見出し画像

解説 罵られても罵り返さず(第二説教集13章1部) #149

原題:An Homily for Good-Friday, concerning the Death and Passion of our Saviour Jesus Christ. (救い主イエス・キリストの死と受難についての聖金曜日のための説教)

第13章に入ります。この章は2部に分かれています。まずは第1部です。聖句でいうテーマはこれでしょう。

「この方は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。(ペトロの手紙一 第2章22~23節)

第1部のポイントは次の5点です。
①キリストは人間の罪を背負った
②キリストが人間の罪を背負ったのはなぜか
③キリストに対して人間はどうあるべきか
④キリストの忍耐と柔和さについて
⑤隣人を愛すべし~まとめの短い祈り

キリストが世の罪を背負ったことについて冒頭で述べられますが、そもそも人間は罪深くて救いようのない存在であることが確認されます。

わたしたちはキリストにとって呪われるべき背反者であり、その聖なる律法や戒めを捨てて、堕落した本性による欲望や罪深い享楽に従っています。しかしキリストは神の大いなる怒りとわたしたちの罪との間に身を置かれ、わたしたちが神に敵対する危険があったなかで「借用書を破棄(コロ2・14)」して、わたしたちの負債を支払われました。

キリストは人間の姿となってこの世に来て、人間の罪を背負ったのですが、これは何のためであったのか。また、人間はどうあるべきなのか。罪深い人間は今一度これに対する思いを新たにするべきであるとされます。放っておけば人間は死と破滅に向かうことになるという前提で次のように述べられます。

キリストはわたしたちがそのようなところに落ちるために、わたしたちを罪から贖われたのではありません。キリストがわたしたちを贖われたのは、わたしたちが罪深い行いを捨てて義に生きるためです。(略)神はわたしたちの父であられるのですから、わたしたちは神に誉れを向けるべきです。わたしたちは神の子であるのですから、キリストが父に対して従順であることを明言されたのと同じく、わたしたちも神に従順さをお見せするべきです。

キリストに倣い、神の教えに従う。より具体的には次のように訴えられています。

わたしたちも心をキリストに開き、この世の生においてこの主なる方に感謝を献げるべくよく学び、そのみ恵みの大きさに思いを致そうではありませんか。そうです、キリストとともにわたしたちの十字架を受けて、キリストに従いましょう。(略)キリストはあのように苦しまれて父の栄光のなかに入られました。この世の厄介ごととしてある逆境という小さな十字架を忍耐強く持つことが、どうしてわたしたちにできないというのでしょうか。

キリストに倣い、神の教えを尊び、日々を生きる。この世のさまざまな困難に打ち勝つべきである。キリストの十字架での忍耐を見ようではないか。そのように強く説かれます。次に、キリストの忍耐は「完全な忍耐」であったとされ、それがどのようなものであるかが語られます。

完全な忍耐とは、どのような仕打ちをどれだけ被ったのかということも、友人であれ敵であれ、誰から被ったのかということも意に介すものではなく、むしろ褒賞も求めず打算もなく被ろうとするものです。

そしてこの忍耐は柔和さに裏打ちされたものであるということが述べられます。

救い主キリストは(略)、ご自身に敵対する者たちや処刑人たちのただなかに置かれるという苦しみを持ちながらも柔和さを持たれた方でした。(略)何の同情や憐れみもなくその敵たちからあざ笑われて蔑まれておられました。(略)「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです(ルカ23・34)」と言われました。(略)キリストを裏切り敵に走ってその死をもたらしたときに、(略)キリストはその裏切り者をなじるどころか、「友よ、しようとしていることをするがよい(マタ26・50)」と言われました。

キリストのこの逆境に耐える姿と柔和さに倣って生きるとは具体的にどのようなことか。隣人に対して愛を示すことであり、それができない者は救いに与ることはできないとされます。

自分に対して隣人が犯す小さな罪を赦せないのなら、自分の罪の赦しを神のみ手に求めることはできません。隣人に慈悲を示せない者は、神のみ手に慈悲を求めてもそれに与ることはありません。

第1部の終わりに向かうなかで、このことはより強い言葉で訴えられます。

わたしたちが隣人を赦すということのほかに、どのような姿勢や善い行いをもってしたところで、神はご自身に対するわたしたちの罪をお赦しになることはありません。(略)慈悲によって救い主キリストは敵からの苦しみに耐えられました。わたしたちもキリストに倣うことが求められます。わたしたちが心の中にキリストに倣おうとする情熱を持たない限り、キリストの仲保があっても、また受難の果実や贖いに与りそれを栄えのあるものとして喜んで信じても、ほとんど何の恵みももたらされはしません。

キリストに倣うとはどのようなことであるのか。これを強く訴えつつ、まとめの短い祈りをもって第1部は終わります。

今回は第二説教集第13章第1部「罵られても罵り返さず」の解説でした。次はこの試訳となりますが、一度でお届けするには長いので、2回に分けることとします。

Twitterもご訪問ください。
主の平和/高校英語教師ミウラによる140字の説教集(@sermons218tm) / Twitter
朝に夕に/高校英語教師ミウラによる聖書の祈り(@bible218tm) / Twitter
翻訳出版を目指す高校英語教師ミウラ(@tmtm218tm) / Twitter

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?