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慈善は信仰の実である(第二説教集11章2部試訳) #142

原題:An Homily of Aims-Deeds, and Mercifulness toward the Poor and Needy. (助けを求める貧しい人々に対する施しと慈善についての説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(12分14秒付近から23分34秒付近まで):


第1部の振り返り~施しをすべし

 愛すべき者たちよ、みなさんは貧しい人々に施しをしたり助けを求められて救いの手を差しのべたりすることが、救い主キリストに大いに受け取られるものであることを知りました。また、キリストがそれをご自身に向けられたものであるとして、そのようなことをした人々に報いられるということも知りました。みなさんはまた、使徒や預言者や教父や博士たちがどれだけ熱を込めてわたしたちにこのことを勧めているかも知りました。みなさんは聖書の言葉から、施しをする人々がどれほど神に愛され大切にされているのかを知りました。使徒たちなどの逸話や信仰に篤い教父たちの勧告にあるとおり、わたしたちが確信できるキリストの愛はわたしたちの心を動かし、わたしたちとともにあらゆることを為します。これからは神に対してこの感謝に満ちた務めを見せ、貧しく悲惨な中にいる人々を助けるべく心を尽くしていきましょう。

第2部の目的~施しによる果実

 さて、施しについてみなさんにお話するこの説教の第二部では、施しをすることがわたしたちにとってどれほど益のあることであり、信仰をもってこれを行うことによってどのような果実がもたらされるかをお示ししたいと思います。救い主キリストは福音のなかで、この世の豊かさや富や栄光を持っても、そうすることで自身の魂を傷つけ、死や罪や地獄の業火に至っては益とならないと説かれています(マタ16・26)。そのように説くことによってキリストはわたしたちに、この世の富よりも魂の健全さのほうがどれほどに大切であるのかということに加え、それがわたしたちの心をかき立て押し進めているということを諭されています。わたしたちは自分の魂を永遠に安らかに保つとはどのような意味であるかを心から求めて学ぶべきです。言いかえれば、いったんその健全さが失われたり損なわれたりしたら、どのようにしてわたしたちがそれを取り戻せるのか、また、いったんその健全さを得たとして、どのようにしてそれを保っていくことができるのかをキリストは諭しておられます。キリストはわたしたちに、その健全さとは貴重な薬や値のつけようもない宝石であって、その中には大きな力と美徳があって、何物にも比べようのない富があると心得るよう説いておられます。肉体を蝕む深刻な病を癒す効力を持つものとして飲み薬や軟膏があるということを認めているのであれば、魂に対しても同じような力を持つものについて認めることができるはずです。わたしたちはすでに、肉体について有効な治療法を確かに知って持っています。魂については、極めて慈悲深く愛のある教師であるキリストが、何がその薬であって、わたしたちがどこでそれを見つけることができて、どのようにすればそれをうまく活用することができるのかをお示しになっています。

できることを施しとして与えよ

 キリストとその弟子たちがファリサイ派に不当にも訴えられたのは、長年の取り決めを破って彼らの魂を汚したためでした。食事をするとき、ユダヤの慣例どおりにまず手を洗うということをしなかったのです。キリストは彼らの頑迷な訴えにお答えになりながら、魂を清く保つための特別な治療法について、迷信的な決まりごとに反したことはともかくとしてこう説かれています。「むしろ、できることを施しとして与えなさい。そうすれば、あなたがたにはすべてのものが清くなる(ルカ11・41)。」貧しい人々を助けるべく憐れみ深くかつ慈悲深くあることが、神の目において魂を純粋に清くしておくための方法であるとキリストは説かれています。わたしたちはここから、慈悲をもった施しの行為は魂を罪の伝染や悪弊から解放するものであると学ぶことができます。これと同じ教訓を聖霊は聖書の多くの箇所で語っています。「施しをすれば、人は死から救われ、暗黒の世界に行かずに済むのである(トビ4・10)。」苦しんでいる人々に慈悲と憐れみを示すことで、いと高き神のみ前に立てます。シラの息子である賢明な説教者もこのことについて、「水が燃え盛る火を消すように、施しは罪を償う(シラ3・30)」と言っています。慈悲によって罪の火元が確かに鎮められるのですから、罪が人に襲いかかって傷を負わせるということはありません。その人が不確かさや弱さから罪に触れ苛まれることがあっても、罪がもたらす恐ろしく大きな病を癒す軟膏や治療薬である慈悲がただちにその罪を洗い去ります。聖なる教父であるキプリアヌスは貧しい人々に施しを与えて助けるという慈悲深い行いについて熱心に説いています。救いを求める人々に手を差し伸べ苦難の中にある人々を助けることによってわたしたちは罪を清めて傷ついた魂を癒すことになるのであり、これがどれほど健全であり益のあるものであるのかを考えるようにと彼は戒めています。

施しをすれば救われるという誤解

 しかし、なかにはわたしにこのように言う者もいるでしょう。「貧しい人々に施しを与えて慈悲ある行いをすることで罪が洗い流されて神と和解し、破滅という災厄から救われ、神の国の子となり相続者となることができるのなら、キリストの功徳はなくてもよいものとなり、流されたその血は無駄になるのではないだろうか。行いによって義とされるなら、行いによって天の国を受け継ぐことができるなら、キリストがわたしたちの罪を消し去るために亡くなられ、わたしたちを義とされるために天に昇られたと聖パウロが説いたことを信じるのは間違いではないだろうか。」愛すべき者たちよ、さきほど引用した聖書の箇所も、祝福された殉教者キプリアヌスの教えも、慈悲という美徳のある施しによって受ける聖なる恩典や果実を説くものです。多くの信仰深く学識のある人々が、そのような行いをすることで罪が洗い流され、わたしたちをみ心に適わせると言ってはいます。しかし慈悲をもった行いをすれば神に受け入れられるであるとか、その行いの大きさによってわたしたちの罪が洗い流され、わたしたちの病がすべてなくなり清められるとかということを言わんとしているのではありません。キリストが貶められてその栄光がないものとなるわけではないのだとみなさんは理解できるでしょう。

神にあることによって果実に与る

言わんとしているのはこういうことです。神は永遠の救済に定められた人々に対して、ご慈悲と大いなる恩寵を持たれてみ恵みを示されました。これは実りあるものでありますが、人間は罪深い生のなかにあるので、自分が怒りと劫罰の子であると思ってしまっていました。しかしいまは、神の霊が強く彼らのなかで働いていて、み心や戒めへの服従があります。目に見える生における行いの中で、神の霊やみ恵みからしか得られない憐れみや慈悲を見て、自分たちは永遠の命に定められた疑いのない神の子であると確信できています。言い換えますと、かつては周りからみて邪さやみ心に適わない生という形で自身を見ていたのであり、これを目に見えるとおりに言えば、悪漢か無頼の徒でしかありません。それがいまでは、聖なるみ心への服従をもって、また、あらゆる慈悲の泉であり源である神を向いた上での、自身の内にある慈悲の心と愛情ある憐れみをもって、堂々と明らかに、自分たちは神の子であって救いに選ばれた者であると宣言できています。良い木が必ずしもいつもよい実をつけるとは限らないかもしれませんが、その木は実をつける前から良い木としてあります。同じように、善い行いによって人間が善いものとされるのではなく、人間が神の霊とみ恵みによって善なるものとなっているのであり、神にあることで良い実がもたらされるのです。

み心に適うことによって果実に与る

 良い実によって木の良さがわかるのと同じく、人間の善にして慈悲のある行いによってその善性がはっきりとわかるのは、キリストが「あなたがたは、その実で彼らを見分ける(マタ7・16)」と言われているとおりです。邪悪で乱暴な者でも行いによっては極めて善で美徳のある者のように見えるのではないかという反論に対してはこうお答えします。蟹や赤梨の外側にある赤の色が深ければ、その肉は実際に美味であるはずです。口にして味わってみれば、苦くて不味いものと甘くて美味しいものの違いがよくわかります。真のキリスト教徒はキリストの死による魂の贖いに心から感謝し、信仰の実によって神への服従を穏やかに示します。しかし神と取引をしようとする者は、利益を求めてあらゆることを為し、自身の行いによる功績で天国に入れるのだと考え、わたしたちを清めたキリストの血の価値を貶めて低いものとしています。聖書などにある「施しをすればわたしたちの罪が洗い流される」や「貧しい人々への慈悲を持つことでわたしたちの罪がなくなる」という言葉(ルカ11・41)の意味するところは、わたしたちがそういうことをみ心に適って行えば罪が洗い流されてなくなるということです。けっしてその行いの価値によるのではありません。すべてのものに対する神のみ恵みによって、また、真である神が真の約束によって真を行うにあたって正しいものとされる戒めに従う人々に対してそうなるということです。

行いを妄信する者は果実に与れない

施しによってわたしたちの罪が洗い流されるのは、わたしたちが神のためにそれをすることによって、神がわたしたちを清く純であるものとしてくださるからです。施しという行いそのものでわたしたちが清められるとか、施しという行いそれ自体にそのような力や徳があるとかというのではありません。この行いそれ自体をするということにあまりに執心している者たちのなかには、わたしの言うことに納得しない者もいるでしょう。しかしそもそもそのような者にとっては、どのような言葉も納得のいく十分なものではないでしょう。それゆえ、そのような者にはそのような者なりの邪な考え方をさせておくままにしておきましょう。わたしたちは自身をよくわきまえていて理性があって信仰に篤い人々にはあらゆる善性と豊かさや、あらゆる慈悲と恵みや、あらゆる罪の赦しがあると思いましょう。身体にも魂にも善であり恵みがあるとされる行いはどんなものであれ神のご慈悲や恩寵から出るもので、その行い自体としてはじめからあるのではないと思いましょう。そう思える人は善い行いを卓越して多く行っているわけではないとしても、その行い自体への虚しい自信から鼻を高くすることもありません。慈悲や憐れみを持って施しをすることにより罪が洗い流されて悪ではないとされるということをみ言葉の中で、あるいは信仰に篤い教父の言葉のなかで聞いて読んでいても、傲慢にまた自分勝手にその行い自体を妄信することはありません。ファリサイ派のように自分のする行い自慢することもありません。

慎み深く信仰に篤い人が果実に与る

したがってファリサイ派と同じく非難されるのではなく、むしろ、自身が罪深く天を見上げるにも相応しくない者であると告白して慈悲を切に求める慎ましく貧しい徴税人と同じく、キリストによって義とされます。善にして慈悲のある行いによって神の恩寵に与ることができると聖書に書いてあることについては、信仰深い人であれば、み心に従うことによってキリストが執り成しをされ、父から何を授けられるかを知ることができると理解しています。信仰深い人ならば、神のみが持たれる恩寵や愛について満足をもって語る中で、キリストが神の霊によってわたしたちの中でなされ、み恵みによってわたしたちにかわって得られたものがわたしたちの行いとなることを理解しています。そうであるのに、彼らは聖パウロとともに「私はなんと惨めな人間なのでしょう(ロマ7・24)」と嘆き、キリストが説かれているように、命じられたことをすべて果たしても、役に立たない僕であると認め(ルカ17・10)、またダビデ王とともに、神の正しい裁きについて、「主よ、あなたが過ちに目を留めるなら、わが主よ、誰が耐えられましょう(詩130・3)」とおののきながら語ります。

信仰を持ち行いを為す人が果実を得る

 このように、信仰深い人であるならば慎ましくありながら神を讃えるものです。自身を卑しい者であるとし、神はそのような彼らを純にして清となされます。彼らは自身を責めていますが神により義とされます。彼らは自身をこの世で役に立たない者であるとしますが、神は天国に適う者であるとされます。み言葉にある慈愛をもった施しの行いによって、また、神のみが持たれる慈悲と善性によって、み言葉に約束された果実を受け取る者となるという正しさを真に知ることとなります。そのような人々にならって、わたしたちが命じられている慈愛をもった行いをこの世の生のなかで従順になすとともに、わたしたちに説かれていることの正しさに思いを致しましょう。彼らは果実を受け取る者となりますが、それと同じように、信仰深い生によって得る果実や報いを感じとり、施しを行って貧しい人々を助けることによって、わたしたちはどのような恵みや恩典を得るかを確かに知ることができるのです。


今回は第二説教集第11章第2部「慈善は信仰の実である」の試訳でした。次回は第3部に入ります。まずは解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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