バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 1/15 【冒頭】
冒頭で出てくる、「セキュラー(Secular)」は世俗主義のことです。
世俗主義ってなあに?と思いますが、「政教分離」「信教の自由」「宗教差別の禁止」という三大原則をベースにしてます。
原則の方がわかりやすいですね。
当時、この講義を後援したのはNSS(英国世俗主義協会)で、現代でも活動してます。
ラッセルや夏目漱石のエッセイを読んで感じるのは、彼らの時代も現代も、人の心の部分に関する考察は共通項が多い(というか、ほとんど?)ということです。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書「21Lessons」を読んでると、これ漱石も言ってたよな〜というのがたまにあったりします。
下記は、1927年3月6日の日曜日にバターシー·タウンホールにて、ナショナル·セキュラー·ソサエティ南ロンドン支部の後援のもとで行われた講演です。多くのご要望を頂き、小冊子の形で刊行されました。
なお、政治的およびその他の意見については、著者自身が責任を負っています。(訳註:著者=ラッセル)
![](https://assets.st-note.com/img/1721935105034-VX772wtZbI.png)
https://en.wikipedia.org/wiki/Battersea_Town_Hall
議長がお話しされたように、今夜私が皆さんにお話しするテーマは「私がキリスト教徒でない理由」です。
それにはまず、"キリスト教徒"という言葉の意味を明確にすることから始めたいと思います。
今日、多くの人がこの言葉を非常に曖昧に使っております。
単に、良き人生を送ろうとする人を指していることもあります。
その意味では、あらゆる宗派や信仰の中にキリスト教徒が存在することになりますが、私はそれが正しい意味とは考えておりません。
キリスト教徒ではないすべての人々、例えば仏教徒、儒教徒、イスラム教徒などが良き人生を送ろうとしていないことになってしまうからです。
私は、キリスト教徒は、自らの信条に忠実に生きる人のことを指すとは考えていません。
一定の確固たる信念を持っていてはじめて、自らをキリスト教徒と呼べるものと考えています。
「キリスト教徒」という言葉は、聖アウグスティヌスや聖トマス·アクィナス(訳註)の時代ほど、純粋で完全な意味を持っていません。
(訳註:カトリック神学の巨匠。聖アウグスティヌス (354-430)は、神を超越的な存在とし、すべての究極的な源であるとしました。
一方で、聖トマス・アクィナス (1225-1274)は、神の存在を合理的、論理的に証明しようとしたことで知られています。)
当時は、自分はキリスト教徒だと名乗れば、その意味ははっきりとしていました。
当時の人々は、大変に細かく定められた一連の信条を受け入れ、そうした信条の一語一句を熱心に信じていたのです。
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