バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 6/15 【設計論証】


設計論証、こういうと難しく聞こえますけれども、環境に合うように進化したという説の反対、つまり、人間に合うように全部作られている、という説です(雑な説明)。

ヴォルテールの「足はストッキングを履きやすいようにつくられた」という皮肉な文章が面白いです。

この設計論証を広く提唱したのはライプニッツですが、彼は微積分を考え出したことで有名です。
当時、ニュートンが世界は神に作られたのではないという内容を発表 →
ライプニッツがこの設計論証をもってそれに真っ向から反対する →
ヴォルテールが小説の中でライプニッツの設計論証を皮肉る
ということが起きました。

論理的思考とか数学的思考が優れているっていうことと、モノの考え方に客観性があるかどうかは、大して関係ないんだろうなあ。
アイスクリームとコーンみたいに、別々のものなんだろうなあ。
周りの人を思い返しても、そうだな…

長くなりすいません。原文は以下です。

https://users.drew.edu/~jlenz/whynot.html


THE NATURAL LAW ARGUMENT

設計論証


次に取り上げるのは「設計論証」だ。

設計論証については、皆さんもご存知だろう。この世の全ては、我々人類が生きていけるように作られている、もしこの世がちょっとでも違う風だったら、我々は生きていけなかったであろう。これが、設計論証だ。

設計論証は面白いことを言うことがある。
例えば、ウサギの尻尾は、銃で撃ちやすいようにできている、と言われている。ウサギがこの考えに同意するとは思えないけれども。

設計論証は、愚弄するに容易い論証である。


ヴォルテールさん。
https://en.wikipedia.org/wiki/Candide


「鼻はメガネがフィットしやすいように作られている」という、ヴォルテールの言葉を皆さんご存知だろう。
(訳註:これは、そんなわけないだろ、アホか、という皮肉の文章です。足はストッキングを履きやすいように作られているといった文章が続きます。)

こうした愚弄は18世紀には的外れに見えたかもしれないが、ダーウィンの時代以降、生物が環境に適応するよう進化してきたと理解している現在ではそうも見えない。

環境が我々に合うように作られたのではなく、我々が環境に合うように進化したのだ。それが進化の基本である。
設計論証の証拠は全くない。

この設計論証なるものを考えるにあたり、大変驚くべきは、これほど多くの欠陥があるこの世界を、全知全能の神が何百億年もかけて創造したと、人々が信じるということである。 

全く私には考えられない。本気で、全知全能と何百億年もの時間をもってして、KKK(白人至上主義団体)とかファシストよりマシなものを創造できないというのか?

さらに、科学的一般論からすれば、地球上の人類やその他生物はやがて絶滅するに違いない。

太陽系の衰退の一段階であり、ある一定の段階において気温などがプロトプラズムが耐え得ないレベルになるはずである。太陽系において生物が存在するのは短い時間のことである。
(訳註:プロトプラズムは細胞の中で生命活動を行っている部分です。)

地球はやがて月のようになる ー 死、冷、生けるものの存在しない世界。

こういった見方は陰鬱だと言われる。
こんな考えでは生きてゆけないという人もある。

それは違う。そんなはずはない。

今から何百億年も後に起きることを本当に心配する人などいない。

もしとても心配しているという人がいたとしても、それは勘違いである。

そういう人が実際に心配しているのは、もっとつまらない日常的なことについてである。それか胃腸の調子が良くないだけかもしれない。
いづれにしても、何百億年も後にこの世で起きることを心配して本当に不幸になる人はいない。

確かに生命が絶滅するというのは陰鬱な見方ではある。
少なくとも、陰鬱だといって良いだろう。

ただ、人が人生ですることについて考えると、私には、それが慰めにさえ感じられることがある。だがそれで人生を惨めに感じるということはない。

ただ、何か他のことに意識が移るだけである。


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