バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 2/15 【クリスチャンとは何か?】

原文はリンクをご覧ください。

https://users.drew.edu/~jlenz/whynot.html


昨今ではこれはそう分かりやすいことではない。
キリスト教の意味合いをもう少し曖昧に捉える必要がある。

だが、キリスト教徒というには、最低限2つの条件があると思う。

一つ目は神と不死に対する信念である。この二つを信じていなければ、キリスト教徒とは呼べないだろう。

二つ目はその名の通り、キリストの存在を何らかの形で信じていることだ。
例えばイスラム教徒は神と不死を信じているが、彼らは自分をキリスト教徒とは呼ばない。
(自分をキリスト教徒と自称するには)最低限、キリストは、神でないとしても、最上かつ最賢たる人物であると信じていることが条件である。
キリストをあまり信じていないなら、キリスト教徒とは呼べないだろう。

もちろん、ウィットテイカー年鑑(訳註:イギリスで昔から発行されている時事年鑑)や地図帳では、地域ごとにキリスト教、イスラム教、仏教、霊信仰などと記載されており、それによれば私たちは全員キリスト教徒ということになるのだが、それはあくまで地理上の話なので、ここでは無視することにする。

上記から、私がキリスト教徒でない理由を説明するには、二点について論じねばならないことになる。一点目は神と不死について、二点目はなぜキリストが最高かつ最賢の人でないかということである。ただ、私もキリストが道徳的に非常に優れているとは考えている。

過去の不信仰者たちの努力がなければ、私はキリスト教の定義をそこまで柔軟に捉えることはできなかっただろう。(訳註:分かりにくい言い回しですが、色々な意見があってキリスト教の定義が昔よりも緩やかになったと捉えればよいのではと思います)

既に述べたように、以前はキリスト教の定義はより頑なであった。
一例に地獄の存在がある。
ごく最近まで、キリスト教では永久の地獄の火の存在を信じることが必須とされていた。
だがご存知の通り、イギリスでは枢密院でこれが否決されるに至った。
カンタベリー大司教とヨーク大司教(訳註:それぞれ、イギリスのカトリック教会における第一位・第二位の位)がこれに反対したが、イギリスでは宗教は議会制定法に準ずるため、大司教らの訴えは枢密院によって退けられ、地獄の火の信仰はキリスト教徒の必須事項ではなくなった。


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