結星蓉子

親子で生きる力を育む共育コンサルタントとして活動しています。 ママも子どもも、自分らし…

結星蓉子

親子で生きる力を育む共育コンサルタントとして活動しています。 ママも子どもも、自分らしく輝いて人生を歩めるように、講座やセッション、働く・起業家ママのメンタルサポートなどを行っています。 https://www.instagram.com/yoko_nlp_coaching/

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  • フォーカルジストニア快福堂

    • 9本

    アレクサンダーテクニーク教師土橋健一と、 NLPマスタープラクティショナーでフォーカルジストニアの経験者でもある結星蓉子のフォーカルジストニア回復セッション

最近の記事

私のフォーカルジストニア体験記その2

回復へ向かったキーポイント 前回のその1では、私の発症時のことについて綴りました。 今回はフォーカルジストニアと向き合う約10年間の中で、回復に向かい始めた頃のことを綴ります。  回復に向かい始めた一番の大きなきっかけは、「フォーカルジストニアの症状を冷静に受け入れること」 「戦うのではなくて、そのままを受け入れる」 そのことが感じられるようになれたのは、NLP心理学を学び自分を少しずつ知ることができて、自分と周りを客観的に見れるようになれたことが大きかったと思います。そし

    • 私のフォーカルジストニア体験記その1

      なんか指が強張る 私は、フォーカルジストニアという疾患を知りませんでした。 今思うとそれも症状を悪化させてしまった原因の一つだと思います。 指の最初の違和感は「強張り」でした。 でも、なんとか弾けていたので私の練習の仕方が悪いと思い込んで、さらに練習時間を増やし必死になっていたら最初の違和感から約3年後に右手がコントロール不能になりました。そこで初めて、フォーカルジストニアという病名を聞いたのです。病院も何箇所か行きましたが、今ほど情報もなく、先の全く見えない状況に心が壊れそ

      • フォーカルジストニアは、自分を受容し、自己変容するチャンス!

        発症してから日々、そして今思うこと フォーカルジストニアを患うことは、人生においてとても大きな試練だと思います。人生に逆境はつきものですが、私も数々の試練を与えられました。 私事になりますが、20年前に8歳の愛娘が難病で天国に旅立ちました。 それからの私は、心と体のバランスを崩しつつなんとか仕事や生活をしていました。 一番状態が酷かった頃を超えて、ピアノにやっと向き合い始められたなと思っていた矢先にジストニアを発症しました。 今思えば、本当の心の苦しみから逃げるようにピアノ

        • フォーカルジストニア回復へのヒント〜アレクサンダーテクニーク×NLP心理学Youtubeライブ配信のお知らせ〜

          明後日、6月22日(水)19:00 ~(60分程度) 私がフォーカルジストニアを回復させるためにお世話になっているアレクサンダーテクニーク講師の土橋健一さんとYouTubeライブ配信をします。 右手がコントロール不能になり、ほぼピアノが弾けなくなってしまった私ですが おかげさまでかなり良くなりました。 自分なりになってしまった原因、回復し始めたきっかけなど感じることを素直にお話ししたいと思います。 フォーカルジストニアは確実な治療法がないので、回復できないのではないか…と 悩

        私のフォーカルジストニア体験記その2

        • 私のフォーカルジストニア体験記その1

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        • フォーカルジストニア回復へのヒント〜アレクサンダーテクニーク×NLP心理学Youtubeライブ配信のお知らせ〜

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        • フォーカルジストニア快福堂
          9本

        記事

          「8歳で80年生きた天使」〜プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.9

          ママが髪の毛なかったら…ママはどう思う?年齢を重ねるにつれて、自分の髪の毛がないことをりさが精一杯受け止めていたのはわかっていました。 家ではフェイスタオルをかぶって髪の代わりにしてヘアゴムで結んだり、三つ編みのついたカチューシャをつけたり…そして、大好きなバービー人形の髪を綺麗に三つ編みして遊んでいました。 私は、そんなりさの様子を見るのが本当はとても苦しかったのです… でも、「りさはもっと辛いんだから私は笑って明るくしていないといけない」と自分に言い聞かせていました。 私

          「8歳で80年生きた天使」〜プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.9

          「8歳で80年生きた天使」〜プロジェリア症候群の娘と生きた8年〜No.8

          もう生えてこない髪の毛りさの髪の毛は1歳半にはほぼ抜けてしまいました。 「もうきっと生えてくることはない」と思っていながら微かな期待も持ち続けていました。 しかし、プロジェリアの診断を受けてからはその期待は持てなくなりました。 小さな頃は、帽子をかぶって過ごしていましたが、りさが社会デビューするにあたって私は「イジメられたらどうしよう…」と悩み、外出する時はウイッグをつけるようにしようと思いました。そして、3歳の時にウイッグを作り、お店で初めてつけてもらった時のりさの様子は

          「8歳で80年生きた天使」〜プロジェリア症候群の娘と生きた8年〜No.8

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.7

          プロジェリアの確定診断〜今を大切に精一杯生きること娘が2歳の冬のことでした。 「プロジェリア」という難病の確定診断を受けたのは… 800万人に1人という難病。 1年で通常の10倍のスピードで体が老化してしまう。 当時は治療法はもちろん、原因もわかっていませんでした、 「お母さん、残念ですがりさちゃんは長くは生きられません。ご自分の人生のことも考えてください」と、ドクターに言われました。 そんなことを言われても受け入れられるわけがありません。 正直、その時の記憶ははっきりと

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.7

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.6

          りさとの社会デビュー 退院して半年が過ぎたころの4月… ようやく短時間(30分)の人混みを避けた外出の許可が出ました。 私は、まず初めにりさを公園に連れて行くことにしました。 誰もいない時間帯をねらって、あまり人が来ない公園を探しておきました。 そして決行の日! 4キロの酸素ボンベを持って、初めての公園にワクワクしながら向かったことを覚えています。 車で探索して見つけといた公園に到着しました。 まずは、「ブランコ」に挑戦! りさを抱いて、酸素ボンベを背負って… 初めて

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.6

          自分を大切にすること

          今日は、心についてのことを書きたいと思います。 いろいろな逆境を経験したことから、私は「心理学」をとても勉強したくなりました。 心理学と言ってもいろいろな種類があり、そしてまた指導者も切磋万別でたくさんいらっしゃいます。 私は、実践心理学のNLPから入り、現在も同じ先生の元でNLP以外の勉強を続けています。 でも私は、NLPを学びたかったのではなくその先生に習いたかった… それが、たまたまNLPでした。 その先生は、人が根本的変化をできるように、徹底的に人間理解というところを

          自分を大切にすること

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.5

          りさとの生活1年3ヶ月の入院生活を終えて、家での生活が始まりました。 一番不安だったことは、りさにとったら病院が安心する場所になっていて泣かれるのではないかということでした。 何せ生後2ヶ月からずっと病院にいた訳ですから、自分の家を知らないのです。 でも、その不安はすぐになくなりました。 りさは、ずっと一緒に家で暮らしていたかの様に、良く笑い、私の手作りの離乳食を食べ、楽しそうに遊んでくれました。 そして、夜泣きも全くしませんでした。 私は本当に安心したと同時に、離れていても

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.5

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.4

          在宅酸素療法での退院を目指して生後2ヶ月から入院生活が始まり、りさが7ヶ月になった頃… 私は、書くことができなくなっていた日記を書ける日も出てきました。 当時記したものは全て残してあり、読み返すとまるでタイムスリップしたような感覚になる程、鮮明に思い出します。 7ヶ月になった頃の日記には、「病名や原因ははっきり言ってドクターもわからない…」と書いてあります。 私は、わからない辛さも強くありましたが、「本当は大したことなくて、ある日完治できる奇跡が起きるかもしれない」という希望

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.4

          病児やママに笑顔で輝いてもらう為に

          ここ数年、自分の人生の方向性や、生き方についていろいろ考えています。 現在も、ピアノ講師、心理セラピストとして活動していますが、ずっと心の中にある想い… それは、病児や支えているママに私ができることを形にしたいということです。 天に還った娘が残していってくれたこと。 それは、辛いことも多かったけど楽しかったことももたくさんありました。 私がピアノ講師のせいか、娘も小さい頃から音楽を聴いたり、ピアノを弾いたり、歌を歌うことが大好きでした。 2人でピアノ連弾をして発表会にも参加

          病児やママに笑顔で輝いてもらう為に

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年  No.3

          1年3ヶ月の入院生活で感じた多くのこと 生後2ヶ月から入院生活を送っていたりさにとって、面会時間だけに会いに行く私を自分の「ママ」と感じてくれてるのか… 看護師さんと過ごす時間の方が長い生活。 私が面会から帰るときも、後追いしないりさ。 後追いされるのも辛いけど、私は時間になったら帰ってしまう人と理解しているのだろうと思うと寂しかったです。 りさはベットにいて私は椅子に座っているというスタイル、少し大きくなってきてからはちょっとの時間は病棟内を抱っこして歩いたり、お風呂に入れ

          「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年  No.3

          自分の心と向き合うこと  その3

          1ヶ月の入院生活今から5年程前、完全房室ブロックという心臓の病気で救急搬送されました。 そしてそのまま約1ヶ月の入院生活を送ることになったのです。 病室内のトイレに歩くだけで意識を失い、ベット上から動けない状態でした。 徐脈になっていることが原因だったので、まずは点滴で脈を早めながら検査を受け始めたのですが… 頻繁に意識を失い、その度に「本当に死ぬかもしれない」と感じました。 2日間は、食事以外は失神することが怖くて何もできなかったです。 髪もボサボサ、顔も洗わない、歯磨き

          自分の心と向き合うこと  その3

          自分の心と向き合うこと その2

          今日も昨日の記事の続きを書きたいと思います。 娘が天使になってから、いかに現実逃避して自分の本当の心を感じていなかったか… 一番辛かった頃の記憶は、今でもボンヤリとしています。 人間の無意識は心身を破壊させない為に記憶まで消すことを実際に経験したのです。 ニューヨーク短期留学から帰国した私は、やっと自分の心を少しずつ見つめ始めました。 すると本当は、「元気になって普通の生活を送りたい」と思っていることを感じました。 そして、言葉では言い表せないくらい「寂しかった」のです

          自分の心と向き合うこと その2

          自分の心と向き合うこと その1

          今日は、娘「りさ」と過ごした日々を綴るのではなく「自分の心と向き合うこと」について書きたくなったので投稿します。 私は、ずっと音楽を仕事にしてきました。 演奏したり、指導したり、作品を作ったりです。 娘が天使になってから休んでいた時期はありますが、続けてきました。 しかし、もうやめたいと本気で思ったことが一度だけあって、約一年間ほとんど ピアノを弾かなかったことがあります。 なんでやめたいと思ったのか… その時は、ただ「ピアノから離れたい」という感覚でした。 でも今は、

          自分の心と向き合うこと その1