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愛をもって耐えた方(1)(第二説教集13章2部試訳1) #153

原題:The Second Homily concerning the Death and Passion of our Saviour Christ. (救い主キリストの死と受難についての第二の説教)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(18分00秒から28分39秒付近まで):



キリストはなぜ死を受け入れたか

 救い主キリストが等しくすべての人間のために死を受けられたことについて、その大いなる慈悲と善性を十分に踏まえ良心の底へとおりれば、なぜキリストがそうなされるに至ったのかについて、第一にして大いなる理由を深く考えることができます。わたしたちの始祖であるアダムは「妻の声に聞き従い(創3・17)」楽園で禁じられていた果実を食べ神の戒めを破り、自身に対して、また、自身の子孫に対しては永遠に、神の大いなる怒りを受けました。神はその戒めを与える際に発せられたみ言葉のとおり、アダムはもとより、彼に繋がるすべての人間を肉体と魂の永遠なる死に定められました。神のみ言葉はこのようなものでした。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる(同2・16~17)。」神が言われたとおりのそのような結果となりました。アダムはその木から実を取って食べて死に敗れる者となった、つまり死すべき者となりました。人間は神の恩寵を失って楽園を追われ、もはや天の国の民ではなく地獄で焼かれる者となり、悪魔の奴隷に堕しました。このことについて救い主は福音書の中で、わたしたちを道に迷って魂の真の牧者から離れた「見失った羊(ルカ15・6)」と呼んでおられます。また、これについて聖パウロも「一人の過ちによってすべての人が罪に定められた(ロマ5・18)」と言っています。アダムも、また彼に繋がる誰もが、天の国にあるいかなる権利も財産も持たないこととなり、むしろ地獄の業火による永遠の苦しみに定められるただの罪人や棄民となりました。このあまりに大きな不幸と悲惨のなかで、人間は永遠の死からなんとかして自身を救い出そうとしました。もし人間が再び自身を取り戻すことができて、神の手にある赦しを得ることができていたのなら、この不幸や悲惨も人間の側としてはある意味で許容できるものであったでしょう。しかし、人間には何の術もありませんでした。人間は神の怒りを鎮めるために何も為すことはできず、その点において人間はまったく無力でした。「善を行う者はいない、一人もいない(詩14・3)」ということであったのです。

人間は自力では自分を救えない

 人間がどうして自身の救済を為すことができるというのでしょう。人間は旧い律法に定められたとおり、「雄山羊や雄牛の血、また雌牛の灰(ヘブ9・13)」など「焼き尽くすいけにえ(同10・8)」を献げることによって、神の大いなる怒りを鎮めることができるというのでしょうか。ああ、このようなものには罪を取り除く力も強さもありません。神の怒りを鎮めることも、神の怒りという熱を冷まして人間に再び恩寵をもたらすこともできません。このようなものは「やがて来る良いことの影(同10・1)」のほかの何物でもありません。『ヘブライ人への手紙』を読めば、みなさんはこのことについて詳しく述べられていることを知ることができます。極めて平易な言葉で、旧い律法にある血を献げるいけにえが力のないもので、どのようにしたところで人間を破滅の状態から救い出すことなどできないということを学ぶことができます(同10・3~4)。そのようなものを信じるということは、壊れたものを信じていることになるのであり、ついには自身を欺くことになります。

人間は脆い~善を行う者はいない

 人間はどうすればよいのでしょうか。二つある神の律法を奉じ、またそれらを信じて生きることで永遠の命を買い取るべきなのでしょうか。実際に、もしアダムとその子孫が新しい律法によく従い、どんなものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛していたら、彼らは難なく神の怒りを鎮め、全能の神の口から発せられた永遠の死という恐ろしい宣告を受けずに済んだでしょう。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる(ルカ10・28)」とあるとおりです。これは言い換えれば、わたしの言葉を守るように心がけ、わたしの心に従い、わたしの言葉のとおりにしなさい、そうすればあなたは死ぬことなく生きることができるということです。ここに、律法に従って生きることによって約束される永遠の命があります。しかし堕落した後の人間の脆さはあまりに大きく、また虚弱や愚劣もあまりに大きいものでした。歩みが覚束ないものとならないようにしながらも、人間は神の戒めを守って真っすぐに歩くことができず、むしろ日々刻々としだいにその定められた務めから離れました。あらゆる点で主なる神に逆らってその怒りをより大きいものにし、その結果として預言者ダビデが嘆くに至りました。「すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない(詩14・3)。」もはや人間は律法によってどんな恵みを得ることができるというのでしょう。何も得ません。聖ヤコブは「律法全体を守ったとしても、一つでも過ちを犯すなら、すべてにおいて有罪となる(ヤコ2・10)」と言っています。『申命記』の中で神は「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる(申27・26、ガラ3・10)」と言われています。

人間は律法を守ることもできない

 律法は呪いをもたらし、わたしたちを罪ある者とします。とはいえ神はわたしたちにそう考えることを禁じられています。律法それ自体が卑しく聖でないはずはないからです。罪深い肉の弱さがあまりに大きいために、わたしたちは神がお求めになる全きさに照らして律法に従って生きることができません。みなさんはアダムが律法によって守られることを望んだり信じたりしたと思うでしょうか。そうではありませんでした。律法を守ろうとすればするほど、あたかもきれいな鏡でみているかのように、アダムは目の前にある自身の罪深さを目にしたでしょう。自身の目で見ても彼は極めて救いようがなく悲惨で、あらゆる望みがなく、神の大いなる怒りを鎮めることもできず、主なる神の厳しい戒律に背いたことによって彼自身とその子孫すべてに降りかかる神の恐ろしい罰から逃れようもなくなりました。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか(ロマ11・33)。」神の燃えたぎる怒りを鎮めて自身の魂を救い、置かれているこの悲惨なところから立ち上がる力などわたしたち自身の中には全くなく、義のすべての望みがなくなってしまったときに、神のみ子キリストが、父の為された約束により天から降りてこられました。

その人間の罪をキリストが負った

わたしたちのために傷つけられ、邪な者たちにあざ笑われ、死の宣告を受けられ、わたしたちの罪の報いを一身に受けられ、わたしたちの罪のためにご自身の肉体を十字架につけられました。預言者イザヤはキリストのこととして、「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった(イザ53・4)。」「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた(同53・5)」と言っています。同じように聖パウロも「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです(二コリ5・21)」と言っています。また聖ペトロもまったく同じように「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました(一ペト3・18)」と書き残しています。これらの他にも、同じようなことが述べられているところは数えきれないほどあるのですが、ここではこれで十分でしょう。

人間の罪がキリストの死を招いた

 さて、はじめにもお話しましたが、わたしたちはキリストの死の原因についてよく考えなければなりません。そうすることによってわたしたちはこの世の生においてキリストを栄えとすることができます。簡潔に一言でこれを理解するとするならば、わたしたちの側には背信や罪のほかには何もなかったということに尽きます。天使がヨセフに現れ、恐れずにマリアを妻に迎えるべきであると言い、民を罪から救うことになるという理由から、ヨセフは子をイエスと名付けたのではなかったでしょうか(マタ1・20~21)。バプテスマのヨハネがキリストについて説教をしていて、人々に対してそのキリストを指で示したとき、彼はただ「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(ヨハ1・29)」と言ったのではなかったでしょうか。カナンの女が悪霊に取りつかれた自身の娘のためにキリストに助けを求めたとき、キリストは「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない(マタ15・24)」とはっきり言われなかったでしょうか。罪こそが、ああ、あなたがた人間の罪こそが神のたった一人のみ子であるキリストの肉体を十字架につけ、そこで極めて苦痛に満ちたむごたらしい死をキリストにもたらしました。もしあなたがた人間が自身を正していたら、神の戒めを守っていたら、始祖であるアダムが神のみ心に反しようと考えなかったらどうだったでしょう。

人間のためにキリストは苦しんだ

キリストは神の形であられるながら僕の姿でこの世に来られる必要はありませんでした。天において不死であられるのに、この世で死すべき者となられる必要もありませんでした。魂の真の糧であられるのに飢えに苦しまれることも、命の聖水であられるのに渇きに苦しまれることも、命そのものであられるのに死を受けられることもありませんでした(ロマ5・19、フィリ2・6~8)。キリストはこのようなたくさんの仕打ちをあなたがた人間の極めて大きく深い罪によって受けられました。神はキリストのみを喜ばれ、他の誰も喜ばれはしませんでした。ああ、罪深い人間たちよ、みなさんは自身の罪深さに震えることなくしてこのことに考えを及ばせることができるのでしょうか。みなさんは良心の呵責も心の痛みも感じずにこのことを黙って聞いていられるのでしょうか。キリストはみなさんのために受難を持たれたというのに、みなさんはキリストに対して何の感情も持たないでいるというのでしょうか。キリストが十字架につけられて聖霊に大声で叫ばれたときのことについて、聖書にはこうあります。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った(マタ27・51)。」

キリストの受難を悲しまないのか

 わたしたちの罪のために、キリストがユダヤ人によって悲惨にまた残酷に扱われたことを思っても、人間の心は全く動かないものなのでしょうか。人間は死人よりも感情を持たず、石よりも固い頭をしているのでしょうか。心に呼びかけるべきです。ああ、罪深い被造物よ、みなさんの目の前でキリストは十字架につけられました。キリストの肉体が十字架の上で引き延ばされ、頭には茨の冠がかぶせられ、手足は釘で打ち付けられ、胸は槍で引き裂かれ、肉は鞭でちぎられ、額は汗と血にまみれていたのをあなたがたは目にしたではありませんか。想像を絶する痛みのなかでキリストが父に対して「わが神、わが神、私をお見捨てになったのですか(同27・46)」と叫ばれたのをみなさんは耳にしたではありませんか。このおぞましい光景を目にして、悲痛に満ちた声を耳にしていながら涙を流すこともないのでしょうか。このような苦しみすべてを受けられたのがキリストご自身の落ち度によるのではなく、みなさんの罪の深さによることを考えもしないのでしょうか。

キリストの受難を思うべきである

ああ、人間は神の永遠のみ子がそのような苦しみを受けたことに思いを致すべきです。ああ、わたしたちこそがキリストの死の原因であり、キリストが受けられた苦痛の唯一の源です。わたしたちはただ嘆いて、罪を犯したその時代を呪えばよいのでしょうか。いや兄弟たちよ、キリストが十字架につけられた姿をいつも心に刻むべきです。そうすることによってわたしたちは自身の罪を憎み、全能なる神の大いなる愛に気付くことになります。これは何のためでしょうか。一つの林檎を食べ、定められたところに背いたことにかかわり、神は全世界を永遠の死に定められました。み子の血をもってするほかに神の怒りが和らげられることはないと知っていながら、この罪が神の目において忌むべきことではないとみなさんは考えるでしょうか。実にダビデは「あなたは不正を喜ぶ神ではなく、あなたのもとに悪がとどまることはありません(詩5・5)」と言っています。聖なる預言者イザヤの口からは、主に罪人たちに向けて「災いあれ、空しいことを手綱として過ちを引き寄せ、綱で車を引くように罪を引き寄せる者に(イザ5・18)」という言葉があります。


今回は第二説教集第13章第1部「罵られても罵り返さず」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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