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神の力、神の知恵(1)(第二説教集10章2部試訳1) #137

原題:An Information for them which take offence at certain places of the holy Scripture. (聖書の一部に疑いを持つ者たちにかかわる説教)

※第2部の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(17分24秒付近から25秒15分付近まで):


第1部の振り返り~聖書と世の統治

 善良なる者たちよ、みなさんはこの説教で、聖書の大いなる御恵みを知りました。また、神を理解しようとしない無知な人間が、聖書を貶める言い訳をどのようにして探しているかを知りました。そのうちの一部についてはなぜそうなるかも知りました。さて話を進め、政治に携わる人々についてお話しましょう。彼らの中にはキリストの教えが世の統治におけるあらゆる秩序を破壊しかねないと主張する者もいます。これは例えば次のようなところについてです。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい(マタ5・39~40)。」「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない(同6・3)。」「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい(同18・8)。」「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい(同18・9)。」聖パウロも「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる(ロマ12・20)」と言っています。

自然の人は神の霊を理解できない

善良なる者たちよ、これらの言葉は、一般には実に荒唐無稽で理に適っていないものと思えるかもしれません。聖パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです(一コリ2・14)」と述べています。キリストは信仰深い僕たちを悪への復讐から遠いところに置かれた上で、愛も忍耐もなくおられるどころか、むしろ別の悪を受け入れようとなされます。キリストはわたしたちの善い行いをあらゆる肉的な志向から遠いところに置かれますので、それを理解できない隣人たちに、わたしたちが虚しい富に打ち勝つために為す善行について知らせるということをなさりません。友人や近親者はわたしたちの右目や右手と同じほどに大切ですが、その彼らがわたしたちを神から引き離そうとするのなら、わたしたちは彼らから離れ、彼らを捨てなければなりません。

肉を打ち消し、心で霊を受け入れる

 聖書から学びを多く得る聞き手や読み手でありたいとするのなら、みなさんはまず肉である自身を打ち消し、肉的な意味において耳に入る言葉を受けつつも、その言わんとするところをよく見きわめねばなりません。神の聖なる霊を心で受け入れ、この世の知恵をもって考えるところを神の貴い知性や深慮に結びつけなければなりません。耳で聞けば奇妙に響くとしても、聖書は生ける神の御言葉です。預言者イザヤがよく繰り返す「主の口がそう語られる(イザ1・20)」という言葉をいつも覚えるべきです。「天を創造し、これを延べ、地とそこから生ずるものを広げ、(同42・5)、」「地の果てまで創造された方(同40・28)。」「すなわち海の中に道を、荒れ狂う水の中に通り道を作られ(同43・16)、」「神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神(申10・17)。」聖書は全能にして永遠の神が語られているものです。すべての真である神から出るものは真でしかなく、全能の神が編み出されたことは深慮と愛をもってしか語られません。しかし悲惨な存在であるわたしたちは、御恵みに与ろうとしても、神の極めて聖なる御言葉をどれほど受け取れないでいることでしょうか。

不信心な者、罪を犯す者、嘲る者

預言者ダビデは幸福な人間というものについて、「幸いな者、悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人(詩1・1)」と言っています。幸福な人間であり神の祝福を受ける者であるこの預言者にとっては、かかわることを逃れて避けたい人間が三種類いることになります。この悪しき者の謀に歩まない人、罪人の道に立たない人、嘲る者の座に着かない人とあることの対極にある者たちです。つまりは不信心な者、罪を犯す者、そして嘲る者という三つによって、あらゆる不敬虔が十分に言い表されています。第一に挙げる不信心な者とは、心を大いにこの世に置いて神をまったく畏れず、この世の肉的な物事や想像を、つまり淫らな情欲や欲望をどのように満たすかに執心している者たちであり、信仰を避けて全能の神を一切認めない者たちです。第二の種類を彼は罪を犯す者と呼んでいるのですが、これは無知によってというよりは虚弱さによって倒れる者たちです。しかし、そもそもいったい罪を離れている人間はいるのでしょうか。キリストを別として、この世に生きた人間で罪を犯していない者などいるのでしょうか。

正しき者は七度倒れても起き上がる

とはいえこれは「正しき者は七度倒れても起き上がる(箴24・16)」とあることからわかります。信仰に篤い人でも倒れることはありますが、彼らは意図して罪の中を歩くことはなく、立ち止まって罪の中に留まり続けることもありません。思慮のない者たちのように、神による罪への罰をまったく畏れることなく罪の中に腰を落ち着けるなどということはありません。罪を克服し、神の大いなる御恵みと無辺の御慈悲によって再び立ち上がり、再び罪と戦います。かの預言者が彼らを罪を犯す者と呼ぶのは、心が神に照らされ清らかであっても、その人生の旅路そのものが罪であるということにほかなりません。彼らは罪ある人生の旅路にあることについて大いに喜びを持っており、したがって罪の中で生き続けることを選んでいるということになります。かの預言者は第三の種類の者たちを嘲る者と呼んでいます。これはその心があまりに悪意に凝り固まっていて、ただ罪の中で生きるのではなく、また自身の人生をあらゆる邪さの中で送ろうとするだけでもありません。真の宗教のあらゆる善性や、すべての誠実さや美徳について、他を非難して嘲る者たちです。

嘲る者は悔い改めなければ滅びる

 わたしははじめの二種類の者たちについては、悔い改めをして神に向かうよりほかないとは言いません。しかし三番目の種類の者たちについては、神の裁きへの恐れなしに宣言しましょう。この者たちは悔い改めをして神に向かわない限り、やがて来るべき神の裁きの日まで、忌み嫌われる邪さのなかにあるまま自身を破滅へと向かわせることになります。このような嘲る者の例をわたしたちは『歴代誌下』に見ています。善き王であるヒゼキヤは、その統治の初期に偶像を破壊し、神殿を清めて王国の宗教を立て直したのですが、その時に彼はすべての町に使者を送って人々をエルサレムに集め、神が定められたとおりに過越祭を祝うこととしました(代下30・1)。「急ぎの使いはエフライムとマナセの地を町から町へと渡り、ゼブルンまで行った(同30・10)」のですが、そこの人々はどんなことをしたでしょうか。彼らは声を大にして、偶像崇拝をなくすことに熱意を持った王を授けられた神の御名を、真の宗教を回復させた善良な王を授けられた神の御名を誉め讃えたでしょうか。なんとそうではありませんでした。

人々は彼らを物笑いにし、嘲った

聖書には「人々は彼らを物笑いにし、嘲った(同30・10)」とあります。この書の終わりのところには次のように書かれています。「先祖の神、主はその民と住まいを憐れみ、彼らに御使いを日々繰り返し遣わされたが、民は神の使いを、弄び、その言葉を侮り、預言者を嘲笑した。それゆえ、民に対する王の憤りは、もはやとどめようがなくなるまでになった。主はカルデア人の王を彼らに向かって攻め上らせた。王は若者たちを聖所の中で剣にかけて殺し、若者もおとめも、弱った老人も容赦しなかった。主はすべての者を彼の手に渡された。彼は神殿の大小のあらゆる祭具、主の神殿の宝物、王とその高官たちの宝物、それらすべてをバビロンに運び去った。カルデア人は、神殿を火で焼き、エルサレムの城壁を破壊し、宮殿を焼き払い、貴重な器すべてを粉々にした(同36・15~19)。」また、ノアの時代に生きた邪な者たちは神の御言葉を嘲るのみであったのですが、ノアはその者たちに神がその罪に対して復讐をなさるだろうと言いました。そして洪水が突如としてもたらされ、そのような者たちはもちろんのこと、世界中が呑み込まれました。

嘲る者が現れ欲望のままに振る舞う

ロトはソドムの民に対して、悔い改めなければ町も人々ももろともに滅ぼされると説きました。彼らはロトの言うことを真に受けず、むしろ彼の戒めを嘲って軽んじ、彼を愚かな老人であると評しました。神は天使を遣わしてロトとその妻と二人の娘をソドムの民の中から救い出したのち、天から火と硫黄を降らせ、聖なる御言葉を嘲り笑った者たちを焼き尽くされました。書記官やファリサイ派の者たちの間でキリストの教えはどのような評価をされていたでしょうか。そしてその報いはどのようなものであったでしょうか。福音書には貪欲なファリサイ派の者たちがキリストの教えを嘲ったと書かれています。みなさんはこの世で富める者たちが自身の救いについて嘲ったことを知っているでしょう。また、この世の知恵を尊ぶ者たちはキリストの教えを愚かで理解に苦しむものであるとして嘲っています。このような者たちは今までもいましたが、この先も世の終わりまでいることでしょう。これは聖ペトロが「終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って(二ペト3・3)」と言っているとおりです。



今回は第二説教集第10章第2部「神の力、神の知恵」の試訳1でした。次回は試訳2となります。最後までお読みいただきありがとうございました。

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