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吾52歳にして洗礼を授かる②(而立編) #207

吾十有五而志于学、
三十而立、
四十而不惑、
五十而知天命、

前の記事(①志学編)はこちら


大学院の2年間

S先生(=①「志学編」参照)のもとでシェイクスピアについて学びつつ、高校で非常勤講師をするという2年間だった。奨学金を借りて学費に充て、高校と塾の講師をして生活費や図書費に充て、予備校模試の採点をして学会の出張費などにするという生活だった。古臭いが苦学生とも言えた。大変だったが楽しかった。時間をなるべく合わせて大学礼拝に参加するのがひとつの心の安らぎでもあった。やがて修士論文を書き上げたのだが、さて博士課程に進むかどうかで大いに悩んだ。たぶんそれまでの人生で一番の熱量をもって悩んだ。結論としては博士課程に進まず高校の教師になることを選んだ。大学院に入ったときのポイントは「人生のなかで勉強しようと思って勉強できるのは今しかない」というところだったが、ここでの決断のポイントは「働きながらでも意思と情熱があれば勉強は続けられる」ということだった。

シェイクスピア研究の基軸

私が大学院にいたとき(1993年4月~1995年3月)のシェイクスピア研究のいわゆる流行は、さまざまな「批評理論」のなかでも特に「ニューヒストリシズム」によって作品を読み解くというもだった。これは大雑把に言ってしまえば、例えば16世紀英国の作品を20世紀アジア世界の事象や価値観をもとに読むというようなもので、文学作品解釈の無限の可能性を追求できるといえばそうではあるものの、自分からすると違和感しかなかった。16世紀英国の作品は16世紀英国の文脈のなかに存在すると信じて疑わなかった。(言い方は悪いが)いわゆる「最新の」批評理論をかざす人たちからは奇異の目で見られたり時に批判を受けたけれども、そこは揺らがなかった。

説教集との出会い

そのようななかで16世紀英国教会説教集 Certaine Sermons or Homilies に出会った。当時の英国教会の「39箇条(The Thirty-Nine Articles)」のなかで、教会の礼拝で読み上げるようにと定められていたもの。当時の思潮の根底にあった大きなもののひとつであると言えるもの。修士論文を書く際にこれも踏まえたいと思った。しかしこれがまた、現代英語とは単語のスペリングが違う上にいわゆるブラックレターで書かれたなんとも読みにくいものだった。当時の自分からすると、「なんとか参考文献に入れたいし入れるべきだけど」「情けなく悔しいかな読み解く時間も力量もない」と思えたものだった。これがこの説教集との出会いのはじめ。「なんで和訳がないんだ」と率直に思ってもそこまでだった。それ以上に前に進まなかった。いや、進めなかった。

高校教諭になっても研究を続ける

大学院を出て高校教諭となり、結婚し(結婚式は大学の礼拝堂、司式は当時学長になっていたK先生=①「志学編」参照)、子をもうけた。気がつけば30歳になっていた。そのようななかで自分なりに研究を続けた。大学の紀要に何度か論文を載せてもらったし、高校教諭のかたわら、ご縁があって大学の非常勤講師も務める30代だった。不思議なことだが30代に入って、自分がインプルーブしたというかバージョンアップしたような感覚があった。見えないものが見えてきたような感覚もあった。「そこにあるもの」に気づき始めた時期だったのかもしれない。相変わらず研究の基軸は「16世紀の文脈のなかで作品を読む」ということだった。そのなかで説教集の重要性をひしひしと感じるにつれ、「いつかは翻訳したい」と思うようになった。このあたりのことは以前にも記事にしている。

いくつか教会に行ってみたが

平日は高校教諭、土日は研究者と大学の非常勤講師。図書館で16世紀関係の文献を読んだ。それらは当然のことながらキリスト教に関係するもので、クリスチャンの素養がない(というか、大学最初の2年間にサボっていたのも悪い=①「志学編」参照)自分としては、やはり教会に行かないとわからないなと思った。また、シンプルにどこか礼拝の場に心の安らぎを求めてもいた。そこで時間のある日曜日に近隣の教会に行くようにした。複数の教会に行った(すべてプロテスタント系=出身大学と同じ)のだが、正直なところ、どこも自分にとって安らげる場ではなかった。どの教会にも一度だけ行ってそれっきりになった。大学の礼拝堂では感じない何かがあった。いま思えば何とも滑稽だが、ああ、大学の礼拝堂と教会は違うんだな、高校生の頃から思っていたとおり、やはり教会は恐いところだな、クリスチャンの皆さんは自分とは違う世界の人たちなんだな(=これまた①「志学編」参照)、そんなふうに思った。教会にはまあ、もう行かなくていいか、そんなふうに思った。

二兎を追う者しか二兎を得ず

大学を出て大学院に入ってから30代にかけて、説教集とのかかわりについて言えば、院生時代は手も足も出ないどころかただ遠くで眺めているだけだったのが、それを「いつかは翻訳したい」と思えるようになった(もっとも、実際に翻訳に着手したのはもっと後になるのだが)。でもこれは大学院から外に出て高校教諭になったからなのかもしれない。高校教育の現場に身を置き、それこそ人間社会のいろいろな学びをしつつ自分の勉強を続けたのが大きかったのだと思う。大学院の中にいたのでは、どうしても生活の色は「研究だけ」になる。視野が広がらない。裾野が広がらなければ頂は高くなれない。高い頂にいなければさらに遠くに思いを馳せることもできない。研究者であり高校教師。二兎を追う生活だが、まさに「二兎を追う者しか二兎を得ず」である(このところ好んで飲んでいる日本酒「二兎」のキャッチフレーズを拝借した)。

吾三十而立

親の反対を押し切り、勉強を続けようと自分の心の声に従って大学院に入り、精いっぱい頑張って、自分で納得してそこから出た。その自分の納得をもう一度ここに書く。「働きながらでも意思と情熱があれば勉強は続けられる。」この確信をもって30歳を迎えられたのは大きかった。この言葉を杖として歩むなかで、「いつかは翻訳したい」と思うことができた。もうひとつ。この時点では自分の中でうまく消化できなかったものの、自分の意志で教会に足を踏み入れるということをした。思えばこれにしてもあとあと花が咲くに至る種まきであったというべきか。以上が30代にかけての振り返り。この続きは次回に。


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