猫の視点で見てみると
吾輩は猫である
吾輩は猫である、という言葉は誰しも聞いたことがあるだろう。
僕は高校二年生のときに好奇心で夏目漱石の「吾輩は猫である」を買って読んでみたことがある。
全部を読み切ることはできずに途中で挫折してしまったけれど、猫視点で人間観察をしているとても面白い作品だった。
犬や猫たちから見て、人間というのはどういう風に映るのだろうか。
街中に散歩に出かけたり、電車に乗り込んだりして猫視点で人を観察してみると、固定観念がとれて面白い見え方がしてくる。
猫が羨ましいだと...…!?
現代社会では、便利な生活ができるようになってはいる。
しかし、この便利さは私達の生活を幸せにしてくれているのだろうか?
街中でのんびり日向ぼっこをしている猫に「羨ましい」という感情を抱く人が沢山いるあたり、人間様は大層な生活を送っているようには思えない。
犬や猫として生きることと、人間として生きること、どちらが幸せだろうか。ペットに限らず、生き物は毎日どんな気持ちで生きているのだろうか。
他の生き物視点で人混みなどを眺めてみると、本当に不思議になってくる。人間って何だろうか、社会って何だろうか、仕事って何だろうか、勉強って何だろうか、友達って何だろうか……。
凄く不思議だし、とても怖くもなってくるのだ。
この人達はどういう両親のもとに生まれてどういう地域で育って今までどういう人と関わってきて、今僕の目の前を歩いているのだろうかと想像すると、とても不思議で仕方が無くなってくる。
この人達それぞれに、長い歴史があるのだ。
この世に人として生まれてきて、流れと勢いで何の疑問も持たずにここまで生きてきたけれど、私達はあまりにもこの世界のことについて知らなすぎる。
人間様はどこへ行くのか
僕が言葉を話せる猫になったなら、いろいろな人に話しかけてみたいものだ。「なんでそんなに暗い顔をしているの?」「嫌なことでもあったの?」と聞いて回りたい。
人の姿でこんな事をしたら間違いなく警察に捕まってしまいそうだ。
猫の姿なら許してくれるだろう。
全員、ゾンビみたいに歩いている。
この大きな人間という生物集団はどこへ行くのであろうか。
電車の中でスマホを触るのに飽きたり、街中でぼーっと歩いたりしているときに、ふと人間観察をしていると良く分からなくなってくる。
現代社会風刺的視点—『猫』
人間社会を落ち着いてよく観察してみると、不思議に思うことが多い。
ブレーキの壊れた暴走機関車が、目的地なしで進んでいっているように見える。どんどんと速度を上げながら、周りの環境・生態系ごとソニックブームで吹き飛ばしながら、どこへ向かっているのかもわからず暴走している。
なんで生きているのだろうか。
それは、僕達が生まれたからだ。
他の生物にも共通して言える、当たり前の話だ。
でも、人間だけは違う。
人間だけは生きていくことそのものに理由が必要になった種族だ。
僕は一回植物に嫉妬したことがある。そこに生えているだけでいいなんて羨ましいなぁ、と思ったのだ。ばちが当たればいいと思う。
でも、これはみんなに言えることではないだろうか。
今の社会において人はどこへ向かって進んでいるのか本当に分からない。
人間が人間を科学して、何かに依存させたりお金を巻き上げたりして金儲けしている。お金を稼ぐことは悪だとは思わない。でも、この商業行為が異常なものに見えて仕方がないのだ。
僕はこの世界に住んでいる全員に聞いてみたい。「どうして生きているんですか?」と。現代文明の発展に僕は付いていけそうにないなと思う。
本当に何がしたいのだろうか。
ご飯を食べて栄養を摂取し、安全な場所で眠り、子孫を増やすということであれば、もう既に可能なはずだ。
なのに、毎年毎年自殺をしたり鬱を発症したりする人達がいる。何のための文明の発展なんだと思える。
来世は金持ちの家の猫になりたい
ペットを飼っている人なら一度は考えたことがあるのではないだろうか。「犬や猫になってみたいなぁ」と。
僕は犬を一匹と猫を二匹飼っているのだけれど、昼間に気持ちよさそうにソファーや窓際で昼寝をしているペット達を見てつくづくそう思う。
来世があったら金持ちの家の猫になりたい。
凄い豪邸のふかふかのカーペットの上で、一日中ゴロゴロしていたい。
毎日こんなにも無駄な時間を贅沢に過ごせたら幸せだと思う。
のんびり何もすることがなくゴロゴロして暮らすのと、忙しくてやるべきことが沢山あるけれど、自由に自分のやりたいことがなんでもできること、どちらが幸せだろうか。
ペットが幸せそうに昼寝をしていたり、ちょっと嫌な出来事があったりしたときにふと考えてしまう。
いつものんびり過ごしているペット達を見て「いいなぁ」とも思う。
「人間って面倒くさいし、大変だなぁ」と。
しかし、好きなときに好きな場所に出かけに行ける僕たち家族を窓や玄関からペット達は「いいなぁ」という顔をしながら羨ましそうに見ていた。
「人としてペットと暮らすこと」と「ペットとして人と暮らすこと」、どちらの方が幸せだろうか。
どちらが幸せなのだろうか、考えても仕方のないことだけれど、気になって仕方がない。
人が人である理由—『言葉』
人は他の動物たちと違って言葉を話している。
言葉を話せることによって他の人達とコミュニケーションをとることができるし、社会というものを作ることができる。
同じ言葉を使えば全員が同じ認識をする、ということができるからルールというものを作って建設的な関係を人と作り上げることもできるし、コンピューターを始めとした便利な製品を作ったり使ったりできる。
しかし、人はそんなに幸せそうに暮らしているかと聞かれたら微妙だと思う。大人なんだから、親なんだから、男なんだから、女なんだから、子供なんだから、社長なんだから、部下なんだから、人前に立つ仕事をしているんだから、と集団としての役割を求められたり、社会の厳しいルールを守って生きていかなければならなかったりする。
そして大抵の場合、一回何かおかしなことをすると直ぐに集団から吐き出されて行き場を失ってしまう。
いろいろと人間はやるべきことや制約が多いのだ。
そういう幸せになったんだか不幸になったんだか分からない足かせをつけられている不思議で哀れな生き物の周りを猫たちが通り過ぎていく。
日向ぼっこをしながら道を歩いている人達を眺めていく。
さて、人間はどう映るのだろうか。家に帰れば晩御飯が待っているのに、なぜそんな死んだような眼をしているのか。
犬にリードをつけて散歩をしている人間にも、何か鎖のようなものが付いているように見える。
人間も何か大きな飼い主に縛られて行動しているのだ。
犬や猫たちが言葉を話すようになったなら、魚や木が話すようになったなら、何を話すのだろうか。
将来への不安は、よくよく考えると不思議なもの
最近はものすごく将来に不安を持つ人が増えているように思う。
そもそも何で生きているのか良く分かっていないし、自分の人生の貴重な時間で何をしたいのか結局分からないことが多いと思う。
でも、そもそも「人間って何だろうか」「社会って何だろうか」という前提となる問いはなかなか考える機会がない。
だから、猫になったつもりで街に出かけてみると良いと思う。名乗ってみようではないか、吾輩は猫である、と。
幸せに必要なものはそんなに多くない
僕は一度凄く落ち込んで死んだようになって生活していたことがある。
生きる目的というか、希望を失っていたのだ。
そのときにずっと考えていたのだ。
「どうして生きているのだろうか」と。
ずっと苦しかったから、答えを求めていたのだ。
でも、そのときに気が付いたことがある。無理やり自分を奮い立たせて行動した一日より、朝家を出るときに「今日の晩御飯は豚汁やからね」と親に言われたときの方が頑張っている自分がいたのだ。
だから、僕は美味しいものが食べれて友達と楽しく遊べればそれで十分なのだという風に気が付いた。(僕は安い男らしい)
自分のちょろさ、安っぽさに笑いが出てきたし、なぜか安心した。
だから、もう極端な悩みはこの先も持たないだろうなとは思う。
散歩をするのも凄く好きだし、人と話したりカードゲームをしたりといったお金のかからない遊びでも十分楽しめるからそんなに悩む必要はない。
父親の数千万に及ぶ借金を全部母が肩代わりして、その上で僕と妹を育ててくれた母の苦労を間近で見ていたので、「お金は要らない」なんていう綺麗事を言うつもりは一切ない。
けれど、それで自分自身が壊れてしまうのであれば意味がないではないか。せっかく与えられた貴重な人生の時間を何かを呪うようにして生きていたのでは本末転倒ではないか。
働くとは人の役に立つということ。
その対価としてお金を貰っているのだ。
働くということ、文明の発展とは、人をだましたり陥れたりするために行われるものではない。
ましてや、嫌なものではありたくない。
ライオンに食われなくなった時点で人は満足するべきだと思う。
これ以上発展しても全然いいと思うけれど、地球環境を破壊したり、自殺者や精神疾患にかかってしまう人達を生み出してまで強烈な弱肉強食の社会を維持するべきなのだろうか。
完全平等は実現できないと思うが、少なくとも弱者を追い詰めて陰で抹殺してしまうような恐ろしい社会である必要はないのではないかと思う。
「暇だからとりあえず発展しておこう」となるのは当たり前だろうとは思うけれど、これ以上発展して何がしたいんでしょうか。
「社会は厳しいぞ」と大人の人達はこぞっていうけれど、そもそも社会って何ですか? 厳しい社会で生き抜いて、何をしたいんですか? と思ってしまう。
ただ、食って寝てればそれでいいではないか、という狂ったこの考え方は人類全員が仲良く「せーの」で幸福の価値基準を変えないと成立しない考え方だ。
ものすごい勢いで発展を続けるために優秀な人材を欲している弱肉強食のこの社会の仕組みが変わらなければ、「食って寝てればそれでいい」という幸福の価値基準を持った人も生きていけなくなる。
理想郷を創るために
いつか、僕は全員が幸せに生きることができる世界を作ってみたい。
人生を懸けた盛大な問題解決は、自分の人生を不幸なものだと思う人を少しでも減らすことだ。
どうせ僕一人が生きていく分には問題ないぐらいの素晴らしい社会で生かせてもらっているのだから、長い人生を懸けて少しでも人のためになることがしたい。
ただ、満たされている人間でないと見返りを求めない他者貢献はできなくなってしまうから、まずは自分に力をつけていきたいと思う。
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