見出し画像

風の時代の「合わない場所からの離れ方」「手離し方」

こんにちは。  愛に従って生きる事、『行動を起こす科学』について書いたり考えたりしていますReaching Out♡理詠と申します。


今日は自分を軽くする為にできる事、
「合わない場所からの離れ方」についてです。
私自身の体験を元に得たものをシェアしたいと思います。



長く務めたボーカル講師という仕事を一年前に手離した。

活動のファンでも居てくれた生徒さん達には残念な思いを抱かせた事だろうと思っている。

裏切られた様な思いを抱いた方もきっと多かったと思う。


「先生のおかげで人生変わりました」
「先生だったからこんなに長く続けてこれました」

勿体無いほどの言葉を沢山もらった。
生徒さんの中には作家さんも居て、
私のことを本に書いてくれたりもした。

冥利に尽きるとはこう言うことを言うんじゃないだろうかと思う。






2020年。
講師の仕事を辞めたくてもずっと辞めることが出来なかった私にとって、

皮肉にもコロナは”救世主”となった。


誰もが納得せざるを得ない口実となってくれた。


そうでなければ、
なんだかんだと自分に言い訳をしながら、

「大手音楽スクールの講師」と言う体裁が大好きな親の顔もチラつきつつ、

この先もずっと偽りの仮面で、
東京の暮らしと素晴らしい講師の”役”にしがみついていたと思う。


その仮面を失くしたら、空っぽの私が露呈してしまいそうで怖かった。


コロナの2年ほど前、
私に大きな「人生の転機」とも言える出来事が訪れ、講師業やライブ活動をセーブしながら学校に通い始めていた。


そこで得た事、かいた恥も気づいたことも全て、
本当の自分へと繋がっていたんだと思う。

そして何より、
自分は「他人から見た自分」を最も大切にしていた事、
「他人の人生を生きて来た」と言う事に気付いてしまった。


そしていよいよ学校を卒業という2020年、
「のっぴきならない」波が世界中に押し寄せた。


こうして振り返ると、全てはまるで”シナリオ”の様だったと思えて来る。



講師の仕事はおろか、ライブやイベントの仕事も全てキャンセル。

実に3月から7月までの5ヶ月間、一本も仕事がなかった。

私は焦り、狼狽したかと言うと、全然そんな事はなかった。


その仕事がない間、昼も夜もピアノに向かい、パソコンに齧り付いて初めてオリジナル曲を書き上げ、一人で録音、編集して動画を作り、
それを「アートにエールを!」というアーティスト支援の企画に提出した。

晴れて審査が通り、
初めてオリジナル曲で収入を得たのだ。

その達成感は、
それまで生きてきた全ての時間と引き換えにしてもいいくらいの達成感だった。


それがきっかけとなったのか、

本当の自分が求める事以外はやりたくない、という思いが強くなって行った。

講師の仕事は緩やかに再開したが、生徒数は激減したまま戻らず、

生活を維持する事は暫くは厳しいと判断し、
早々に一旦田舎に引っ越す決意をした。

そうして一年程はレッスンの時だけ上京するという事を続けた。


数十年振りの実家暮らしと、東京出張のストレスの落差のせいか、持病の偏頭痛が頻発するようになり、
薬が手放せなくなって行った。

一カ月の半分は頭痛と吐き気で寝込んで、
回復の兆しと思いきや、出張から戻るとまた寝込む…の繰り返し。


そしてある日、東京出張から戻った翌日、
朝起きたら天井がグルグル回っていた。

1人では立てなかった。
限界だ、と悟った。


生徒さんの笑顔や心配顔が頭をかすめ、胸を締め付けた。
「いつまでも復帰を待っています」と言うメールや、心ばかりと生活の足しにとお金を包んでくれた方もいた。
スクールからも引き止められた。


でももう終わりにしたかった。

満ち足りてもいないグラスからなけなしの自分を他へ注ぐ事は、もう限界だった。





誰でも、自分の人生を生きていい。
他人の欲求に振り回されて、他人の満足を満たす為だけに時間を費やすほど人生の時間は長くない。


「人の為に」。
奉仕する事は美徳とされるけど、その大前提として
「自分が心からしたい事で」というのがあると思う。


まず大切なのは自分が満たされている事。
そして分け与えられるだけ「溢れている」事。


勘違いしがちだけど、
与える事、奉仕する事は結果であり、動機にはなりにくい。
そんな事が出来る人はごく稀だし、出来ないからといって自分を責めなくてもいい。



とは言え誰かと喜びを共有する事は、何にも変え難いものがあり、
1人だけでは決して得られない、
特別な場所にしか咲かない花の香りを嗅ぐような幸福感を得られる。

そう言う個人単位の喜び、
奉仕の精神から生まれるテクノロジーが広まっていく事で、純粋に人類が高みへと向かっていく事は、
人に課せられた使命であり、大切な ”神様との約束”でもある。


だからそういう自分になれる様、
もがきながら「奉仕出来る自分」「使命を果たせる自分」へと成長していくことが
“人生という修行” “人生の目的”という事になるのだろう。


修行とは、
自分を貫く事。
自分の心に従う事。

恥かいたり転んだり、ドドメ色のあざ作ったりしながらそれでもなお、
情熱に身を焦がして勇気を持ってその道を歩いていくこと。

その結果として「自分という一本の木」が根を張り枝葉を茂らせ花を咲かせ、果実を実らせる。


その果実を分け与える事、
それが”奉仕する”ということなんだ。

木として未熟なのに奉仕を先にしようとしたらどうなるか…

きっと木も眩暈を覚えるに違いない。


奉仕で喜びを得たいなら、
幸せになりたいなら、


すがりつくものを手離してでも自分の心に従って、
自分という一本の自立した木になる努力をする。

それは、「誰かの為に」なんていう使い古された美徳的な概念以前に1番大切な事で、同様に使い古された言葉で言うなら「自分勝手」でもない。

軽々と、変化を恐れずに。


たまたま人生の交差点ですれ違い、時間を共有できた人たちと出会いは私の一部となり、
今は手離したとしても、また会うべき人ならば本当の私できっと巡り会える。


「私は行きます。私の道を選びます。
行った先でお会いできたなら歓迎します。
ここでサヨナラですか?
今までありがとう!」


屈託なく自由にどこまでもゆく”風の様に”軽々とそう言えたなら、
きっと新しい時代を軽やかに生きていける羽根を得られる。




届くべきところへ、届きます様に。

Reaching Out♡理詠でした☺︎

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?