊のイギリス侵攻によってナショナリズムが発生。のちにシェークスピアの初期作品にもなった。
ドイツではフランスのナポレオンによるドイツ侵攻への抵抗、イタリアではオーストラリアによる侵攻への抵抗が、ナショナリズム発生のきっかけとなった。
19世紀初期、ナショナリズムは自由主義者には支持されていたが、改革反対主義者からは非難の的であった。
オーストリアのメッテルニヒは、多言語・他民族国家を統治したが、彼は民族主義(ナショナリズム)を徹底的に弾圧した。
一方、ドイツ統一、イタリア統一、トルコからのギリシャ独立で活躍したのは熱狂的な自由主義者・改革派たちであった。

しかし(プロイセンに)ビスマルクが現れ、新しい時代が幕開けた。ビスマルクは3度の戦争に勝利しドイツを統一を実現した。それまでの民主的ナショナリズムに代わる、軍事的ナショナリズムを確立したのである。
それ以降西欧で普及したのは、この新しい軍事的ナショナリズムであった。

西欧の外で発達したナショナリズムは、興味深く、また不運でもある。
共産主義は、共産主義の元祖マルクスの思考では本来国際主義的であった。西洋に住んだ経験をもつレーニンとトロツキーもその国際主義的信条を信じ、自国のやり方よりも共産主義が優れていると考えていた。
しかし、ロシアのスターリンは、ビスマルクがドイツ統一においてナショナリズムを軍事的なものにしたように、共産主義を国家主義・民族主義的なものに変質させたのである。
スターリンを支持したロシア人たちは、共産主義というよりかは国家主義・民族主義(ナショナリズム)を信奉していた。
レーニンが作れなかった強固なロシア共産主義は、こうした背景によって実現した。

ナショナリズムが勝利すると、帝国主義になる。それは英国、フランス、ドイツで実証済みである。
第二次世界大戦後は、ロシアでも同じことが起きた。
ロシア外の東欧地域には、植民地から解放された多くの国々が含まれており、これらの国々の大半は、互いを嫌い合い敵対により混乱していた。
スターリンはトルコとギリシャを除くこれらすべての国々を征服、やがてユーゴスラビアも征服してしまった。

ロシア共産主義は、その驚くべきプロパガンダ技術により東欧諸国の大半を奴属化しながらも、ロシアをアジアとアフリカの解放者としてイメージ付けることに成功した。
アジアとアフリカのナショナリズムには、19世紀の西ヨーロッパで見られた、自由な趣がまだある。
そのナショナリズムは、西洋の帝国主義に対する反発心からくるもので、ロシアも同様に西洋の帝国主義には反発しているため、親ロシア的傾向がある。
第三者の視点から見れば、アジアやアフリカ諸国がロシアの手を借りて独立を果たしたとしても、ポーランドやチェコスロバキア、ハンガリーの独立と同じくらい、あっけないものに終わるだろうと思われる。
西洋の帝国主義諸国が手放した美食(非植民地化された国々)を、ロシアが一飲みにしないわけがない。
だがアジア・アフリカ諸国がそれに気付く頃にはもう手遅れだろう。

ナショナリズムが色んな場所で拡散した場合、どのような利点と欠点があるのだろうか。
それには、政治と経済の二つの側面がある。
外国による支配からの解放を求める気持ちや、外国支配への服従が甚大な被害を伴うことを否定する人はいないだろう。
異国を征服するのは望ましくない行為であり、ナショナリズムはそれに反対する勢力であるという点で、有益と考えるべきだ。
しかし世界が発展するにつれ、多国間で合意・協力する必要性は高まる。
国家の独立主義は自国内のことだけならば正当だが、それを他国に害を及ぼしていい権利と履き違えると大変なことになる。
無制限なナショナリズムでは、世界は救われない。成熟した国際主義でしか、世界は救われない。

アジアとアフリカにおける地域間の協力体制が、ほぼ帝国主義の結果として生じたことは、大変不幸なことである。
たとえ国として独立できたとしても、それでは真の協力体制は持ち得ない。
たとえ、協力することが理にかなっているのが明白だったとしても、協力することができないのだ。

わかりやすい例が、(英領インドの分割において)英国が案をまとめた、パンジャーブ水路の件である。
インドとパキスタンがそれぞれ国として独立したものの、お互い相手国には水利権を一切譲らず膠着状態になり、結局お互いにとってひどく不合理な案を採用することになってしまった。

だが、ナショナリズムが経済に打撃を与えているのは、アジアやアフリカに限った話ではない。
もし、すべての国が関税を撤廃したら、全世界が今よりもずっと豊かになるだろう。
百年前には、実現しかけたものの、各国の自国愛が強すぎたために頓挫してしまった。

現状の政治論では、どこまでがナショナリズム(国家主義・民族主義)で扱っていい問題なのか、どこからが国際主義で扱うべき問題なのかをはっきり区別することができない。
その必然性を明らかにする出来事が、スエズ運河における権益争いである。
今起きていることにとらわれずに一般論として考えると、まず、この輸送ルートが使用可能であることは人類全体の利益である。そして社会全体の利益を考えれば、一国ないしは一部の国々が、この輸送ルートの権限を持つというのは、実際的にも道義的にもおかしい。
しかし、今現在その権限を持っている人たちには、それが決してわからない。
スエズ運河の権益はイギリスが持っており、一定ジブラルタルにも権益がある。
パナマ運河の権益はアメリカが持っている。
我々には、この状況におかしな点は一切ないと映るようである。
むしろ、我々は大変賢く善良なので、重要なものは全て我々の支配にあって然るべきで、誰もがこの考えに同意すべきだと感じているくらいだ。

エジプトのナセル将軍の訴え(ナセル将軍はパナマ運河の権益はエジプトにあると訴えた)は、プリンシプルとしては、イギリスが以前訴えた内容と変わらない。つまり、カナル運河を一国が支配することには何の不当性もないという趣旨である。
概して、国際社会にとってこれほど重要なスエズ運河やパナマ運河のようなものは、国際社会のコントロール下に置くべきである。
偶然そこの沿岸に住んでいるからといって、他所に住んでいる人に大損害を与えても構わないというのは、おかしい。

それなら、ニューヨークの五番通りを挟んで住んでいるお向かいさん同士が、双方五番通りに壁を立てる権利があると訴えてもいいことになってしまう。
しかし、特定の論争の正否よりも大切なプリンシプルがある。
それは、核兵器の存在する世界では、いかなる紛争も戦争によって解決されるべきではないということだ。
ただ、国際機関が(戦争による解決をすることを)決定し、反対勢力を容易に鎮圧可能な場合を例外とする。
スエズ運河の一件にはこの例外条件に当てはまらない。
ひいては、戦争をちらつかせて脅しをかける者は、人類全体の敵である。

こうした事案を扱う国際的権限を持つ機関があってしかるべきだが、現状はそのような機関は存在しない。
国連を忘れているわけではないのだが、国連の安全保障理事会に拒否権が存在する。
理事会の全メンバーが合意した場合を除いて(全メンバーが合意することはあまりない) 国連がそのような機関であるとは言えない。
このスエズ運河の件も安全保障理事会に提出すべきという論はもっともな反面、理事会で合意に至る可能性はほぼない。
どのような提案にも、ロシアか西欧列強が拒否権を発動するだろう。

安全保障理事会に本件を提出するメリットは二つある。一つ目は、審議期間が設けられることによってほとぼりが冷めること。二つ目は、この事案が暗礁に乗り上げることで、もっと効果的に国際的観点で決断を下せる方法が必要だということに気付くことである。
私は次のような対応が望ましいと考えている。
まず、公正な調査を行う。
この調査を行うために、臨時委員会を立ち上げる。委員会は紛争の両当事者からの同数の代表者と、利害関係のない国々からなる代表者から構成する。
そして、安全保障理事会は、この公正な調査をもって提案される解決策にあらかじめ同意すると取り決める。
これが、真の戦争の代替手段である。
今現在、正気なら誰でも、戦争はなんとしても避けなければいけないと理解している。
平和的な決定手段がないと、狂気の沙汰が優位になってしまう。
正気な人間は戦争が最悪の紛争解決手段であるとわかっているが、正気を失った人間にはそれがわからないのだ。

個人の自由に限度があるのと全く同じように、ナショナリズムにも限度がなければならない。
個人の自由は非常に大切で、良き社会には個人の自由の維持が必須である。しかし、個人の自由に限度があることも、誰もが承知の通りだ。
殺人や窃盗をしていいことにはならないし、我々は国の力でそうした行為を取り締まっている。
国による殺人や窃盗は、個人によるものより、スケールが大きいため被害が大きい。そのため、それを防止することはより重要である。
限度のないナショナリズム(国家・民族主義)は、等しく不道徳である。
国をあげた殺人や窃盗は、被害者側が戦争に近い抵抗をしない限り、無制限に展開される。
戦争を放棄するには、個人間の争いの対処法と同様に、多国間でしっかりと法律を制定せねばならない。
この実現にはまだまだ時間がかかる。これを実現するには、すべての国が国内の治安維持以外の目的の軍力を全放棄する必要があるからだ。

世界政府については次の通りであるべきだ。
世界政府は連邦制で、全州に適用される憲法が制定される。即ち、中央政府は州の州外に関する事象のみ、または他の州に直接影響を与える事象のみを管轄する。州内の事象については、ナショナリズム主義が優先される。
各州は州の宗教を設定してもよく、宗教的に中立を保ってもよい。
各州は関税を自由に設定する権利を持ち、好きな政治制度 - 君主制、民主制、全体主義、その他 - を選定してよい。
教育制度も好きに設定し、教育を一切しなくてもよい。ただ、教育に関しては、世界政府がある程度は監督すべきだと私は考えている。

(ホレーショ・)ネルソン(ナポレオンのフランス海軍と戦ったイギリス海軍の提督)は、士官候補生に対し、真っ直ぐ撃つこと、嘘をつかないこと、フランス人を悪魔のように忌み嫌うことの三つの教義を説いた。国際政府は、国の教育制度にこの三つ目の教義が組み込まれた場合には、それに反対する権利を持つべきである。

冒頭で触れたように、文化の観点から見ると、ナショナリズムには大きな長所がある。
都市化した世界では同一化の風潮が強いが、そうした空気はアートや文学には悪影響であり、若き才能を潰してしまう。
ギリシャやルネッサンス期のイタリアでは、文化人は町で名を知られるようになると、他の町への対抗心から、町の誇りとして讃えられたものだ。
古代ギリシャもルネッサンス期のイタリアも、文化に多大なる貢献をしたが、政治的結束が欠けていたが故に、没落した。
文化を衰退させないためには、文化的な面における独立性を保つと同時に、政治的に結束していく必要がある。
私は文化の多様性が今後も存続することを願っているが、産業化、国単位での教育制度、移動の簡易化が普遍的になったこの世の中で、この先どうなるかはわからない。
従来、イギリス人、フランス人、ドイツ人、イタリア人は、それぞれの特性があり、その特性が偉大な人物を作り上げるのに一役買ってきた。
レオナルド・ダヴィンチはイタリア人そのものであったし、ヴォルテールはフランス人そのものであり、ゲーテはドイツ人そのものであり、シェークスピアはイギリス人そのものだった。
もし彼らが、環境と早期教育によって、なんの特徴もないまでに画一化されていたとしたら、彼らが実際に残したような偉業を成し遂げることはできなかっただろう。

だが、国の文化の重要性は、有名な文化人に限った話ではない。
優れた芸術のほとんどは、長い伝統から生まれる。
実用性云々を抜きにしたニュアンスを汲み取る感受性は、そうした伝統から生まれる。
異文化の伝統の影響を受けすぎると、異文化の伝統の良さも汲み取れないばかりか、自国の伝統的文化の良さも見失ってしまう。
私は中国に住んでいた頃、中国の伝統的絵画に非常に感銘を受けたが、私の周りの西洋文化に感化された中国人の友人達は、揃ってそうした伝統的絵画を嫌った。彼らの贔屓にしている近代中国画家は、そうした観点を持たなかったからである。そうした画家達が欧米を真似て描いた作品は、西洋の良さも持ち合わせておらず、同時に東洋の良さを無くしてしまったように私には映った。

このような退化を、日常のあらゆるところで目にする。
伝統的な中国家具は素晴らしかったが、西洋化した中国家具は醜かった。
産業化の普及によって、こうした文化的衰退が加速することは避けられない。
人類が存続していくには、政治的・経済的に結束しないといけないが、そのせいで万国が不細工になるのは致し方ないのかもしれない。
もしこれが本当なら、大変嘆かわしいことである。
だが、もし恒久的な平和がもたらされれば、実用性ばかりにとらわれなくなり、伝統の多様性を受け入れ重んじるようになるかもしれない。
それまでは、目の前の危険があまりに大きすぎて、そういった境地に至ることが難しいだろう。

帰結する結論は、現代のナショナリズムは重大な悪であり、恐ろしい危険の源泉だということである。
大惨事を免れるためには、経済、政治、戦争の点で、国際主義を発展させていく必要がある。
大小関わらずどの国も、自国の利害・関心を世界共通の利害・関心に優先させるという罪を犯してきた。
特定地域だけのあれこれの都合に左右されず地球全人類のことを考えて、難しい問題の決断を行えるだけの力を持つ国際機関ができるまでは、この各国の自国ご都合主義は続くだろう。
実現性が薄いと考える人もあろう。しかし取り乱しがちな我ら人類にとって、この道だけが、未来に続く道である。


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