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「スタイル」を捨てる勇気。


自分の道の上を歩いていると思っていたのに、

いつの間にか元いた道からは随分外れて、
暫く歩いてきてしまってた。

自分以外の周りの意見や価値観に影響されるうち、
ある程度その道で評価される様になり、

それは長い時間の間に「スタイル」「顔」となった。



顔が”商品”となる職種では、

その顔でお仕事を頂いたら、
もしその顔に自分が違和感を感じ始めていたとしても、その顔を演じなくてはいけない。

求められた商品やサービスを、
対価と引き換えに提供することは覆されてはいけないルールだし、
クライアントへの「保証」に関わる。


もし「思ってたんと違う」
とクライアントが感じたら、
JAROに訴えられても仕方ない。


常に斬新な表現を模索する中で、

触れるモノ、本であったり映画であったり、
人だったり言葉だったり、

そういう新しく出会っていくモノを通して自分が変わっていく事は十分あるだろうし、


また時には

随分横道にそれてしまったけどやはり元いた場所、初心に帰りたい、
忘れたくない、
と、

原点回帰をしたくなったりする事だってある。

でも今の顔からかけ離れた「変化」は

その商品の愛好者や、
ファンになってくれた人達を落胆させる事もある。

神のように崇められてしまっていたとしたら、
裏切られた、と思う人もいるだろう。

ただ原点に帰り自分の心からの表現をしていきたいだけなのに。

自分を押し殺し、
満ち溢れてもいないグラスからなんとか水を他へ注ぐには、
自分の魂から血を流してそれを注ぐしかない。


だけどどうやら、
時代が変わってきた様だ。


そんな自己犠牲はナンセンスだ、

好きなように生きるのに理由いらなくない?

誰にも何も言われる筋合いなくない?

重たすぎない?..


「地に足をつける」「積み上げて来た実績」みたいなのが美徳とされてきた土の時代から、

一カ所に留まることのない、
そんな「風の時代」がやってきたのだ。


以前、アーティストがリリースする「アルバム」の意味が、

読んで字の如く過去の写真を保存しておく「アルバム」の事なのだと繋がった時、

「顔」つまり「スタイル」を一つの形、
パッケージにして、
そこに一旦の終止符を打つ事で次の新しい表現、
ネクストステージへと進む事が出来るのだと腑に落ちた。

新たなスタートを切るためには、
一度「スタイル」を終わらせる必要があるのだと。


私は、
最後に”アルバム”を作ってから約10年間も新たなステージを見つけられずにいた。
というか、そのスタイルにしがみついて居た。


そのスタイルのファンでいてくれた人、
生徒さん達に裏切り者と後ろ指さされたくなくて、
いい人で居たくて、
そこにしがみついてなきゃ何もない自分に向き合うのが怖くて、
ずっと仮面にしがみついてきた。

そして、その仮面を脱ぎ捨てて「オリジナル曲です!」と胸を張った所で、
それを誰が喜ぶのだろう?

みんな興味があるのは私の仮面であって、
素顔の私の表現なんて無価値なのではないか?

そうやって人が離れて行くのが怖かったのだと思う。


かつてダイアナ・クラールというジャズプレイヤー/シンガーが、王道のジャズからポップス路線にスタイル転換した時、
界隈の多くのファンが落胆していた。

でも私は心の底で、
現代のジャズプレイヤーとしての頂点の名声をあっさり手放したダイアナ・クラールという大スターにとても好感を持った。

おこがましくも、自分の理想を彼女に重ねていたんだと思う。


時代が言っている。

「変わってもええよ。」

「ありのままの自分で行こ。」

“風”にフワッと身体が浮くように
「もっと軽くてもええよ?」

と。


アルバムに収録された曲達から

「ありがと」と「さよなら!」が聴こえる。


風に背中を押されながら、
軽々と、
前だけ向いて行こう。

ひとつ終わらせて、
誰がなんと言おうと私のスタイルで。 



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