バートランド・ラッセル 「私がキリスト教徒でない理由」(1927) 5/15 【自然法論】

「自然法論」て・・難しそうな題名なんですけど、要は、神の存在証明のために使われてきた論法がいくつかあって、その論法は妥当なのか?を一つ一つ検討していってます。
そんな難しいこと書いてないので、フツーに読めると思います。

バイデンさん、ハリスさんにバトンタッチしましたね。
久々のカリフォルニアではトランプ応援旗が色んなところで見られました。
熱狂的な人が多いんだろうなと思います。

https://users.drew.edu/~jlenz/whynot.html


THE NATURAL LAW ARGUMENT

自然法論


(神の存在を証明するための議論として)次に非常に用いられるのが、自然法の議論である。
これは18世紀を通してお馴染みの議論であり、ニュートンの宇宙論の影響でそれに拍車がかかった。
重力によって惑星が太陽の周りを周っているという観察がなされると、人々は「それは神が惑星にそう周るようにしたからだ」と考えた。

勿論それは、そういうことにしておけば、それ以上万有引力の法則について考えなくてよくなる、都合の良い単純な説明だった。

今では我々は、万有引力の法則について、アインシュタインが発見したやや複雑な理解をしている。

アインシュタインの万有引力の法則の理論についてここで講義をするのは時間がかかり過ぎるのでやめておこう。

いづれにしても、ニュートン理論の頃のように、「理由は誰もわからないけれど自然が一貫した法則に従っている」というような自然法は、もはや存在しない。

今日では、従前は自然法の結果だと信じられていた物事が、実際には慣習(人の作った決まり)の結果であることがわかった。

既知のように、遥か彼方の宇宙でも、一ヤードは三フィートである。

これがとても重要な事実であることに疑いはないが、この事実は「自然の法」とは呼べるものではない。

自然の法の結果とされてきたことの非常に多くが、このようなものである。

一方で、原子のはたらきについて調べていくと、多くの物事は自然法に従っているのではなく、偶然から生じる統計的な平均の結果にすぎないことがわかってくる。

ご存知の通り、サイコロを振って6が2回出るのは「大体」36回に1回である。
けれども、このことは、サイコロの目がそう出るように設計されている証拠にはならない。
もし「毎回」6が2回でるのならば、そういう設計になっていると考えられるだろう。

自然法の多くがそのようなもの、偶然からなる統計的平均の結果である。自然法の存在感は薄れている。

もちろんこれは今この瞬間の科学の状態なので、明日変わることもあり得るが、自然法が創造主の存在を暗示しているという考え方は、自然のきまりと人間が作ったきまりを混同した結果である。

人間のきまりは、行動規範である。
規範に従うことを選ぶこともできるし、選ばないこともできる。

しかし、自然の法則は物事が実際にどのように起こるかを表したものである。
単なる事実を表したものだから、誰かがそうなるように命じたに違いないという主張は間違っている。

仮に、誰かが命じたならば「なぜ神は他の法則ではなく、このような自然の法則を命じたのか?」という問いに答えられなければならない。

もし、神は単純に善意からそのようにしたのだから理由などないというのであれば、そこに法(きまり)などなかったということになってしまうから、自然法の理論は崩れてしまう。

もし、伝統的·正統派の神学者が言うように、神はなにか理由があって別の決まりではなくてこの自然法を与えたのだとするならば、(その理由というのは勿論、最善なる宇宙を創造するためである、、、実際に現実を見るとそうも思えないかもしれないが)神は何らかの決まりに従っていたことになり、そうすると神が何のために間に入っていたのかということになる。

神の教え以前に法が存在していたのであり、神が決まりを定めたのではない。

要するに、この自然論なるものの存在感が全く弱まっている。

私は随時、こうした論法の検討を行っている。
神の存在証明のために用いられる論法は時代とともに変化してきた。
最初は確固たる誤謬に基づいた知的理論であったのが、昨今ではそうした理論は知的な説得力に欠けるようになり、より道徳的な曖昧さに拠り所を求めるようになってきている。

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