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【 わからないをわかる 】

 文明がピークに達してしまった感のある現代。世の中に行き詰まりを感じてしまう原因はまだある。それは世のしくみをわかった気になってしまうからだ。

 文明が成熟し、人類史を揺るがす大きな発明が次々発表され、それらをわれわれは情報ネットワークを通じてほとんど知っている。いや知らされている。知りたくもない情報でも こちらが意識的に閉じなければ勝手に脳内へ流れ込んでしまう。

 でも注意すべきは、ただこれが知っただけでわかっていないということだ。ほとんどの事象が表面的に情報として拾ったに過ぎず、深く濃く入り込んでわかっているのではない。そもそも時間は有限なので、世のしくみをすべてわかるだなんて到底不可能である。なのに人間は知れば知るほど博学に見られがちだし、どうしても欲深いから、うんと背伸びをし薄く広く知識を掻き込もうとする。でもそんな人間にかぎって大切な知識が抜け落ちていたりするから灯台下暗しなのだけど。

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 五・一五事件で犬養毅が殺される間際、なかなか深い名言を遺している。

「 話せばわかる 」

この言葉は至極当然なことを言っているだけのようで、なかなか深い意味を含んでいるように思う。

 話せばわかるのであって、話さない人のことは何一つわからない。かと言って話せば誰にでも通づるかというとそうもいかない。話せばわかる、を成立させるためには聴く耳と理解する頭がいるからだ。

言葉が通じる人、そうでない人。 勘の鋭い人、鈍い人。

養老孟司先生のベストセラー本「バカの壁」を読めば一目瞭然だろうが、

世の中には話しても通じない間柄の人が圧倒的に多い。多様性の波を受け、近ごろさらに増えているのではないかとさえ案じている。これだけ人間みな平等と声高に叫ぶのは、それだけ口酸っぱく言わないと誰にも通じないからではないか

 権利にしてしまえば自ずと知ることになるので、わかってはいないながらも義務として多様性を受け入れることになる。生活が忙しく自分世界にしか興味がない人たちは、自己中心範囲からさほど離れてない近隣の多様性は受け入れつつも、理解の届かない関心ないジャンルの人々にはけっこう冷たい印象がある。例えばLGBTQの人が障がい者に配慮しないケースがあったり、差別されてる被害者意識が強すぎて、他の気を使わなさすぎる一般人に対して当たりが強かったり等々。それもこれも知ってるだけで「わかって」いないから出る弊害なのだろう きっと。

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わからないことを認めるには勇気がいる。

 わかったほうがそれはずいぶんと楽にちがいない。けれども時間が足りなかったり、さほど関心もなく煩わしかったりで だから人はよく「わからない」とは言わず「わかったふり」をする。また自分でもわかった気になることで不安を和らげてる。

 話し上手の人は人をわかった気にさせるのが上手。5分10分で完全にわかるのは難しいケースがほとんどだから 良い話か悪い話かは別として話術でうまくわかった気にさせられてる。その証拠に、説明された後何も覚えてなかったり、なのに妙に納得していたりするはずだ。

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 黒澤明の映画「乱」(1985)のなかに道化の狂阿弥を演じたピーター(池畑慎之介)が叫んだ印象深い台詞がある。

「人は泣き喚いて生まれ、泣くだけ泣いて死ぬんだ。」

つまり人は泣きながら生まれて泣きながら死んでいくというのだ。

 これを真似て言い換えるとするなら「人はわからないまま生まれて わからないまま死んでいく」だ。きっと解脱者や高僧、悟ったと言われている教祖にしたって誰でもそうなのだ。最近気づいたのは、悟りといわれているのは「諦め」に近い境地なのだということ。全てを手放す解放するということは「諦め」だ。私利私欲を棄て「無」に帰すること。

五木寛之氏も著書に記していた。「諦める」とは「明らかに究める」ことなんだ と。

 当然できないしやらないけども神じゃないんだし、人間にできるとすれば「全知全能」の対極ともいえる「無知無能」のゼロになることなのかもと感じている。

わからないからおもしろい。
わからないならわからない それでいいじゃないか。

わからないをわかる

それが今の時代をより良く生き抜くヒントなのかもしれない。


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