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思い違いをするべからず(2)(第二説教集10章1部試訳2) #134

原題:An Information for them which take offence at certain places of the holy Scripture. (聖書の一部に疑いを持つ者たちにかかわる説教)

※第1部の試訳は3回に分けてお届けします。その2回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(4分59秒付近から14分23秒付近まで):


聖書ほどにキリストを表すものはない

 キリストが着られたという衣服を誰かがわたしたちに見せたとします。大きく心を動かされ、それをじっくり見ようとするか、それに口づけするために近くに寄ろうとしてしまう者もいます。しかしキリストが実際に身につけられた衣服などというのはどれも、聖書とは違って、決して正しくもまた生き生きとも、キリストをわたしたちに見せるものではありません。キリストに対して抱く愛のゆえに、木や石や金属で作られたキリストの像を真珠や金や宝石で飾り立てて美しく見せようとする者もいます。善良なる兄弟たちよ、わたしたちはこのようにするのではなく、どのような像よりもはるかに正しくキリストを見せている聖書を、つまりは神の聖なる書を胸に抱くべきではないでしょうか。キリストの像などというものは、せいぜいキリストの御体の形を表現できるものでしかありません。しかし、聖書はわたしたちにキリストをありありと見せ、その神性と人性の両方を知ることができるようにしています。例えばわたしたちは、キリストがわたしたちに語りかけられ、わたしたちの病を癒してくださり、わたしたちの罪を背負って亡くなられ、わたしたちの義のために死からよみがえられたことを聖書のなかで知ることができます。わたしたちは信仰の目をもてば、聖書の中でキリストのお姿をしっかりと見ることができます。ただ、信仰を持たずに肉的な目でキリストを見ようとすれば、キリストがいまもここに、わたしたちの前におられるというのに、しっかりと見ることができないでしまいます。

聖書を読まず思い違いをする者がいる

すべての男も女や子どもも、心のすべてをもって神の聖なる書を求め、愛着を持ってそれを胸に抱き、聖書の言葉を聞いて読むことに喜びと楽しみを持つべきです。そうすることによって聖書にあるように生まれ変わることができます。聖書は神の宝の家であり、その中にはわたしたちが見て聞いて学んで信じるべき大切なものが、つまり、永遠の命を授かるために大切なものがすべてあります。長々と語ってきていますが、わたしは聖書の言葉を聞いて読むことによって得られる御恵みをみなさんに知ってもらいたいのです。というのは、わたしが初めに申しましたとおり、わたしのどんな言葉をもってしても御恵みの大きさを言い表すことはできないからです。聖書について無知であることが誤りの源であるというのは真昼の明るさよりも明らかであり、それは、キリストがサドカイ派の者たちに「あなたがたは、聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている(マタ22・29)」と言われているとおりです。この誤りによって人間は神を知ることから遠ざかっているのであり、ヒエロニムスが「聖書を知らないとはキリストを知らないということである」と述べているとおりです。これにもかかわらず、なかには、聖書を読むことは人間にとって大切ではないなどと考える者たちがいます。彼らは聖書にはさまざまのところに知恵のない者たちの躓きとなるものがあると考えているのです。

思い違いをするのはなぜか

 その理由としてまずあるのは、聖書の言葉はときにあまりに質素で粗く飾り気のないものであるので、物事をうわべだけで理解してしまう者の繊細な感情を損ねてしまうことがあるということです。またもう一つの理由としてあるのは、聖書には神の子となろうとした人々であってもさまざまなことをしてしまったということが書かれていることです。聖書にはそのような人々がときには自然の法に反することや、人の手で作られた法にそぐわないことに加えて、公的な秩序に対する大きな反乱を犯しもしたと書かれています。聖書を読むことを大切ではないと考える者たちは、こういったことが書かれていることによって大きな罪を招いてしまうだけでなく、聖書は悪いもので権威のないものと多くの人々が思ってしまうとしています。また、犠牲を献げる祭式と儀式や聖体奉献についてあまたの箇所を聞いたり読んだりしても理解に苦しむ人々もいるとしています。さらには、この世の知恵に愛着を持つ者の中には救い主キリストが質素で飾り気ない言葉で福音を説くことに耳を傾けるのが、国家を穏やかにかつ賢明に統治することにとっての大いなる腐敗になると考える者もいます。

思い違いをしてはいけない

自身の左側を打った者に対して右側を向けるようにするべきであり、上着を取ろうとする者に対しては外套も差し出すべきである(マタ5・39~40)などという言葉について、理解に苦しむ人々もいると彼らは言います。ただそのような言葉は、キリストが言われようとする意味を知れば理解できないものではありません。肉的な道理は常に神と敵対するものであり、これは神の霊から授かる賜物を知らず、正しく理解されればキリスト教徒の法による統治に矛盾することのない神の教えを強く忌み嫌います。聖書の言葉を注意深く聞かず、学びとることもなく、聖書の言葉の質素さをあざ笑うようにさせてもいます。このような批判がこれからもされることのないように、わたしはできる限り、このような反論に対して順を追って答えていきたいと思います。表現の質素さや粗さのゆえに人々が理解に苦しんでいるとされる聖書のことばをいくつか読み上げ、その意味をお示しすることから始めたいと思います。

『申命記』はこう読むべし

 『申命記』に次のような箇所があります。「兄弟が共に住んでいて、そのうちの一人が死に、子がなかった場合、死んだ者の妻は家を出て、他の者の妻になってはならない。その夫の兄弟が彼女のところに入り、彼女をめとって妻とし、兄弟としての義務を果たさなければならない。彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルから絶やしてはならない(申25・5~6)。」「彼がかたくなに、『私は彼女をめとろうとは思わない』と言うならば、義理の姉妹は彼に近寄り、長老たちの前でその足の履物を脱がせ、顔に唾を吐きかけ、彼に『自分の兄弟の家を立てないものはこのようにされる』と言いなさい(同25・8~9)。」愛すべき者たちよ、ここで足の履物を脱がせて顔に唾を吐きかけるとあるのは儀式であり、この問題にかかわる神の律法が破られることについて、この女性には何の落ち度もないということを町のすべての人々に対して明らかにするためのものです。一切の恥辱や非難は、長老たちの前で彼女をめとることを公に拒否したこの男性にもたらされました。しかもこれはただ彼ひとりにではなく、彼の子孫すべてに向けられるものでした。「彼の名は、イスラエルの間で履物を脱がされた者の家と呼ばれるであろう(同25・10)。」

『詩編』はこう読むべし

また、『詩編』には次のような箇所があります。ダビデが言います。「私は悪しき者の角をことごとく折る。正しき者の角は高く上げられる(詩75・11)。」聖書において角という言葉は、力や強さや権力や、ときには統治や政治を表すとされています。この預言者が「私は悪しき者の角をことごとく折る」と言っているのは、神に敵対する者が持つあらゆる力や強さや権力が、ただ弱められて脆くなっていくということだけではありません。神の民が長きにわたってよりよく生きるために、神はご自身の敵を下しその上に立たれるのですが、そこにあって敵を完膚なきまでに打ちのめして滅ぼされるということを意味しています。『詩編』第百三十二編には「ここに、ダビデのために一つの角を生やす(同132・17)」とあります。ここでいうダビデの角は彼の王国を意味します。全能の神はこのように言われることで、ダビデに対してすべての敵に打ち勝つ栄光を授け、すべての敵を排して王国を持たせることを約束しておられます。『詩編』第六十編には「モアブには私の足を洗うたらい。エドムには私の履物を投げ(詩60・10)」などとあります。ここでこの預言者は神がイスラエルの子である神の民をどれほど恵み深く扱われ、四方の敵に対する大いなる勝利を授けようとなされているのかを示しています。モアブ人もエドム人[7]もともに大国をなしていて、人々は誇り高く、勇猛で強くもあったのですが、神はその両者をしてイスラエルに従わせました。従わせたとわたしが言っているのは、つまり、跪かせ、靴を脱がせ、足を洗わせたということです。「モアブには私の足を洗うたらい。エドムには私の履物を投げ」というのはあたかも「モアブ人とエドム人はともにその勇猛さをもって野蛮にも私に対していたのだが、いまでは私の側にあって、私の僕となり、私の履物を脱がせて私の足を洗う、私の手の者となっている」と言っているかのようです。

族長たちに妻が複数いることの理由

 さて、ヘブライ人の間ではごく当たり前に用いられていたというのに、これらがどうして理解に苦しむ言い回しであるとされるのでしょうか。キリスト教徒が迷うあまり、聖霊から与えられる大いなる善き徴を軽率にもならず者の語り口で声に出してしまうなど恥ずべきことです。愚かな人間でも神の御言葉を敬うことは自身を劫罰へと向けていくよりも理に適っているでしょう。聖書にある言い回しにならえば妾というのは誠実な呼び名であるのですが、信仰に篤い族長たちが多くの妻や妾を持ったと耳にして、理解に苦しむ人もいるようです。妾はすべて法に適った妻ではあるのですが、すべての妻が妾であるのではありません。このことがどういうことであるかを知れば、旧約聖書の族長たちが一度に複数の妻をめとることを許されていたことを理解できるでしょう。このことについてこれから詳しくお話します。複数いる妻のうち、自由をもった女として生まれた者もいれば、自由がなく生まれて使用人となる女もいたのです。自由をもって生まれた女は使用人であり自由をもって生まれてこなかった女に対して優位に立っていました。自由をもって生まれた女は結婚してその夫のもとで家の統治者となり、わたしたちの言い回しの中では、家の母であるとか家の女主人や奥様とかと呼ばれ、結婚によって財産や権利といった、自身をめとった夫が持つ物についての権利を有していました。一方の自由をもって生まれてこなかった使用人である女というのは、慣習においてはその女のそもそもの所有者が授けたものでした。娘の婚礼の日にその娘の召し使いとしてつけたということについて、すべてではないにしても主な例についてお話しましょう。

複数の妻がいた族長たちの例

これについては、エジプト王ファラオがアブラハムの妻であるサライに、ハガルというエジプト人を女奴隷として与えていたことがあります(創16・1)。同じように、ラバンは娘レアに対して、その婚礼の日にジルパを召し使いとして付けました(同29・24)。もうひとりの娘であるラケルには、また別の召し使いであるビルハを召し使いに付けました(同29・29)。妻は召し使いを所有し、夫との婚姻生活における多くの場面でその召し使いを差し出しました。サライは女奴隷のハガルを、アブラハムに差し出しました(同16・3)。レアも同じように、自身の召し使いであるジルパを夫であるヤコブに差し出しました(同30・9)。ヤコブのもう一人の妻であるラケルも、召し使いであるビルハを差し出して「彼女のところに入ってください。彼女が私の膝の上に子どもを産めば(同30・3)」と言いました。これはつまり「彼女を妻としてください。彼女が授かる子どもは私の膝の上に乗るものであり、私の子どもであるとすることができるのです」と言っているようなものです。

蛇の頭を打ち砕く者が出ることを願う

このような召し使いや女奴隷は、婚姻生活のなかで子を授かったとしても、権利も家を統べる力もなく、使われる身として自身の主人に従属し、決して家の母や女主人や奥様とは呼ばれず、ときには妻と、ときに妾と呼ばれていました。妻が複数いるということは旧約聖書の族長たちが持つ特権であるのですが、それはただ肉的な欲望を満たすためのものではなく、多くの子どもを持つためのものでした。女たちひとりひとりが夫の祝福された子種を与えられることで、蛇の頭を打ち叩くためにこの世にやって来ると神が約束なされた者がその一族や家系から生まれることを望み、これを神に祈っていたゆえのことでした。


今回は第二説教集第10章第1部「思い違いをするべからず」の試訳2でした。次回は試訳3になります。最後までお読みいただきありがとうございました。

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