宥めの献げ物(1)(第二説教集12章試訳1) #146
原題:An Homily or Sermon concerning the Nativity and Birth of our Savior Jesus Christ. (主イエス・キリストの降誕についての説教)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(12分56秒付近まで):
神は人を創り楽園に住まわせた
神はこの世の初めに、すべてを極めて素晴らしく見事なものにお創りになったのですが、聖書にあるとおり、どの点をとっても、その中で人間に比肩しうるものはありません。太陽が真昼に、少なくともその明るさにおいて、大空のあらゆるすべての小さな星を凌ぐように、人間は肉体と魂の両方において他のすべてのものを凌いでいます。人間は神を象った似姿として創られ、天からのあらゆる賜物を授かり、ただ一点の不浄なしみもなく、外も内もあらゆる点で優れていて十全でした。その理性は腐ることを知らず思念は純粋で善良であり、心は従順で信仰に篤く、義と聖と知と真において神と全く同じであり、つまるところあらゆる点で完全なものでした。
人間はこのようなものとして創られ、全能の神は人間への大いなる愛の証しとして、この地上に楽園という特別な場所を設けられました。そこで人間はあらゆる平安と享楽の中に暮らし、この世にあるものをふんだんにもっていたので、何かを持ちたいと求めたり願ったりすることもないほどでした。聖書にはこのように書かれています。「あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ、栄光と誉れの冠を授け、御手の業を治めさせ、あらゆるものをその足元に置かれた。羊も牛もことごとく、また野の獣、空の鳥、海の魚、潮路をよぎるものまでも(詩8・6~9)。」これは全きものの写しではなかったでしょうか。これはまさに十全で祝福された形ではなかったでしょうか。ここにどんなものが加えられるというのでしょうか。また、この世でこれ以上の幸せを望めるというのでしょうか。
アダムの過ちはその子孫すべてに及ぶ
しかし、繁栄と富のなかにあると、人間はその持てる性質から自分自身を見失うだけではなく神をも忘れるものです。これはこの最初の人間であるアダムも同じでした。善悪を知る実を食べてはならないというただ一つの戒律のみを神のみ手からいただいておきながら、創り主から直接にいただいたその定めを忘れ、かの邪悪な蛇である悪魔の狡猾な誘いに耳を貸し、極めて不用意にも、いやむしろ極めて故意にそれを破りました。そのようにして事ここに至ったのは、かつて祝福された者がいまや呪われ、かつて愛された者がいまや忌み嫌われ、かつては神の目に極めて美しく高貴であった者が、いまや極めて卑しく嘆かわしい者になったということです。これは神の姿ではなくもはや悪魔の姿であり、天国の民ではなく地獄に繋がれた者であり、さきほどお話しました純粋さと美しさを持つ者ではなく、すっかりしみと汚れにまみれた者です。いまや人間はただ罪の塊であるとしか見られなく、神の大いなる裁きによって永遠の死へと向かわされました。このあまりにもひどく悲惨な災厄が、ただ初めに罪を犯したアダムにのみ対してであったということなら、簡単にわかりやすく受け入れられることでしょう。しかしそれは彼のみならず、彼の子やその後に続く者たちに永遠にもたらされたのであり、結果としてアダムの肉体を流れた血に繋がる者は、祖先が犯した罪を受け継ぐがゆえに、彼と全く同じ罪や罰を持つことになりました。聖パウロは『ローマの信徒への手紙』の第五章で、「一人の過ちによってすべての人が罪に定められ(ロマ5・18)」「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた(同5・19)」と述べています。この言葉でわたしたちが学んでいるのは、アダムにおいてすべての人間が永遠に罪に定められ、アダムにおいてすべての人間が永遠に罪の報いを受けるということであり、言いかえれば、すべての人間は肉体と魂の永遠の破滅しか持たず、死すべきものであり死に服従するものであるということです。ダビデの言うように、「すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない(詩14・3)」のです。
神は人の世を救うべく御子を遣わした
ああ、これはなんと悲惨で恐ろしいことでしょう。一人の人間の罪によってすべての人間が滅びに至り、この世には死の痛みと地獄の責め苦しか見られないというのです。ただ、人間が完全に、命から死へと、救いから破滅へと、天国から地獄へと落ちるという絶望へと向かわされたことに、なんの驚きがあるでしょう。しかしここで神の大いなる善性と深い慈悲を想いましょう。人間の邪さと罪深い行いはあまりに大きく、どう考えても赦されるに値するものではないとはいえ、人間には来たるべき時に望みも喜びもまったく欠けているわけではないとなさるべく、神は新しい契約を定め、それによって確かな約束をなされました。具体的には、神は仲保者である救世主を世に遣わされ、その方が神との執り成しをなされました。救世主は方や人間の罪に対する神の大いなる怒りを和らげ、方や唯一の神である創り主のみ心と戒めに従わなかったことによって真っ逆さまに地獄に落ちるという悲惨な呪いから人間を救うという、二つの立場に立たれました。この契約なり約束なりというものは、まずアダム自身に対して、その楽園追放のすぐ後になされました。このことは『創世記』の第三章にあるのですが、ここで神は蛇に対してこのように言われています。「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く(創3・15)。」
御子の降誕は預言されていた
のちにこれと同じ契約が、よりはっきりとアブラハムに与えられましたが、そのなかで神は彼に「地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる(同22・18)」と言われました。また、これはイサクにも、その父親が与えられたのと同じ形で確かにされました(同26・4)。そして、人間が絶望することなく希望をもって生きるようにと、全能の神は預言者たちによるあまたのさまざまな証しを通して、契約を発し、繰り返し、確かめ、持続させることを止められることはありませんでした。預言者たちは、ことをより詳しく語ろうと、救世主の誕生についての時や場や状況や様子と、その一生への敬意と、死の様子と復活の栄光と、天国を受けることと人々の救済を、そこにかかわるありとあらゆることとともに述べました。イザヤは「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ(イザ7・14)」と言いました。ミカはユダヤのベツレヘムに救世主が生まれると述べました(ミカ5・1)。エゼキエルは救世主がダビデの系統から出ると言いました(エゼ34・24、同37・24)。ダニエルは「諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべてはこの方に仕える(ダニ7・14)」と言いました。ゼカリヤは救世主が「へりくだって、ろばに乗って来る(ゼカ9・9)と言いました。マラキは神がバプテスマのヨハネとして知られるエリヤを遣わされると言いました(マラ3・23)。エレミヤは救世主が銀貨三十枚に値踏みされるだろうなどと言いました。これらすべてが実際に為されて、世の贖いにかかわってアブラハムとその子孫に対して為された神の約束と契約が広く受け入れられました。使徒である聖パウロの言葉を用いれば、「時が満ちると(ガラ4・4)、」つまり初めに定められた年月が経ち、かつて為した契約と約束に従って、神は仲保者である救世主をこの世にお遣わしになりました。しかしその方はモーセのようでも、ヨシュアやサウルやダビデのようでもなく、「私たちを律法の呪いから贖い出して(同3・13)」くださり、その死によってすべての人々の罪を清算されました。神は愛すべきただ一人の息子であるイエス・キリストを「女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした(同4・4~5)」ということになります。
御子は宥めの献げ物として遣わされた
これは明白な背反者であるわたしたちへの、つまり「生まれながらに神の怒りを受けるべき子(エフェ2・3)」であり地獄の業火に焼かれるべきわたしたちへの、輝かしい大いなる愛ではないでしょうか。聖ヨハネは「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました(一ヨハ4・10)」と述べています。また聖パウロも「キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました(ロマ5・6~7)」と述べています。使徒たちは他にもこれらと同じような説話をもって、神が救い主である主キリストを天から遣わされるにあたって人間に対して示されたその深い慈悲と大いなる善性を明らかにしています。このみ恵みは、ほかのあらゆるみ恵みと比べてもあまりに大きく素晴らしいものであるので、人間の舌でもって言い表しきれず、人間の心でもってとらえきることもできず、ましてやそれについて神に感謝を十分に伝えるなどということもできはしないものであるのです。
ユダヤ教とキリスト教の救世主像
ここにわたしたちとユダヤ教徒との間での大きな相違点があります。このイエスが、おとめマリアから生まれ、世の救い主である真の救世主となるということが、昔から約束され、前もって予言されていたことであるのかどうかという違いです。ユダヤ教徒というのは、いつの時代も頑迷に自信を持っていたものなのですが、現在もそうで、今に至ってもどうしてもイエスを認めようとせず、別の方が来ることをずっと待ち望んできています。救世主は必ずやって来るが、キリストがなされたように、貧しい巡礼者のようにへりくだってろばに乗ってやって来るのではなく、勇敢で力強い王のように威容と名誉をもってやって来るのだと、彼らは心の中に勝手な想像を描いています。キリストがそうであられたように、この世であまり地位が高くはない何人かの漁師とともにあるのではなく(ルカ5・10~11)、強い力をもった者とともに、つまり、騎士や王侯や伯爵や公爵や君主などといった、気高い者となるべく育てられた者たちとともにあるのだと考えています。彼らは自分たちの救世主が、キリストがそうであられたように、哀れなかたちで死を受けるなどとは考えておらず、むしろあらゆる敵を打ち倒して従わせ、ついにはこれまでにはなかったほどの王国をこの世に打ち立てるのだと考えています。このように彼らは自分たちなりの勝手な救世主の像を描いて自身を欺き、キリストをこの世の恥辱であると蔑んでいます。
ユダヤ人の躓きとなる救世主イエス
聖パウロは十字架にかけられたキリストが「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの(一コリ1・23)」であると言っています。これはこの世の贖い主で救い主でもある方が、キリストがまさにそうであったように扱われるということが、つまり蔑まれて罵られ、鞭打たれて刑を宣告され、ついには残酷にも十字架にかけられるということが、ばかげていて理に適っていないことであると考えられるからです。彼らの目からみて奇異であり極めてばかげているように思われたので、彼らは当時キリストを自分たちの救世主や救い主であると認めませんでしたし、これから先も認めはしないでしょう。しかし愛すべきみなさん、救われることを期待して望むわたしたちは、おとめマリアから生まれたこのイエスこそが、いにしえより約束され予言されていた真の救世主であり神と人間との仲保者であると、固く信じて堂々と告白しなければなりません。かの使徒が「実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです(ロマ10・10)」と書き記しているとおりです。これには続けて「主を信じる者は、誰も恥を受けることはない(同10・11)」とあります。これと同じことを、聖ヨハネは第一の書簡の第四章で「誰でも、イエスを神の子と告白すれば、その人の内に神はとどまってくださり、その人も神の内にとどまります(一ヨハ4・15)」と述べています。
聖書にみる救世主イエスの姿
これをすべてのキリスト教徒が心から十分に納得しているということは疑いありません。しかしこの問題にかかわって聖書のいくつかの箇所をお示ししながら、その箇所についてユダヤ人という悪魔がその教えに反することを説くのに合わせて、みなさんがつい冒涜的な言葉を口にしてしまうことのないようにと説いて導くのは無駄なことではないでしょう。第一にみなさんは、祭司であるザカリアと祝福されたおとめに対して示された天使ガブリエルの証しを知っています(ルカ1・13~15、30~32)。第二に、みなさんはキリストを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(ヨハ1・29)」言ったバプテスマのヨハネの証しを知っています。第三に、みなさんは「これは私の愛する子、私の心に適う者(マタ3・17、二ペト1・17)」と言われて天から稲妻を落とされた父なる神の証しを知っています。第四に、みなさんはイエスが洗礼を受けられているときに、鳩のように天からくだって光を放った聖霊の証しを知っています(マコ1・10~11)。これらの他にもまだたくさんのことがあります。ヘロデ王のもとに来た賢人たちの証しや(マタ2・1~2)、シメオンとアンナの証しや(ルカ2・34、36~38)、アンデレとフィリポの証しや(ヨハ12・22~25)、ペトロやナタニエルのものや(同1・40~42、49~51)、ニコデモやマルタのものなど(同3・1~3、同11・24~25)、まだまだたくさんあります。すべてを読み上げるとなるとかなりの分量になるのですが、そのなかのほんの少しの箇所を読めばもう十分に心から納得するものです。それゆえ、もしも反キリストの邪念や悪魔の策略によってみなさんが真の救世主から引き離されて、いまだ世に現れてもいない別の方を探し求めるようにと言われても、彼らがみなさんを誘惑することなどできようもありません。むしろ極めて堅固であり地獄の悪魔たちが立ち向かいようもない聖書にある証しをもってみなさんを確かにします。確かに神は生きておられ、また確かにイエス・キリストは世をお救いになる真の救世主であり、このイエスはおとめマリアから生まれたのですが、それは人によってではなく、聖霊の力と働きによってでした。
今回は第二説教集第12章「宥めの献げ物」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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