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【小説】『僕が初めて、明日は学校に行きたくないと思った日』

この作品は僕が高校一年生のときに綴ったものです。あまり多くは語りませんが一言だけ。この物語は実話を基にしています。


 筆を持つ手を止めた。というより、自然と手が止まった。

 時は六月の下旬、平日の放課後。場所は黒烏高校一年B組の教室。そこにいた者は皆、間近に控える期末試験のための勉強に励んでいた。僕や彼女や友達は廊下側、奴らは窓側の席に座っていた。彼女というのは僕の恋人、友達というのはかれこれ二年以上の付き合いがある友人のことだ。そして、奴らというのは、一般人が描くイメージの通りの男子たちだった。くだらないこと、卑猥なこと、意味が無くても目の前の面白いことに全力になる、そんな奴らだ。

 僕の手が止まったのは、奴らの会話が嫌でも耳に入ってきたからだった。語弊がある。別に奴らが嫌いなわけではない。奴らの会話が嫌だったのだ。男子高校生にとって、友人と共に勉強をするということは、雑談への入り口でしかないのだ。別にそれが嫌だったわけでもない。会話の内容が許せなかったのだ。

 その内容は二ヶ月前の合宿での話だった。そう、あの合宿の話だ。四月末に催された一泊二日の合宿。新しい仲間たちとの交流の場を設けるのが目的だろう。レクリエーション企画もあり、確かにみんなの胸に新しい絆が芽吹いたように思う。全体を通して、その合宿は成功だった。しかし、ある不祥事が起こったことは揺るぎの無い事実である。その不祥事には僕も一枚噛んでいた。


       *


 改めて思う。馬鹿馬鹿しい話だった。簡単にいえば、じゃんけんに負けた者が一つ上の女子の階へ行くという賭け事をしたのだ。無論、僕もそのじゃんけんの輪に含まれている。結果、一人の男子(奴らの中の一人だ)がその賭け事に負け、階段を上っていった。その後の彼の末路を、僕は翌日知ることになるのだ。

 翌日、大きな広間で朝食を済ませた生徒一同は、先生からの今後の予定を聞かされ、各々の部屋へと向かった。しかし、僕はそのまま部屋に帰れなかった。同じ部屋の一人に名前を呼ばれたのだ。見てみると、同じ部屋のメンバーが集合しているじゃないか。学年主任の先生の前に。その光景を目にした瞬間、僕は胸の奥の奥にある何かにヒビが入ったような感覚がした。大切なものが崩れてしまう悪い予感がしたのだ。

 そのまま僕たちは会議室のような場所に連れていかれ、いわゆる生徒指導を受けることになった。もちろん、前日の賭け事の件だった。じゃんけんに負けて女子の階を訪ねた彼は、途中、一人の女性教師に鉢合わせをしたようだった。それゆえ、今回の案件が発覚したというわけだ。

 僕らは壁に沿って一列に並び、学年主任の先生をはじめ、学年の先生数人に睨まれる対象となった。主犯である彼が、先生の質問に答えていく。女子の階へ足を踏み入れることがそんなに悪く言われる行為かどうか、端から疑問であったが、そんな発言で抵抗できる状況でないことは、その部屋の空気感から読み取れた。

 彼が一通りのことを述べ終え、先生は一人一人に「何か言うことはあるか」と訊ねた。みんなは「何もありません」と答えていたが、僕だけは「大丈夫です」と違う言葉を口にした。仮に言葉を補うとしたら、こうだ。

「僕はじゃんけんの目的を知らずに参加したんですが、彼を止めなかった落ち度はあるので無関係とは言えません。大丈夫です」

 そう、僕はじゃんけんの目的を知らなかった。知らずに参加した。だから、自分は悪くないと主張することはできる。でも、最後の最後まで知らなかったらの場合だ。僕はじゃんけんの後、負けたやつが女子の階へ行くという処刑内容を知ってしまったのだ。僕には彼を止めることができたのだ。

 悲劇の善人のつもりかと誰かが非難するかもしれない。しかし、僕は、そう、学級委員だ。今までずっと、その立場でみんなと接していた。それが僕のアイデンティティともいえた。真面目腐ったスタンスを、僕は断ち切れずにいた。

 指導を受けた後、僕たちは部屋に戻り、反省文を書いた。僕にとって、初めての反省文だ。人生で初めて、僕は自分の過ちをこうして文字にするのだ。その事実が、僕を僕ではない存在にした。

 必死になって文章を書き殴る。仲間たちから「なんか、ごめんね」と謝られても、僕は無視を貫いた。何も聞きたくなかった。目の前の原稿用紙だけに意識を注いでいた。結局、反省文を最後に書き終えたのは、僕だった。

 次の場所へ移動するため、バスに乗車する。それまで、僕は誰とも口をきかなかった。仲の良い女子に声をかけられた気もする。慰めの言葉だったのだろうか。僕は知らない。記憶に無い。バスに乗ってからも、僕は何も喋らなかった。隣の友達も事情を察しているらしく、話しかけてこない。やがてバスが発車した。僕は最前列に座る担任の後ろの席で、後方の席では、他愛も無い雑談が響いていた。しかし、そのはしゃぐ声や笑い声が僕の耳に入っても、反対側の耳へと通り抜けていくようで何も残らなかった。

 そのとき、僕は泣いていたのだ。

 多分、人生で一番泣いたと思う。込み上げてくる想いを必死に抑えようとした。でも、それを試みる度、心の叫びは雫に代わって瞳から溢れ出てきた。

 このとき僕は、十六年近い自分の人生を思い返していた気がする。真面目に生きていれば、仲間との繋がりを大切にすれば、自分のやりたいことをやっておけば、人生は美しいものになると信じていた。でも、年を重ねるにつれ、人の心が持つ闇を感じるようになった。夢は叶わないものだと諦めるようになった。努力しても才能のある人間には勝てないことを知った。人を嫌いになることを知った。今まで僕が生きてきた日々の中で、この心が感じ取った森羅万象の事象や感情を、あの短い時間で蘇らせていたように思う。

 今朝、僕の心のどこかに亀裂が入った。それは心が崩壊する前兆だったのだ。大きな地震で建物が倒壊するように、僕の中でたくさんの何かが崩れてしまったのだ。

 嗚咽が漏れ、涙を拭い、乱れた息を整えようと努めた。

 しばらくしてから、やっと心の乱れが鎮まった。ゆっくりと深呼吸をする。

 もう学級委員はやめよう。

 人を信じすぎるのも、理想を高く持つのも、頑張りすぎるのも、やめよう。

 窓に流れる酷い自分の顔を眺めながら、そんなことを胸に誓った。


 観光スポットを巡り終え、一同、昼食場所へと移動する。青々とした芝生の上で、弁当を食べるのだ。はっきりとした意識がないまま、僕は白米を掻きこんだ。配られたペットボトルのお茶を飲んでいると、後ろから声をかけられた。そこに立っていたのは、担任だった。

「ちょっといいか」

 僕は何も考えないようにして、担任の背中を追いかけた。少し歩いたところで、担任は振り向き、僕と向かい合わせになる。

「大丈夫か」

 担任はそう訊いてきた。きっと、バスの中でのことを言っているのだろう。担任は僕の前の席に座っていた。やっぱり、気付かれていたか。

「大丈夫ですよ」

 僕は頑張って笑って答える。

「あのとき、おまえだけ、『大丈夫です』って言ったから、何かあるんじゃないかなって思ってさ」

 僕はその言葉に、どれだけ驚愕し、感動したことか。担任もあの場にいた。あのときの僕の『大丈夫です』という言葉の意味を、担任だけは別の意味があるんじゃないかと疑ってくれたのだ。

 黒烏高校は中学校が付属している。僕は中学二年生のときから彼が担任のクラスだった。つまり今年で三年目ということになる。二年以上の付き合いの中で、僕と担任の間には確かな信頼関係が生まれていたのだ。その喜びが、僕の心に光を与えた。ばらばらになった心の破片に反射して、胸いっぱいに満たされた。その光の名を、希望と呼ぶのかもしれない。

 例の一件の話を包み隠さず語った。自分はじゃんけんの目的を知らずに参加したこと。じゃんけんに負けた彼を止められなかったから罪悪感を覚えていたこと。あのバスで流した涙のこと。自分を認めてくれる人に、ためらうことなく語り明かした。

 このことを学年主任に話すのかどうか、その行方は知らない。でも、僕は話を聞いてくれたことが、手を差し伸べてくれたことが本当に嬉しかったのだ。

 合宿の帰り道。バスの中でのレクリエーションでカラオケが催されていた。音源があるわけじゃない。つまり、アカペラで歌うだけだ。

 周りから勧められ、あまり気は乗らなかったが、僕も一曲歌うことにした。大好きなアーティストの歌を、僕は歌った。


 心の叫びなど誰にも聞こえない 
 だから笑うんだよ 涙が出るんだよ
 だから輝くんだよ
 自分らしさを探して 誰かの真似をしてみた
 何かが違うんだよ 誰にも聞けないんだよ
 それでも探していたいんだ

 今よりずっと蒼く 優しく見えた空
 何を忘れたんだろう 何を覚えたんだろう
 何を見つけたんだろう
 あの日よりずっと蒼く 強く信じた空
 踏み出せなかったあの道は 今どこに・・・
 
 あの日の僕がずっと待ってた
 心の行き止まりで
 少しだけ話を聞いてくれるかい?
 少しだけ休んでもいいかい?


       *


 あの日のことを、僕は簡単に思い出すことができる。多分一生忘れないんじゃないか、それほど印象的で刺激的な一日だった。青春の光と影を同時に味わった一日だった。

 じゃんけんに負けた例の彼が、あのときの経緯を赤裸々に語っていた。当然のことながら、僕の名前が挙がる。

「いやあ、本当に悪いことをしたよね」

 彼の発言に、僕は曖昧な返答しかできなかった。無理に笑おうとしたが、上手く笑えていたかは分からない。とにかく、僕はお茶を濁した。

 そんな僕に構わず、奴らは会話を続ける。その内容を聞いて、僕はまた自分を失くしていたのだ。

 ある男が中学時代のやんちゃな話を喋り始めたのだ。その男は高校から入学してきた種の生徒で、中学は相当荒れていたらしい。そのやんちゃぶりは、自分の耳を疑うほど鮮烈で、衝撃的だった。他の奴らも、過去の過ちを思いつくままに並べていったのだ。

 どうして我を失うほど、彼らの言葉たちがこの僕の胸に響いたのか。

 奴らの過去がしごく衝撃的なものだったからではない。その過去を笑い話にして、自らの武勇伝のように語ることが、僕の胸には強く重く響いたのだ。僕は真面目に生きてきた。いくつもの思い出は笑顔という優しい色で彩られた。そこには人間本来の温もりが宿っていて、今でも思い出せば自然と微笑むことができるものばかりだ。

 確かに奴らも思い出を蘇らせ、笑っている。ただ、その思い出の正体は嘘や邪心にまみれた過ちだ。僕はそこに強い違和感を覚え、自問自答を繰り返していたのだ。勉強どころじゃなかった。あの日と同じように、出口の無い迷路を彷徨っていた。

 今まで自分が信じていたものを全部否定された気がした。正直者が馬鹿をみるという言い回しがあるが、それがありふれた世の中であることを体感したみたいで、自分の居場所さえ疑った。そして、世渡り上手になるのは、きっと奴らの方なんだ。僕のような人間じゃない。

 何も聞こえなくなった。あのときと同じように泣いてしまうのではないか、と心配になったが、それだけは何とか免れた。しかし、果てしなく伸びる螺旋階段を走り続けるように、答え無き問いをひたすら考えるように、僕は自分の心の中で彷徨っていた。

 僕を現実に戻したのは、チャイムだった。時計の針は五時を示していた。窓の外はうっすらとオレンジ色を含んだ空が広がる。

「そろそろ帰る?」

 友人の一言で、僕と彼女と友人は席を立った。未だに僕は放心状態に近い心持だった。気付けば、僕は二人を置いて、教室を出ていた。自分の足なのに制御できず、玄関を過ぎ、学校を後にした。

 一人になりたい。

 僕は今の気持ちをやっと整理できた。今、彼女、あるいは友人と同じ時を共有したところで、価値は生まれない。むしろ、相手に悪影響を与えてしまうのではないか、そうも思った。

 これでいいんだ。

 大通りに出て、駅へと向かう。二人の姿と遠くに認識したが、僕は迷わず歩き続けた。男には一人になりたいときがあるんだ。そうやって何度も自分に言い聞かせた。

 風が止んだ。

 僕は立ち止まる。目の前には、息を切らした彼女が立っていた。僕の足を止めるため、一本先の信号まで走り、先回りしたんだろう。

 どうしてそこまで……。

 僕は彼女と一緒に駅に向かった。いつもと同じように、ばらばらの歩幅を合わせて一緒に帰った。いつもと違うのは、交わす言葉の一つ一つが重たかったのと、心と心の距離が少し遠く感じたことだった。

 僕の異変の原因を、彼女は何となく察していた。さすがだと思った。

 彼女とはもう一年半近く一緒にいる。時間の許す限りそばにいて、雑談に耽った。お互い考えていることが何となく分ってくるほど、僕らはお互いを認め合い、感じ合っていたのだろう。

 彼女が察していたことは素直に嬉しかったが、とはいえ察していたのは合宿での一連のことだけで、それ以上のことは分からない様子だった。当たり前だ。そう簡単に人の気持ちを理解することはできない。僕が全てを口にしない限り、僕の心の動きを知っているのはこの世でただ一人、僕だけだ。

 駅に着き、改札前にそびえる柱の陰で、僕らは立ち止まる。彼女にしてみれば、ちゃんと話しておきたいのだろう。彼女は誤解をしていた。僕にとって彼女は疎ましい存在なんだと、彼女はそう疑っているのだ。

「どうして話してくれないの? どうして一人で抱え込むの? 私じゃ、だめなの?」

 目に光るものを浮かべ、僕の顔を睨む。その切ない表情に、僕も瞳の奥が熱くなった。

「……他に誰がいるっていうんだよ」

「え?」

「あんだけ必死になって追いかけてきてくれるやつ、他に誰がいるっていうんだよ。おまえしかいないよ。だからこそ、おまえに迷惑かけたくないんだ」

 僕は素直な気持ちを明らかにした。彼女の存在は本当に大きい。いつも感謝をしている。だけど、今回のように、優しさだと思って起こした行動が、逆に相手を傷つけてしまうことがある。彼女はよく言っていた。何かあったら私に言ってほしい、と。だけど僕はそれに従わず、悩みがあっても一人で抱え込む人だった。幸いにも一晩眠ればだいたいのことは忘れる体質だったから、翌日まで引きずる悩みは多くなかった。だけど、彼女にとってそれは心配の種でしかなかったようだ。

 その後、彼女とは一時間くらい話をしていた。危うく、別れ話にまで発展しかけたが、これからはなるべく話す、という僕のことばを聞いて、その場は収まった。

 取り返しのつかない事態にはならず、安心したのは確かだ。でも、彼女からも僕の価値観を否定されているみたいで、その点、僕は気持ちが良くなかった。所詮、他人だ。完全に分かり合えることはできない。そう、諦めるしかない。


 疲れた。

 家に帰ってからも、からまった厄介な感情はほぐれずに、全てのやる気を吸い取っていた。疲労感、虚無感、なんだか生きている心地がしなかった。

 そのとき、僕は初めて思ったのだ。

 明日は学校に行きたくない、と。


       *


 きっと神様も心配してくれたんだと思う。初めて、明日は学校に行きたくないと思った日の翌朝、謎の腹痛が僕を襲った。仮病で休むなんてこと、罪悪感が芽生え僕にはできないから、神様が休むことを勧めてくれたのだろう。

 神様のご配慮に甘え、僕は学校を休んだ。

 その休みを過ごし、僕は何となく分かった。


 涙を知り、闇を知り、愛を知り、自分を知り。

 僕たちは大人になっていくんだ。

                                         終


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