勤勉な手は豊かになる(1)(第二説教集19章試訳1) #180
原題:An Homily against Idleness. (怠惰を戒める説教)
※第19章の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
(8分3秒付近まで)
人間は勤勉によって恵みに至る
人間は安穏として休むためにではなく、むしろ骨折りをして働くために生を受けているのですが、罪による本性の腐敗から大きく堕落し本来の姿ではなくなっています。怠惰は全く悪と思われていないどころか、裕福な者の間ではむしろ推奨されるものとさえされています。肉への執着からほとんどの者が厚かましくもそう考えていますし、あらゆる骨折りや労働は肉の喜びにとって苦痛があって忌み嫌われれ避けられています。みなさんにはっきりとお話しなければならないことがあります。神が人間の本性の中に定められたところにより、すべての人は律法に適って職業や召命において自身を労働に捧げるべきです。また、神の定められたところに忌み嫌われる怠惰は大きな罪であり、わたしたちはこの罪から生じる不都合や悲惨へと、すなわちいかんともしがたい悪へと向かっています。これを思えば、みなさんは怠惰から間違いなく遠ざかり、その反対にあるものに心から向かおうと思うはずです。すべての人が自身の職業にあって誠実な労働や仕事に向かうのは、神が定められたところにおいて人間に奨められるものであり、そうすることによって人間は神の大いなる祝福やあまたのみ恵みに与ります。
怠惰な者は食べれず助けられない
全能の神は人間をお造りになって楽園に置かれ、そこに住まうようになされました。しかし人間は神の戒律を破り禁じられた木から実をとって食べたことで楽園から追放され、この悲惨の谷に下されて「そこから取られた土を耕す(創3・23)」ようにとされ、生涯にわたって「額に汗して糧を得る(同3・10)」ことを定められました。すべての人間がこの世の死すべきかりそめの生において神のみ心に適った行いや労働に自身を捧げ、自身の仕事をして召命において真っすぐに歩むのが神のご意志です。「人は苦しむために生まれ(ヨブ5・7)」たとヨブは言います。わたしたちはシラの子イエススに「骨の折れる仕事をいとうな。いと高き方によって創造された畑仕事をいとうな(シラ7・15)」と命じられています。かの賢者もわたしたちに「あなたの水溜めから水を飲め。あなたの井戸に湧く水を(箴5・15)」と説き、わたしたちは自分の働きによって生きるべきであり、他人の働きをあてにしてはならないとしています。聖パウロは、テサロニケの信徒たちの間で、骨折りをして自分で生活するということなく、また他人からパンをただでもらって食べるだけで教えに従うこともなく、怠惰な生活を送って働かずに別のことで忙しくしている者がいると耳にしました。信徒の中に、自身を改めてそのような不埒な者たちと仲良くなることを避けるようにしているどころか全く働かない者がいるのなら、そういう者は食べてはならず他人の手に助けを求めてもいけないとしています(二テサ3・10~14)。
働くのには多くの形がある
聖パウロのこの教えは、まぎれもなくすべての人は働くべきであるという神が定められた戒律に基づいています。すべての人はこれに従うべきであり、誰もその例外ではありません。しかし、すべての人が働くべきであるとはいっても、それがただちにすべての人が体を使って働かなければならないということにはなりません。働くといっても多くの形があり、ある人は頭を使い、ある人は体を使い、ある人はその両方を使います。そうして誰もが、年齢や体の不具合や健康の状態が思わしくないことによって働くことができないのならともかく、自身の糧を誠実に得るべく、また隣人に利益をもたらすべく、神が求められる役割に応じて自身を何らかの労働に向けるべきです。勤勉な労働をもって社会に善をもたらすことの中には、国家を治めて何らかの命令を下すというものもあります。国家にとって重要な事柄を成し遂げようとして会議を開くというものあります。人に教えを説くというのもあります。どんな形であれ役割を果たしていれば、それによって利益や恩典が隣人にもたらされるのであり、体を使った働きをしていなくても怠惰であるとはされません。体を使った働きをしていなくても役割を果たしていれば否定されることはありません。
ソドムの町は怠惰のゆえに滅んだ
体を使った労働は頭を使って働くことによって役割が果たされる人に求められるものではありません。「家から家へと遊び歩くことを覚え、怠けるばかりか、おしゃべりやおせっかいをして、話してはならないことまで話します(一テモ5・13)」と聖パウロはテモテに語って、怠惰な未亡人を避けて遠ざけるようにとしています。預言者エゼキエルは、ソドムの町の罪がどのようなものであったのかを語る中で、怠惰がその最たるものの一つであったと述べています。「妹ソドムの過ちはこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安閑としていながら、苦しむ者や貧しい者を助けなかった(エゼ16・49)。」ソドムとその娘たち、つまりソドムの民はこういったことをしていました。この町自体と周辺の土地すべてに及ぶ他に例を見ない恐ろしい破壊は天から火と硫黄が降り注がれてのものであったのですが(創19・24~25)、怠惰がどれほど大きな罪であるのかをはっきりと示し、そこから遠ざかって心から神のみ心に適った働きをするようにとわたしたちに諭しています。
勤勉な手は豊かになる
怠惰や不精に、浮浪や徘徊に、つまりただあちこちを歩いて無駄に時間を過ごして勤勉に労働をすることなくまるでオスの蜜蜂のように他が働くことによって生きることにわが身を向ければ、すなわち神の戒律を破ることになります。自分の役割から遠く離れて神のお怒りとその大いなるご不興を受ける危険へと入っているならば、悔い改めて再び確固として神に向き直らない限り終わりのない破滅に至ります。怠惰が招くこの罰と悲惨は人間の肉体のみならず魂にも及びますが、これについてはのちほど詳しくお話します。ここではみなさんにその触りだけお話して、あとのところはみなさんに考えておいていただこうと思います。ソロモンは「怠惰な手のひらは貧しく、勤勉な手は豊かになる(箴10・4)」と言っています。また「自分の土地を耕す人はパンに満ち足りる。浅はかな者は空しいことを追求する(同12・11、28・19)」とも言っています。さらには「怠け者は冬の間に耕さず、刈り入れ時に求めても何もない(同20・4)」とも言っています。
怠惰は魂を滅ぼす
怠惰が間違いなく貧困を招くということを明らかにしようとして多くの時間を使う必要があるでしょうか。嘆かわしいことではあるのですが、わたしたちはこれについてあまりに多くの実例をこの国土で目にしています。貧しい人は物乞いをしますが、そのほとんどは親の怠惰や怠慢のほか何の理由でも起こりはしません。親が子に学問を修めさせず、勤勉に働くことを説かず、その年齢になれば生活のためにさせてもいいような手伝いや仕事をさせなかったためです。日常の経験からわかることですが、例えば休み過ぎであるとか、眠り過ぎであるとか、仕事の経験のなさ過ぎであるとかという怠惰よりも、どのようなことも人間の肉体の健康にとって有害で敵となるものはありません。しかし、肉体への害がどれほど大きくて悪辣なものであっても、所詮は肉体や目に見えるものにかかわるものに過ぎず、魂に及ぼす悲惨や罰のうちわたしたちが考えつくわずかのものにも遠く及びません。怠惰とはそれだけであるのではなく、それに続く悪徳という長い尾を持つもので、それが人間それ自体に影響を及ぼして堕落させ、人間をただの罪の塊のほかの何物でもなくしてしまいます。シラの子イエススは「多くの悪事は怠惰が教える(シラ33・29)」と言っています。
悪魔は怠惰な者に近寄る
聖ベルナルドゥスは怠惰をあらゆる悪の実母であらゆる悪徳の継母であるとし、地獄の業火に至る踏み固められた道でもあるとも言っています。怠惰がひとたび入り込んで来れば悪魔はもうすぐそこにいて、あらゆる邪悪さと悪を植え付けて人間の魂を永遠の破滅に至らしめます。このことについては『マタイによる福音書』の十三章で「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った(マタ13・25)」と極めて明確に述べられています。まさに悪魔が近づいて来やすいのは人が眠っているとき、つまりは人が怠惰であるときです。悪魔は隙があれば人間を破滅という罠に引き込み、神のみ恵みなく完全な破滅をもたらすあらゆる不道徳で世を満たすべく極めて忙しく働いています。これについてはわかりやすい二つの逸話があります。一つはダビデ王についてのものです。彼は聖書にあるとおり、他の王たちが出陣する季節にあって怠惰にも王宮に留まり(サム下11・1)、いともたやすく悪魔に唆されて主なる神を捨て、不貞と殺人という神の目に悪とされ忌み嫌われる二つの罪を犯しました(同12・9)。
今回は第二説教集第19章「勤勉な手は豊かになる」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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