バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 4/15 【第一原因論】
原文はこちら。
上の階の工事がうるさい。
第一原因論
恐らく最も単純で分かりやすいのは、第一原因論だろう。(この世界の全てに原因があり、その原因の繋がりをずっと遡っていくと、最初の原因に突き当たる。その第一原因が神であるという論)
この議論は昨今ではそこまで尊重されていない。というのも、そもそも「原因」という概念が昔とは違うからだ。
哲学者や科学者が「原因」について議論しているものの、その議論は昔ほどの熱を帯びていない。それに、第一原因が存在するという議論には何の有効性もないことがお分かりだろう。
私も青年時代はこの問題をとても真剣に考えており、長い間、第一原因論を信じていた。
だが18歳のある日、ジョン・ステュアート・ミルの「ミル自伝」で次の一文を読んだ時にそれが変わった。
『「誰が人間を創ったのか?」という問いには答えがない。なぜならその問いは「誰が神を創ったのか?」という問いに直結するからだ。』
私は今でも、この非常にシンプルな一文が第一原因論の誤謬を示してくれたと思っている。
もし全てに原因があるのだとすれば、神にも原因がなくてはならない。
もし原因のないものが存在するのだとすれば、それは神でも世界でもいいわけで、そうするとこの議論には全く有効性がなくなってしまう。
この話はヒンドゥー教の世界観と性質として同じである。
世界はゾウの上に置かれていて、そのゾウは亀の上に立っている。
それで「じゃあ、亀はどこに立っているのか?」と聞くと、インド人は「違う話をしようじゃないか」と言った。
第一原因論はこれと似たり寄ったりである。
原因なしに世界ができたとか、反対に、世界はいつでも存在していたということを反証できる理由もない。
そもそも世界にはじまりが絶対あると考えねばならない理由もない。
何事にも始まりがある筈だという考えは、我々の想像力の乏しさから生まれたものである。
そんなわけで、もうこれ以上第一原因論について時間を無駄にする必要もないだろう。
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