バートランド・ラッセル 幸福論 「競争」

バートランド・ラッセルが好きです。 

この本の冒頭でラッセルも書いてますが、この本は常識を書いているので、小難しいことはないです。

なんとか論、っていう題名にしちゃうと近寄りがたいですよね。
原題は「Conquest of Happiness」なので「幸せをつかむ」でいいやんと個人的に思います。


私の翻訳は、読み返しハイライトしている部分を太字にしていることがあります。ご理解いただければ幸いです。

原文はGutenbergより。

https://www.gutenberg.org/


あなたが、生きる喜びを感じられないのは、なぜか。
アメリカ人やイギリス人にそう聞けば、彼らはこう答える:「日々生きていくことが辛いのだ」と。

彼らは真剣に、本気でそう思っている。

ある意味、それは真実だけれども、ある重要な意味合いにおいて、ひどく見当違いである。

人生の苦難というのは、当然起こる。

我々の誰にも、不運であれば、起こりうる。

コンラッドの小説「フォーク」では、航海士であるフォークが乗船した船が漂流する。乗組員のうち、拳銃を所持しているのは二人だけで、フォークはその一人であった。食料は尽き、食べるものは、相手の人間しかない。二人が同意の上で食べた最後の食料が尽きた時、本当の苦難は始まる。フォークは勝利し、生き残る。しかし、それから一生、フォークが肉を食べることはなかった。

ビジネスマンが言う「人生の苦難」と言うのは、こういうことではない。本来は些細な事柄を大きく見せるために、間違った表現をしているに過ぎない。彼の知る人の中に、飢餓で死んだ人がいるか、聞いてみるといい。彼の知る人の中に、人生の悲劇を経験したという人がいるのならば、その顛末はどんなものであったのか、聞いてみるといい。
まず間違いなく、人生の悲劇を経験したという彼の知人は、人生で悲劇に見舞われるチャンスすらなかった人と比べて、物質的には恵まれていたに違いない。
つまり、人が人生の苦難と言う時に、実際に意味するのは、成功を追い求める苦しみなのだ。
彼らの苦しみは、明日は朝飯にありつけないのではないか、といった不安から生じるのではなく、自分は他人より劣っているのではないかという不安からくるのである。

人々が、いかにこうした出口のない考えに無意識的に囚われているかは、驚くべきことである。
そうやってレールに乗っかっていても、もっと良い場所に辿り着くということなどないと知らずに、そのレールに乗っかっているのである。

言うまでもなく、私は上流社会のビジネスマンのことを指している。
彼らには十分な収入があり、望みさえすれば、今あるもので不自由なく暮らしていくことができる。
彼らは、今あるもので満足するということは、兵が敵を前にして逃げ帰ることと同じくらい、恥ずべきことだと信じている。
もしあなたが、彼らに彼らの仕事がどのように社会に貢献しているのかを問うたとしたら、彼らはストレスに満ちた生活にありがちな文句を並べ立てた後、答えに窮してしまうだろう。

ある男性を想像してみよう。
彼には、素敵な持ち家がある。綺麗な奥さんとかわいい子供達に恵まれている。
彼は、まだ家族が寝ている朝早い時間に家を出て、会社へと急ぐ。
職場では、管理職として望ましい振る舞いが期待される。
凛とした表情、威厳に満ちた話しぶり。
彼は、事務手伝いのアルバイト以外の、社員全員から敬われるべく、計算尽くされた思慮深い雰囲気をまとっている。
重要書類に目を通し、重役たちと電話で話し、経済の動向をチェックし、遅滞なく取引先や営業先との昼食会に参加する。
同じようなことが午後も繰り返される。
ちょうど夕食の頃に帰宅するが、彼はクタクタだ。
夕食では、彼や彼のような疲れ切った男達は、まだ疲労するようなことを何もしていない女性達とテーブルを囲んで、会話を楽しんでいるフリをしないといけない。一体いつになったらここから逃げ出せるのだろうか。やっとの思いでベットに横になる。眠りにつき、二、三時間神経を休めることができる。

この男の仕事人生は、百ヤードレース級の精神力を必要とするが、男のゴールは墓場以外にない。
百ヤードの間であれば適切と言えるストレスも、ここまでくると過度になる。

この男は、子供達の何を知っているだろうか。
平日は会社にいて、日曜日はゴルフに出ている。
彼は妻の何を知っているだろうか?彼が朝家を出る時、妻はまだ眠っている。
夜は、彼も妻も、細かなことに追われて、落ち着いて会話をする時間もない。
恐らく、彼には親しい男友達もいない。親しくなれたらと思う相手は、沢山いるのだろうが。

春の訪れや収穫期の到来は、市況の確認を通して知る。
海外に行ったことがあるだろうが、全く退屈でしかなかった。
読書も役に立つと思えないし、音楽なんてインテリもどき。
年々、孤独が深くなっていく。世界はどんどん狭くなって、仕事の外の生活は乾いていく。

こういう中年後半のアメリカ人と、その妻と娘達を、ヨーロッパで見かけたことがある。
みた所そのアメリカ人は、家族から、そろそろ休みをとってヨーロッパ旅行にでも連れていってほしいと説されたらしかった。
妻と娘達は嬉々とした様子で、目にする珍しいものあれこれについて、しきりに男に話しかける。
男は、疲れ切った退屈した様子である。
今頃会社はどうなっているだろう、野球シーズンはどうなっているだろうと考えながら、ぼんやりしている。
妻と娘達はそんな男にうんざりして、男というのはなんともつまらない人間だと考える。

彼女達にはわからない、男が彼女達の欲深さの犠牲者であるということが。
ヨーロッパの一見物人には、その男がサッテ(訳注:ヒンドゥー教で、夫の火葬をする薪の上で、妻が焼身自殺・殉死をすること)以上の行いをしているように見えたことなど、知る由もない。
サッテで殉死する妻は、恐らく十中八九は、名誉のため、そして宗教上の習わしのため、自ら望んで焼身自殺をするのだろう。
ビジネスマンの宗教と名誉では、沢山稼ぐことを通念とする。
だから、ビジネスマンは喜んでそれに伴う苦痛を受け入れる。


アメリカのビジネスマンが幸せになろうとするのなら、まずは信じるものを変える必要がある。成功したいと思うだけでなく、成功を追いかけのは義務であり、そうしないことは恥ずべきことだと考えている限りは、彼の人生はそればかりになり、心配ごとばかりで、幸せになどなれない。

シンプルな例として、投資について考えてみよう。ほとんどのアメリカ人は、4パーセントの儲けを得られる安全な投資よりも、8パーセントの儲けが得られるハイリスクな投資に飛びつくだろう。その結末として、より頻繁に損をするだろうし、常に心配して神経をすり減らさないといけない。私について言えば、私が金銭から望むものは、安泰した余暇である。だが、現代人が金銭に望むのは、もっとお金が欲しいということであって、その目的としては、見せびらかしたい、華やかに見せたい、これまで同列だった奴らよりも秀でてやりたいということである。

アメリカにおける社会階級というのは固定されておらず、常時変化している。その結果として、社会階級が固定されていた時代と比べ、俗物根性が増長されている。金さえあれば偉大になれるわけではないのだが、金がなければ偉大になることが難しい。加えて、金が賢さを測るものだと見なされている。金を稼ぐほど賢く、金を稼がない者は馬鹿だということになる。馬鹿だと思われたい人間はいない。そんなわけで、市場(訳註:株価など)が落ち着かないと、試験直前の学生のように、人もヤキモキしている。


失態を犯したらどうしようという、もっともではあるが理性的とは言い難い恐怖が、ビジネスマンが抱える不安要素の一つであることを、認識すべきだと私は思う。

アーノルド・ベネット著の小説クレイハンガー・ファミリーの主人公、クレイハンガーは、どれだけ金持ちになっても、工場で過労死したらという恐怖から逃れることができなかった。幼少期に貧困を経験した人は、どれだけの富を得ようとも、自分の子供に同じ経験をさせるのではないかという恐怖から逃れることはなかなかできない。
貧困の苦難を直接体験した世代にとって、貧しさの恐怖から自由になるのは恐らく難しいが、そうした経験をほぼしていない世代には影響が少ない。
いづれにせよ、こういったケースは少数で、問題の例外的要素である。

問題の根源は、競争に勝つことが、幸せへの鍵だと信じていることにある。
成功すれば、人生を楽しむことが容易になるであろうことは、否定しない。
例えば、パッとしない画家は、もし才能が広く認められることになれば、もっと幸せになるだろう。
また、お金も、ある一定までは、幸福度を上げることも、否定しない。あるレベルを超えた後は、その限りではないと思うが。
私が言いたいのは、成功は、幸福の要素の一つに過ぎないということであって、成功を手にするために一生懸命になりすぎて、その他の幸福の要素が蔑ろにされているということである。

この問題の発端は、ビジネス界で蔓延している、人生哲学にある。
ヨーロッパでは、ビジネス界の他にも、権威のあるコミュニティがある。貴族階級のある国もある。どの国にも知的職業があるし、数は少ないが、陸軍や海軍が権威を持っている国も存在する。

さて、どのような職業であっても、成功には競争的側面があるものだが、尊敬を集めるのは、成功だけではない。
どのようなことであっても、何かに卓越していることも、その一つである。
科学者は、儲かるかもしれないし、儲からないかもしれない。年収がいいから、より尊敬されるかというと、そうとも限らない。偉大な陸軍大将や海軍大将が、貧乏であっても、誰も驚かないだろう。
実際、質素であるさまが名誉とされることもある。
こうした背景から、ヨーロッパでは、金稼ぎだけを競うのは、一部の人達であって、多分にそうした人達はさほど影響力もなく、そんなに尊敬されていない。

アメリカでは事情が逆だ。
役に立つこと、功労は、アメリカにおける標準的国民生活において、全く関係ないものである。
知的職業にあっては、医者が医学に長けているのか、弁護士が法務に長けているのかは素人にはわからないので、彼らの暮らしぶりから予想される年収に基づいて判断する方がずっと容易いとされる。教授については、彼らは事業家に雇われた召使いと見なされ、歴史の古い他国の教授と比べて、軽視されている。
こうしたことをひっくるめた結果として、専門的職業家は、事業家と同じだから、ヨーロッパのように専門的職業家と事業家が別々の括りになるということがない。
そのため、アメリカでは、富裕層における剥き出しそのままの金銭的成功を追い求める競争が、野放しに展開している。
アメリカの男児は、ごく小さい頃から、それ以外に大切なことはないと感じている。
金銭的価値のない教育は受けたがらない。

教育はかつて、喜びを感じる能力を養うことを目的としていた。
喜びとここで言うのは、教養が全くない人には得られない類の繊細な喜びのことである。
18世紀には、「紳士」であることの証の一つとして、文学、絵画、音楽に傾倒していることがあった。現代の美的感覚には沿わないかもしれないが、少なくとも、偽りのない本物ではあった。

今日の金持ちというのは、ずいぶん様子が異なる。
読書はしない。
画廊を開くのは、自分の名を世の中に知らしめるためであり、絵画の選定は専門家にお任せである。絵画を愛でるのではなく、他の金持ちにその絵画を取られないようにすることが楽しい。
音楽については、彼がユダヤ教徒であれば心から音楽を楽しんでいるのかもしれないが、そうでもない限り、他のアートと同様、音楽に関しても教養がない。

こうした背景から、彼ら金持ちは、余暇に何をしたらいいのかさっぱりわからない。
金持ちになればなるほど、金を稼ぐのはいよいよ容易くなるが、ついには、五分の余暇をも持て余すに至る。
可哀想に、成功を手にした結果、後はどうしたらいいのかわからなくなる。
これは、成功そのものが人生の目的である以上、避けられない事態である。
成功を掴んだ後にどうするのかを学んでいない者は、成功を掴むや否や、退屈の餌食になる。

競争マインドは、それが癖になると、直接関係ない分野にもやすやすと入り込んでくる。
例えば、読書の問題だ。読書の目的には、楽しいから読む場合と、読んだことを自慢したい場合のニ種類がある。
アメリカでは、夫人の間で、毎月決まった本を読む(らしい)というのが、流行している。
実際に本を読む人もあれば、最初の章だけしか読まない人もあり、レビューだけ読む人もいる。
けれども、どの人も、テーブルにこの本が置いてあるのだ。
そこでは、名著が読まれることはない。彼女達の読書クラブで、ハムレットやリア王の著書が選ばれることはないし、ダンテを知る必要もない。そういうわけで、読書クラブで読まれるのは、二流の新書だけであって、名著ではない。
これも競争のためである。
もっともこうしたクラブに属する人達は、名著を読まないどころか、放っておいたら読書クラブの長や先生とやらが選定する本よりも更に酷い本を読むであろうから、全く悪い事とは言えないけれども。

こうした現代の競争主義は、ローマのオーガスタ期以降に起きたに違いない、全面的な文明の衰退に関係している。知的活動を楽しめなくなった。例えば、アートについての語らいは、18世紀のフランスのサロン文化でピークを迎え、40年前までは伝統として生きていた。最高級の奇才達が、ただその時のためだけに、非常に洗練されたアートを生み出していた。
今の時代に、誰がそんな道楽を気にかけるだろうか?
それでも、中国では10年前に美術が素晴らしく盛んになったが、ナショナリズムの信奉者達がそれを壊滅させてしまったように思う。
良き文学は50年、100年前位までは知識人のたしなみであったが、今ではそれも限られた教授だけのものとなった。
静かな悦びというものは、棄て去られてしまった。

アメリカの学生が、大学に隣接している森林を案内してくれたことがある。みごとな野花が沢山咲いていたが、案内してくれた学生達は、その花の名前を一つとして知らなかった。
そんな知識が何の役に立つだろう?年収に何の関係もないではないか。

これは個人だけの問題ではなく、個人が一人で避けられる問題でもない。問題は、一般に受け入れられている価値観、つまり、人生は勝ち負けであって、勝者がリスペクトされるという考え方にある。こういう考え方をしていると、知性や感性が弱まり、意志力が過度に強まってくる。
いや、その反対かもしれない。
ピューリタン倫理主義者は昨今意志の重要性を説いているけれども、元来彼らが説いていたのは信仰心であった。
ピューリタン時代に、意志が過剰に発達し同時に感性と知性が衰えた人々が、そういう人々にとってしっくりくる競争マインドというのが広まったということなのかもしれない。

けれども、現代の恐竜たちの驚くべき成功を見て - 先史の祖先(訳註:恐竜)よろしく、知性より名声や権力を優先するやり方 - 誰しもがそれをお手本にしている:いたる所で、白人男性のお手本となっており、来たる百年もそれが続くだろう。
しかしその流れに乗っていない者は、恐竜は最終的に負けたこと - つまり互いに殺し合い滅びたこと - そしてより知性ある存在に取って代わられたことを思い出し、安堵するかもしれない。
現代の恐竜たちは自滅に向かっている。一世帯につき子供は二人以下しかもうけない。人生を十分に楽しんでおらず、子供が欲しいという考えに至らない。
ピューリタン倫理主義者の祖先から受け継いだ過剰に厳しい考え方は、世界に受け入れられていない。不幸になる人生観のせいで子供を作りたくないと考える人たちは、生物学的に絶滅するしかない。そのうち、彼らよりも明るく楽しい人たちに取って代わられる。

競争中心の人生は、大変厳しく、頑張りを必要とするし、意志と肉体を酷使しないといけないので、続くとしても一世代か二世代が限界である。
それ以上続くと、精神的な疲労に加え、逃避現象が起こり、楽しむことは仕事と同じくらい緊迫し難しいものになる。繁殖能力がなくなりこの種は途絶える。
競争マインドに侵されるのは仕事だけではない。余暇も同様に侵される。
静かでリラックスできる類の余暇の過ごし方は退屈と考えられるようになる。

この傾向は加速的に強まるだろう。最終的にそれは薬物とか動けなくなることで終わる。
この問題を解決するには、人生の理想には、冷静で静かな楽しみが必要だということを認めるしかない。

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