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その月は、あいまいさと夢を守るために ーー月ノ美兎とセーラームーンと、主人公たちのおはなし


最近、尊敬する人や友達と話しているときに、「自分の思ったことや感じたことをもっと出した方がいい」と言われることが多かった。
確かに前から、わたしのnoteは、なんかすごそうな本のタイトルの参考書ばっかりが並んでいるし、例が多すぎて何をいいたいかわかりにくいかもしれない。本ばっかり読んでいるのでその本の内容を口から垂れ流してしまう悪癖がついている。

そこで、このnoteではとりあえず、月ノ美兎さんについて書くついでに(この人にこだわった理由は読んでたらわかると思います)、自分の来歴と私が何故こんなへんてこりんで、わかりにくいなnoteを書いているのかを明かしておこう。
リアルの話もあるので、相当ぼやかし気味になるのはどうしてもすいません。オタクくんが謎に知識をひけらかしたり、謎めかそうとするのは、照れ隠しというかそんな感じの一種なのです・・・。


子どもの時から、人から才能を持っているとちやほやされる人の横にいることが多かったように感じる。哲学的で抽象的な問いに、自分から答えを出せるやつ。ピアノの前に立たせたらどんな楽譜でも、歌うように引くことができる子。大勢の舞台の前で、一人勇敢な主人公として、役を引き受けて生き生きとした表情を出せる子。
なぜそういう子が身近に多かったかと言われると、わからない。偶然の巡りとしか言いようがない。

ただ、私自身には、昔から「カードキャプターさくら」とか「ロックマンエグゼ」とか、ゲーム、アニメや漫画も好んで見る人間だったから、そういういわゆる「表現」ができることがすごいことだという、素朴な感覚はあったように思う。才能がある人の中には、少なからず自分は相手の絶対知らない世界を知っているという優越感らしきものをもって、世間を斜に構えて見ているやつもいた。「こんなピアノも弾けないのか」という雰囲気を出していることもあった。

そんなときでも、理由はわからないが、私はあまり口数の多いタイプでもなかったので、すっと横にいてその音を聞いていた気がする。少し高圧的なそいつへ嫉妬の気持ちもなかったわけじゃないだろうが、不思議なことに、ピアノを弾くその子も、わたしが聞いているときは黙ってピアノを弾いていた。その光景を頭の隅にいつもおいている。


ある時期、特に高校のころから、そうした才能があると言われたような人たちが、何故か次々に不幸や人生の落とし穴にハマっていくようなことが、人生の節々に起こるようになった。「確実に人からお金を取れる」ビジネスだといいながら変な壺を売ってくるようになったこともあった。ピアノを弾いていたその子は、いつの間にか不登校になり、近所からいなくなってしまった。

どうして、こんなことになってしまうのかわからずに、不安になった私は、文学とか心理学とか、創作の本を読み漁るようになった。創作することに対する欲望は強いほうじゃない(時々妙に感情が高ぶって黒歴史を卒業文集に書いたりしたけど)から、ひたすらにその現象の理由を知りたかった。

そして、いまも私はしつこく本を読んでうじうじ考えている。


主人公たちの居場所 ーーJ-POPから


昔から、何故かバーチャルユーチューバーの知り合いやら色んな人から「系譜を辿れ」「歴史を辿れ」としこたま言われたので、さらに古今東西の音楽や絵も並べてみてみた。とりあえずローリングストーンズ誌とか映画やアニメの専門誌もなるべくひっくるめて見て見た。その時に、どうしても自分は「主人公感がある」「時代に名を遺した」作品や人を見るクセが抜けなかった。

時代に名を遺した作品を見て、強く印象に残ったことがあった。その多くは決して勇ましいところだけではなく――、実は歴史の渦に飲まれていくのを悲しむようなものがたりを持つか、語っているものが多かった。


邦楽なら、例えば星野源『くだらないの中に』、Mr.Children『終わりなき旅』、 椎名林檎『人生は夢だらけ』。
アニメなら、エヴァンゲリオンやなるたるを思い浮かべていい。小説なら夏目漱石の『虞美人草』『こころ』だってそうだ。
どれだけ明るいシーンであっても、希望を歌っていても(サッカーのテーマソングだってある)、これらの作品には逆説的に作った人とその時代の暗さが、ネガのように映し出される。自分の好きな人がわかってくれないこと、自分の作ったものがくだらないものにしかみえないこと、そして好きな人と別れなければならないこと。

もはや、彼らが戦っているものは簡単には目に見えない。絵にすれば目を劈くような、ほし丸のように現実の動物ではありえない鋭利さを持っている。
ある一面では、その言葉たちは天才的な万能感ではなくて、現実を見通した諦めすら感じさせる。この発見は、文字通り「歴史」を追っていこうと思った自分に、非常に複雑な感情を引き起こした。


どんなに世界を動かしたかに見える小説だろうが、音楽だろうが、始まりのほとんどはどこかの誰かのちょっとした問題から始まるのだろうし、そうした直観や人間の感性から湧き出てきたものが、綺麗な形にはなるわけはない。

うまく言葉や形にまとまらない苛立ちを人にぶつければ、ケンカになる。笑いに使えばとりあえずギャグになる(かもしれない)。そして、作家が悩むその様子自体が物語や映画になることだって少なくない(Queenの映画やSHIROBAKO)。
誰だって最初は白紙の紙の上から物語を描き出して、そのうえで線と線のやりくりと、ギターとドラムの絡まりあい方と、自分のギャグのキレのことと、そして人の都合と都合と都合をやりくりしている。
自分の人生の主人公になった人たちは、実は非常に受動的で無力で、目の前の自分の問題に囚われて――その言葉や語るものがいくら抽象的であっても――意外と些細なところから始まっていた。問題は目の前にあって、それに対して何とか対処しようとする。そのつじつま合わせをどうにかやっているだけだった。たぶん、大概の人は領収書の束と権利関係と戦っているだろう。
それを後の人が色々考えて「すごい」と感じたから、それは歴史に残っている。でもそこにあるのは、ひとつの・あるいは複数に引き裂かれた「やりくり」の跡である。



そして、もうひとつ、主人公みたいな作品で気になったところがあった。
それは、その多くの作品が自分自身を問題にしている「」、高いところでは、まるで自分の輪郭が消えてしまうほどの熱量や悟りと、意識がふっとぶほどの何かが込められていることだった。

もし、芸術とかギャグがある種の言葉にならないものを形にしようとするやりくりだったとして、あるとき、それはもう常識的な形をふと超えてしまう
例えばスピッツの『ロビンソン』や『春の歌』『水色の街』、先日M-1で話題になった森山直太朗の『生きとし生けるものへ』『人間の森』といった曲は、自分の想いを「春」「光と闇」といった現象と、それに見合った音楽に対してどんどん自分の思いを託していく。
音楽と歌詞に身を任せた彼らは、いつのまにか人間ではなくなってしまう。ある人は自分が不出来である「サル」であるといいながらも、その不出来さを引き受ける覚悟を決める(『春の歌』)。
またある人は、「自分はイルカになりたい」と叫びながら、ベルリンの壁に向かって叫び続けた(David Bowie『Heroes』)。届くはずのないその叫びは、歴史を変えた。

最近の研究では、人は自分の個人的な身体感覚をどうにかして伝えようとするときに、例え話を使うこと、そして実は「これが自分の身体です」という身体感覚は曖昧で、テクノロジーの力を使うとその境界線を広げることもできるという。
自分以外の誰かの生を生きること。そのように演じることが、時に自分でも思ってもみなかった自分を発見させる。想像力のはじまりになる。ファッションにこだわる人に話を聞くと「自分をだます」ためにやっていると言うし、なにより、まさにバーチャルユーチューバーほど、他の存在しない人の人生を生きている存在もないだろう。

こう考えて、ふと思ってしまった。

自分の人生のために戦ってきた、自分を騙すための言い訳としてのファッションや音楽、歌がある。どんな歌でも、最初はひとりごとから始まり、
それがうっかり人々に受け入れられてしまった時に、あとから来た人が、それを歴史と呼ぶ。どの曲が受け入れられ、誰が好かれるかを100%デザインできる人はいない。

だとすれば、Mr.Childrenや星野源の曲が「歴史の一部にならないこと」をずっと歌い続けるのは―――まるで時代のものになってしまった自分自身に飲み込まれないために、その人が無意識に叫んだ悲鳴みたいじゃないか。


神絵師なんていないよ

去年、焦茶さんについてのnoteで、美兎さんと絵のことを冒頭に持ってきたのは、私自身も書いていてどうしてここまで引っかかるのかわからなかったが、最近原因が見えるようになった。

2021年に出版されたエッセイ集『月ノさんのノート』には、「創作できません」というエッセイが掲載されている。このエッセイの中で、絵を書いたことのないゲームオタクの友達にペンを持たせてみたら、滅茶苦茶上手な絵が出てきて、ガンガンリツイート数も増えていって一気に脚光を浴びたら、友達同士がめっちゃギスった話が描いてある。最後は美兎さんが「でもコミケ行ったらみんなおっさんだったわ!」とちょろけて終わる。

「界隈に影響のある絵師」への嫉妬心――たぶん、今ネットで創作をしている人だったら、一瞬でもよぎったことがあるだろう――それを、月ノ美兎も持っていること。
恐らく2年前時点で、すでにVtuberの代表格になってしまった自分も一緒なんだと書いている文章のひとつに、今は見える。にしてもどーしてJKが明らかに18禁コーナーらしき場所にいるんでしょうね・・・?!(※)


翻って自分の体験談から、逆に神絵師の方を考えてみる。
数年前から時々絵師さんと話すことがあった。イラストについて考え始めてからはなおさら創作をされている方と話す機会も増えた。「神」絵師は、神様じゃないことは、多分当のご本人たちが一番わかっているだろうなーというのも伝わってきた。びっくりするほど歴史主義っぽい語り方が多かったのだ。
色やマンガの線ひとつを取っても、あっさりその意味は隣に書いてある線と色で変わってしまう。ゆえに、それについて歴史抜きで語ろうとすると「○○感」とか、ものすごい感覚的なコトバに終始してしまう。
漫画のように言葉で説明する部分があるならともかく、1mm以下のドットの色味まで感じて作られたものを、言葉なんて不格好なもので簡単にかたちにすることはできない。

だとすれば、絵を描く人の中に、言葉にできない大事な感情を――つたえるというよりも「つたわる」かたちで、おまじないのようにそっとキャラクターのお顔や質感の中に隠すことだってあるだろう。
そして、それが伝わらずに、ずっと人々はバカだと思い続ける人もいる。
その人がヤバイ人なわけでは当然ない。むしろ切実に作品のひとつの線と画材と、そして絵を置く展示場所とありとあらゆる場所に気を張った果てだから、強烈に真実の一面を衝いていることもある。(バーチャルユーチューバーの考察でも、その向こう側にいってしまった人もいる)

だから、わたしみたいな、絵とか文章に対して、思ったことを無作法にぽんと書いてしまう、へんてこりんな人間は、ずっとバカにされるのが運命なんだと一面では思う。それは、それでよい。


この数十年で社会のメディア環境は大きく変わった。漫画やアニメは、少しだけ一般的なメディアになった。語られる場所も一気にTwitterという、強くパブリックな場所に移行していった。今の20代と30代でも、子どもの頃にひとりでテレビをじっと見てFFやウテナに没入した世代と、テレビではなくパソコンやスマホで他者を意識しながら作品を見る状態では、作品のおいてある意味は少しずつ変わってくるだろう。
今、人の目を気にせずにゲームやイラストに没入しきること、人の目を排除することがしにくくなっているのは、下の世代の子と話していて感じている。

先日、それを思わず残酷だ――と表現してしまったことがある。
以前も引用して色々書いた批評家の黒嵜想さんも近い考え方をしていたが、Twitterは文脈を長く作ることができない上、素晴らしいイラストがあることが日常化し続ける場所である。人は全ての人を、その奥深くまで知って、愛することはできない。

「いいね」の取り合いのような、椅子取りゲームのような現実ほど、人のこころが疲弊する場所はない。
それが、仕事の現場ならともかく、日常にも流れ込んできた。これはどちらかというと「システム」の問題である。TwitterというUIのこともあるかもしれないけど、全てを数字にして、「事実」として管理できるものにしようとする社会の問題でもある。
でも、本来、想いとか言葉にならないものを数字にしてしまうことは、残酷なことだ。

誰もが自分の絵に、届くかわからない祈りとこだわりをのせて空に飛ばしている。でも現実は、それが届いたかどうかを確かめるすべは、たぶんない。
そして、読む人はどれだけ美しい作品や思い出も・・・噂話の種か嫉妬の種にしかできないのか。子どもの頃にみた夜7時代のアニメたちは、人々に在り得ない夢を振りまくだけで――その先にあるものは、結局力と力の争いのなのか。受け取った人は、何を、どうすればいいのか。

これは、私自身が、Vtuberいぜんからずっと抱えていたモヤモヤか、あるいはドロドロした心の中・・・だと思う。



終わりに 人がセーラームーンになったとき


本心を言ってほしい――ある人に言われた、この言葉を受け取って書いた文章だけれども、まーたぼやけたよくわからないことを延々のべてしまった。
ただ、今のにじさんじについて思っていることを――いろいろにじさんじファンの方と話ながら、なるべく考えていたことをまとめてみると――
やってきそうな暗い将来を予測できるような状態がはがゆい』ということになる。もっと簡単に言えば『失うのが怖い』んだろう。

みのミュージックさんの動画などをみるに、YouTuberがアドセンス(広告)だけでやっていくのは難しい状況になっている。すると、にじさんじもその企画の中身も変わっていくだろう。これ以上芸能人によると、週刊誌のことも気になってくる。

ライバーの中には結婚や将来のことをずっと話している人がいる。どれだけ明晰に分析されていても、繰り返し将来のことを語ることがその苦しさを物語る。
わたし自身、黛くんも鈴原さんもメリッサさんもよく見ていたから、そこの気持ちの上での古傷がまだ癒えていないのだろう。
ファンのひとたちと話していても、一方で楽しく遊んでいる人たちも、微妙なグラデーションで――推したちに対して「いつかいなくなるもの」というさびしさをまじえる人は、少なくなかった。加えて、現実の社会と暮らしと戦争のことを考えると、どこまでも落ち込もうと思えば落ち込める。


こうしたものは、ひとでなしの私の心を覗いたから飛び出してきたヘドロである。
ヘドロをそのまま差し出すなんて、無責任でどーしようもないやつの所業だろう。だから、またテキトーなバカでも言ってみよう。



どうしても後からまとめてみるとカッコよかったり美しかったり見えるかもしれないが、セーラームーンというアニメは、日常シーンはギャグとドタバタで、敵役もおみくじだったりレイちゃんと恋愛ケンカしはじめる。
特に、アニメ版のうさぎは、好きなものにミーハーで、服も食べ物も何もかも自分の思ったように突き進んでいく。衛さんがいるにもかかわらず、天王はるかさんを狙い始めたり(?)、もうノリと突進力だけで動いて節操がなさすぎる。(節操がなさすぎて、ぶっちゃけ要約しようがない・・・)
どうも、テレビシリーズ放送当時も、そのあわてんぼう性が激しすぎて、主人公のうさぎは、必ずしもランキングで1位を取れていなかったらしい。

彼女たちの言葉と世界はふわふわして不思議な概念に包まれている。薔薇の花やシルクの絹で出来たお洋服、現実感を失わせるようなピンク色を基調にした、細かな肌理と襞で埋め尽くされている。ウラヌスとネプチューンが現れた時には、毎回何故かさわやかな音楽とピンクの花が吹き荒れる。「素直じゃない」どころではない、わけのわからなさと楽しさが画面中を覆っている。


特に幾原監督がタイトなスケジュールの中で完成させた『劇場版美少女戦士セーラームーンR』は、月野うさぎが主人公だったかを描いた物語だった。

うさぎちゃんが、ダーク・ムーンやブラック・ムーンの敵たちと出会うことがなければ、変身することすら必要がなかったはずだ。だとすればこの子たちが美しくなっていくことは、実は涙と悲しみが含まれている。

うさぎちゃんが主人公だったのは、頭がいいからでも力が強いからでもなかった。
この子は、さびしそうな子が目の前にいたら寄り添うことが出来た。
泣いている子がいたら、その子にバラの花をお祝いの言葉と一緒に渡した。
なにか打算があるわけじゃない。この子は恋愛で衝突しても、仲間が敵役になっても、友達が孤独になったときに、その人にすっと愛を差し出すことができる。泣き虫でいくら傷つけられても、運命がセーラー戦士たちを死なせても、何度でも寂しさに寄り添おうとした。
不合理に見えても、そうしたかった。それ以上でも以下でもなかった。この子が寄り添おうとしたのは、チグハグで割り切れないところのある人の心そのものだった。



ところで、そのセーラームーンから画業を始めた絵師さんの絵を見ていた時に何故か雷に打たれたように突然気づいたことがある。

月ノ美兎って月野うさぎじゃねーか

気づいて、飛び上がりながら名前の由来を検索したらはっきりとした名前の由来は出てこなかったが、やはり同じことを考えていた人はいた。だから、多分こう言える。

ちいさいころにセーラームーンに憧れた女の子が――何の因果かそれとそっくりな名前を突然与えられて――毎日をなんとか面白いこと(ムカつくこともありながら)探しまくって、ちゃんとそのどれもにむきあって、友達と金と上場企業所属Vtuberになって――謎の存在を画面上に召喚していたら、
うっかり自分の方が、夢の向こう側の存在になっていた。

こんなにおかしい話は、後にも先にも聞いたことがない。
でも、たぶんもう、誰にも否定できない。


参考文献

青柳美帆子「全ては『劇場版美少女戦士セーラームーンR』から始まった」
    幾原邦彦 2017『ユリイカ2017年9月臨時増刊号 総特集 幾原邦彦』
(劇場版セーラームーンの成り立ちについて参考)
伊藤亜紗 2022『体はゆく できるを科学する』文藝春秋
月ノ美兎 2020『月ノさんのノート』KADOKAWA



(補足)月ノ美兎『月ノさんのノート』について


発売された時にもいろいろ文章を書いたけど(お目汚し失礼しました)、あの時には隠していたことを書いておこう。アーティストの悩みは創作活動の源泉であるので、当時はあまり直球でかけない気持ちになっていた。
このエッセイ集は、ずっとずっと、自分自身と他の人が安心するために、どうにかありとあらゆる場所に脱線と予防線と色々なものがめぐらされていた。

ただ、この本を読んだ時の第一感は、どうしても作者の不安のことを考えてしまった。心理学には「反動形成」という言葉がある。これは、自分の中にある敵意や怒りを悟られたくないから、相手に親しげに接してしまうことを意味する。いわゆる人に嫌われたくない人や相手に合わせすぎる人に起こりがちの現象だ。

『月ノさんのノート』は死ぬほど暗い感情を描写した後、それを細かいことを気にするあまり笑い話にしちゃうことを繰り返している。さらに自分が暗い感情を持った、性格の悪い人間であることすら面白おかしく書いている。

この本の書き方は本当に優しい(というか上品とすら感じる)。一方で、バーチャルユーチューバーの業というか、承認欲求爆弾(?)的なものを感じたのも事実だ。(というか、そういう感情を載せたノートを世に放つこと自体が、呪いという意味でなかなかの黒魔術では・・・?!)


「睡眠」について、一点だけポイントを示しておこう。
この「SHE」という同人誌の表紙を見て見て欲しい。新しいセーラームーンの主題歌「eternal eternity」のPVなどをちょっと思い出すようにひとりの絵師さんが描いてきた女の子たちが寝ている様子が描かれている。
実は、眠ることは「他の人に見守られている」という安心が無ければなりたたないという。すると、この「SHE」という画集の表紙たちを見る私たちは、この絵に描かれている子たちにとって、「安全な存在」と思ってくれているような効果をもたらす。だから、PVで寝ている恋人二人は、たぶん無意識のレベルで繋がっている。


(補足の参考文献)
・米山舞 2019『SHE』(同人誌・サークル「ツナマヨネーズごはん」)
・東畑開人  2022『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』新潮社(睡眠と愛の考え方について)
・名越康文 2010『心がすっと軽くなる「瞬間の心理学」』角川SSC新書
(反動形成の説明部分)


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