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「ルール」が厳格に運用されていると「マイノリティ」は安心できます

昨日、一昨日の記事のつづきです。

マジョリティとマイノリティが平和的に共存するためには白黒が明確な「ルール」で物事を判断し、かつそのルールを両者が納得できる「プロセス」で決めることが重要ですが、もう一つ大事な要素があります。

それが「ルール」が厳格に運用されている状態をつくることです。

「厳格なルール」を導入するという意味ではなく、具体的には以下のことが実現されている状態を指しています。(ルール自体は緩いものでも構いません)

  • 「ルール」を守っている限り、不利益を被ることは一切ない

  • 「ルール」に反した行為には必ず相応のペナルティを受ける

  • 「ルール」の適用に恣意的な判断が一切入らない ★重要★

これと逆の状態が以下の状態です。

  • 「ルール」を真面目に守っても不利益を被ることがある

  • 「ルール」を守らない人がいても許されることがある

  • 「ルール」の適用が恣意的である

「ルール」が厳格に運用されている状態という言葉だけを聞くと息苦しいイメージがあるかもしれませんが、「マイノリティ」の立場で考えたとき、どちらの状態が安心できるかと言われると圧倒的に前者です。

この具体例がシンガポールです。

シンガポールは厳しい法律で知られ、しかも血も涙もなく厳格に運用する国ですが、その目的はマジョリティを占める華人とマイノリティのマレー系やインド系が共存することにあります。

互いの価値観はあまりにも違いますが、マイノリティであっても「法律」さえ守ればマジョリティから迫害されることはありません。もしマジョリティがマイノリティを攻撃するようなことがあれば、攻撃したほうが処罰されます。

このように「法律」が厳格に運用されているからこそ、マイノリティは安心して暮らせるのだと思います。

一方で日本も世界の中では「法律」は厳格に運用されているほうですが、「世間様」という場合によっては「法律」よりも上位の存在があるため、「法律さえ守れば後は何をしてもいい」というわけにはいきません。

よく知らない誰かが勝手に決めた「常識」とか「マナー」という名のもとで私的に罰せられるようなことがあると、マジョリティの価値観を知らないマイノリティにとっては「いつどういう理由で迫害されるかわからない」という心理的に不安な状態で暮らすことになります。

もちろん「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、マイノリティであってもマジョリティの価値観を理解すればいいという考え方もありますが、簡単に理解できれば誰も苦労はしません。

マイノリティにとってマジョリティの価値観は理解できないものだからこそ、様々なすれ違いが起きてしまうのです。

ということで、もしある集団が多様なマイノリティにも存在してほしいと思ったら、暗黙の常識やマナーではなく、明文化された「ルール」を唯一の基準にして厳格に運用したほうが良いと思います。
(万人に守ってほしい常識やマナーがあれば、それをルールにすればいいだけのことです)

「ルール」を厳格に運用するのがどうしても嫌であれば、全員がマジョリティ、すなわち同質な人間で揃えたほうが集団の和は保たれますが、多様性のない集団は環境の変化に弱いので、集団そのものの存続が危うくなるかもしれません。

ルールも完璧ではないので運用する上で様々な問題が発生することがありますが、もしルールに不備があれば随時見直すことも必要です。

ただし、ルールを恣意的に見直すようなことがあるとルールへの信頼は一気に失います。ルール見直しのプロセスも含めて厳格に運用されているからこそ、ルールが透明性のあるものになり、ルールへの信頼が高まります。

ここまで3回に分けて多様性のある集団におけるルールの重要性について書きましたが、マイノリティの立場で言えば「特定の人に守られている状態」よりも「ルールで守られている状態」のほうが圧倒的に安心できます。

ルールは息苦しいものかもしれませんが、法律を守っているのにいつどこで「マナー警察」「自粛警察」から嫌がらせをうけるかわからないような環境のほうが圧倒的に息苦しいと思います。

そういうわけで、私は「ルールさえ守れば後は何をしてもいいんだ」と言い切れる職場や社会が実現されることを望みます。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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