パンはひとつ、皆はひとつ(第二説教集15章2部試訳) #161
原題:An Homily of the Worthy Receiving and reverent esteeming of the Sacrament of the Body and Blood of Christ. (キリストの肉と血の聖奠を恭しく受けることについての説教)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(13分01秒付近から):
第1部の振り返り
善良なる人々よ、さきほどお話した中で、みなさんはなぜ救い主キリストの死と受難の記憶を持つことが喜ばれるところとなるかを知りました。また、なぜわたしたちひとりひとりがキリストとともにある食卓で誰かによってではなく自分でそれを記念するべきであるのかも知りました。また、わたしたちが集うべき聖餐の大いなる神秘がどのようなものであるのかを知りました。揺るがぬ信仰をもってどのように自身を飾れば、天の食事に与るに相応しい者となるのかも知りました。
命の新しさと信仰の実
さて、このパンを食べることもぶどう酒を飲むこともできず、命の新しさや神の国の籍を持つのに相応しくない者にかかわり、第三の大切なことをお話していきます。命の新しさを得るためには、信仰の実がこの食卓に着く者にあることが求められます。象徴としての羊を食べることが割礼を受け聖であるとされたユダヤ人を除いては認められなかったということによってわかることがあります。そうです、聖パウロが証ししているように、その人々はモーセに従って秘跡を受けたのですが、そのなかには偶像を崇拝する者と淫らな行いをする者や、キリストを試みる者と不平を言う者がいて悪を貪ったので、神は彼らを荒れ野に追いやり、わたしたちへの教訓となされました(一コリ10・1~6)。わたしたちキリスト教徒は命の聖をもって聖奠に与ろうとしなければならないのに、彼らは外面だけでそれを受け取ろうとして信を置かず、腐敗したおぞましいものに溺れてしまいました。「私が喜ぶのは慈しみであって、いけにえではない(ホセ6・6、マタ12・7)」という神のこの宣告はまさに真です。
聖餐は感謝である
聖バシレイオスは、キリストの肉と血に与るのに相応しい人についてこう述べています。それはキリストが死して復活されたことを記念して、自身の罪の宣告をせずに食べて飲むことのないようにして、肉と霊のあらゆる不浄から純であろうとする人です。またその記念のなかで、わたしたちのために死して復活なされたキリストの記憶を明らかに表すためにこの世の罪への悔い改めをし、主キリスト・イエスにおいて神のみ心に適って生きる人です。わたしたちはキリストの死が意味するところに沿って明らかに告白しなければなりません。その中でないがしろにされてならないのは、全能の神に対し、その愛するみ子の死と受難と復活を含めて、あらゆるご慈悲についての感謝を献げることです。わたしたちはこの食卓に極めて荘厳さを持たなければならないので、信仰に篤い教父たちは感謝という意味のエウカリスティアという言葉をあてました。おそらく彼らは「いつにもまして神をほめたたえましょう」という思いを込めたのでしょう。
神に心からの感謝を献げる
いまやみなさんは聖餐について、そもそもの目的や起源を覚えて感謝を持つべきであると理解できていることでしょう。これを覚えなければみなさんは全く感謝を持てない者であることを明らかにすることになります。他のどのようなものをもってしてもみなさんが神に感謝するように向かわせることはできませんので、あまたの素晴らしく恩典のあるみ恵みをあまりにもわかっていない者となってしまいます。エウカリスティアという名前それ自体が感謝を説いていることを思い、聖パウロの言葉にあるように「イエスを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう(ヘブ13・15)。」ダビデは「感謝をいけにえとする者は私を崇める(詩50・23)」としています。しかしみなさんのなかには、感謝をいけにえとする人がそうしない者と比べてなんと少ないことでしょう。ああ、福音によって十名のらい病患者が癒されたのに、一人しかその感謝を示しに戻ってきませんでした(ルカ17・17~18)。ただ幸せなことに、四十人の陪餐者のうち確かに感謝を表すのは二人だと言われています。わたしたちはとても思いやりに欠け、忘れがちで高慢な乞食であって、自分たちが与る恩典に気付いていないこともあれば、神への務めについてもよくわかっていないこともあって、受け取るものすべてに対して感謝を述べられてはいません。そうです、神のみ力によって感謝を述べるようにとされていても、わたしたちが神を讃えるのは極めて冷淡にそっけなく唇を動かしてであって、心では神を讃えていません。舌では神を讃えても、心では神を敬わず、言葉で敬っていても、行いでは神を崇めていないのです。ああ、いまここで神に心からの感謝を献げ、神がわたしたちに溢れんばかりに注がれているみ恵みを思い、それをわたしたちの心にある宝の家に収めて、やがて時宜に適うときにそれをあらわにし、聖なるみ名に栄えを向けようではありませんか。
聖餐は愛である
話を進めますが、命の新しさについては、聖パウロが「パンは一つだから、私たちは大勢で一つの体です。皆が一つのパンにあずかるからです(一コリ10・17)」と述べていることに目を向けましょう。キリストとの霊的な交わりだけでなく、キリストとの合一を明らかにすることで、この食卓にある人々は互いに結びつけられます。不和と虚栄や野心と争いや、妬みと軽蔑や憎悪と悪意によって人々がその価値を問われるのではありません。ひと塊のパンのなかにたくさんの麦の粒があるように、一つの神秘体において愛によって繋がれているのです。愛の結び目という点でいえば、初期教会の真のキリスト教徒はこの晩餐を愛と呼びました。彼らがそう言っているのですから、誰も愛や慈しみを持たずにその場にあったはずはありません。一部の人が心の中で恨みや復讐心を抱き愛着を持たずに集っているということもありませんでした。これこそがかつての人々の行いでした。ああ、天なる晩餐がそうでありますように。ああ、集う人々が信仰心をもって聖餐に与りますように。
隣人を愛するべし
しかし、ああ今日の哀れな者たちよ、わたしたちはかつて対立した兄弟たちと和解をせずにいて、苦い思いをさせてしまった兄弟たちの心を慮っていません。簡単に許そうと思えば許すことのできる兄弟たちに何の配慮も同情も持たず、誹謗と侮蔑や誤解と離別や怨恨などの内なる醜さに対して何の逡巡も持っていません。カインが持った秘かな憎しみや(創4・8)、エサウの長く隠されていた悪意や(同27・41)、ヨアブの表に見せない殺意(サム下3・27)に影響をうけて、聖にして畏れるべき神秘に邪さをもって近づこうとしているのでしょうか。ああ、みなさんはよく考えもしないでどこへ行こうというのでしょうか。平和の食卓にあるというのにみなさんは戦おうとしています。端正な食卓であるというのにそれを乱そうとしています。穏やかな食卓であるというのに議論をしようとしています。憐れみの食卓であるというのに無慈悲でいます。この晩餐を用意なされた神を畏れることなく、供された肉であるみ子キリストを敬うこともなく、その愛された客人である花嫁を認めず、内なる原告であるみなさん自身の良心を重んじもしないのでしょうか。ああ、みなさん自身の救いを大切に考え、キリストの成員であり天の国を受け継ぐ神の子たちに、神の似姿であり魂を持った高貴な被造物に、善意と愛を注ぎましょう。罪を犯したのであれば赦しを得られます。神に向かう中で躓いたのであれば、また顔を上げればよいではないですか(ルカ17・1)。兄弟を怒らせたのであればその心を宥めましょう。悪を為したのなら和解を求めましょう。貶めたのであれば名誉を回復させましょう。悪意を持ったのなら友情を抱きましょう。憎悪や悪意を持ってしまったのなら愛と慈しみを示し、司祭のように隣人の魂の健やかさと富や利益や楽しみを自分のことのように望みましょう。隣人に対する悪意が原因で神のご不興というとても恐ろしい重荷を背負うのではなく、いつもこの主の食卓の近くにいましょう。
聖餐には命の純粋と無垢の徴がある
最後に、平和の神秘とキリスト教社会の聖奠について、これによってどれほど真剣な愛が真に聖体を拝領する人々の中にあることになるかを知りましょう。ここには命の純粋と無垢の徴があり、それによってわたしたちは魂の不浄や汚れや邪さを洗い流します。そうしないと神秘のパンを受け取るにあたって、オリゲネスの言うように不浄な場でそれを食してしまうことになります。つまり魂が罪で貶められ汚されることになります。モーセの律法には「身を慎まない者は誰であれ、その一族から絶たれる(レビ23・29、民9・13)」とあります。邪で罪深い者が主の食卓で言い訳をできるとみなさんは思うでしょうか。聖パウロの書簡には、コリントの教会が主の晩餐を誤って行ったことで主から懲らしめを受け、この晩餐を恐ろしくも冒瀆したことでキリストの教会が長きにわたって悲惨に苦しめられ抑圧されるのを目にするだろうと書かれています(一コリ11・29~31)。わたしたちは普遍的に一つですので、自分なりの方法を持ってしまっているならそれを改めるべきです。そうです、わたしたちはこれまでの悪の行いを嘆き、罪を憎み、自分たちの悪行を改めなければなりません。涙を流して心を神のみ前でつまびらかにし、確たる信頼をもって神のご慈悲という軟膏を望み、神の愛するみ子イエス・キリストの血で贖われて死に至る傷を癒すことができるというところに立つべきです。確実なこととして、もしわたしたちが心からの悔い改めをもって魂の淫らな胃袋を清めなければ、そのただれた胃袋に受け取られる肉はすべて腐って台無しになり、さらなる病気の原因となります。パンとぶどう酒をいただいたとしても永遠の破滅に至ってしまいます。
自身の良心を確かめるべし
わたしたちは自分のことを他人のことであるかのように軽く考えていないかを何よりも確かめなければなりません。他人の生き方についてあれこれ言う前に、自分の良心を確かめるべきです。そのようにして自身を正していかなければなりません。ああ、聖クリュソストモスは、この食卓にユダが一人もあってはならず、一人の貪欲な者も近づけてはならないと言っています。弟子であるのならいさせていてよいでしょう。キリストは「弟子たちと一緒に過越の食事をする(マタ26・18)」と言われています。この初期教会の司祭はなぜこう叫んだのでしょうか。「弟子でさえあれば近くに寄せてよいのだろうか。」「なぜ彼らは戸を閉めた状態でこの神秘をしたのだろうか。」「なぜ教えを信じ悔い改めをしていた者たちはこの時を逃れたのか。」「この食卓は聖でもなく不浄で罪深い客人たちを受け入れたことになるのではないだろうか。」弟子たちは最後の晩餐を自分たちが汚したと思っていたのですから、わたしたちは自分の罪が主のみ前で裁きにかけられるのではないかと思わなければなりません。弟子たちが淫らで不浄な口でもって主の手に口づけをしたと責められるのであれば、淫らな魂をもって貪欲さと色欲と大酒飲みと高慢にまみれているみなさんは、邪な見方や考え方をして主のパンとぶどう酒に罪に汚れた息を吹きかけているというのに、罪に問われないというのでしょうか。
まとめと結びの祈り
ここまでみなさんは、キリストのみ言葉と、それが指すもの自体と、それによる果実についての知識を持つことで、聖餐にどれほど恭しく丁寧に着くべきあるのかについて話を聞きました。聖餐は命のあらゆる新しさの泉である真にして揺るがぬ信仰をもたらすとともに、神を讃えて隣人に愛を注ぎ、わたしたちの良心から汚れを洗い流すものです。聖餐についての無知は誤解を生み出し、不信仰によってわたしたちは果実から遠ざけられ、罪や不正を犯すことによって神の災厄を招きます。しかし信仰があれば、信仰をもって命を知って改めれば、神秘体における頭であるキリストと一になって慰めに至り、わたしたちはキリストにおいて結実し、永遠の喜びある命へと至ります。それに与らせるために、キリストは死を受け入れられ、わたしたちを贖われました。義なるイエス・キリストに、父と聖霊とともに、一にして真なる永遠なる神に、すべての賞讃と誉れと栄えがとこしえにありますように。アーメン。
今回は第二説教集第15章第2部「パンはひとつ、皆はひとつ」の試訳でした。これで15章を終わります。次回から16章に入ります。最後までお読みいただきありがとうございました。
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