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「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.5

りさとの生活

1年3ヶ月の入院生活を終えて、家での生活が始まりました。
一番不安だったことは、りさにとったら病院が安心する場所になっていて泣かれるのではないかということでした。
何せ生後2ヶ月からずっと病院にいた訳ですから、自分の家を知らないのです。
でも、その不安はすぐになくなりました。
りさは、ずっと一緒に家で暮らしていたかの様に、良く笑い、私の手作りの離乳食を食べ、楽しそうに遊んでくれました。
そして、夜泣きも全くしませんでした。
私は本当に安心したと同時に、離れていても面会時間だけの触れ合いでも、親子の絆が作られていたことに大きな喜びを感じました。

日常生活は、酸素を使っているので寝ている時にカニューレが体に巻きつかない様に気をつけること、薬を飲ませること、1日3回聴診器で呼吸数を計り体の様子を良く観察すること、それらをきちんと記して通院時に持っていくこと。
外出は禁止、家族は帰宅したらすぐに手洗い、うがいをしてりさに感染をさせない様に十分に気をつけること。
これらのことにはかなり神経を使いましたが、それ以外は普通の育児でした。

入院が長くて育児という程のことが出来ていなかったので、ご飯もおやつもずいぶんと手作りをしました。
外出が出来なくても、やれることはたくさんあって楽しく過ごしていたことを覚えています。
絵本を読んだり、歌を歌ったり、お絵かきしたり…
入院していた時に一番したかったりさと寝転んで遊ぶこと、一緒に床に座って遊ぶことが出来て毎日とても充実していました。
そして、退院して2ヶ月が経った12月にはトコトコ歩けるようにもなり、病気の不安や心配はありましたが、幸せを感じていました。
その頃、りさは1歳6ヶ月になっていました。

初めて2人で作ったおやつは「クッキー」
小麦粉をこねたり、型を抜いたり、楽しそうに作っていました。
出来上がったクッキーを「食べやすく、割ってあげるからね」と言うと、私の顔を見て「ママ…」と言ってくれたのです。
その時の「ママ…」には、「ママ、ありがとう、優しくしてくれてありがとう」というりさの想いがこもっていたように感じました。
お話はまだ出来なくても想いは伝わるんだなって、とても嬉しくなりました。

日々の生活は穏やかに過ぎて行きましたが、通院時は点滴をしなければならず…
病気の現実に引き戻されていました。
点滴が嫌で泣き叫ぶりさを私も看護師さんと押さえつけなくてはならず…
ある時、あまりに辛くて私は「りさ、ごめんね。健康な体に産んであげられなくて…りさ、ごめんね」と泣きながら言っていました。
するとドクターに「お母さん、なんでこの子に謝るんですか。この子は生まれてこれただけでもう幸せなんです。謝らないでください」と言われたました。
当時の私はその言葉の意味がわからなかったですが、今はいろいろな経験をさせてもらって理解できてきたように感じます。

「人は生きて存在するだけでいい」それだけでたくさんの幸せを与え、貰えるのかもしれません。
何よりも大切なことは、「在り方」なのではないでしょうか…

そして退院して半年が過ぎた頃、人混みを避けた外出を短時間できる許可がおりたのです。
初めて外出用酸素ボンベを持って、りさを連れて誰もいない公園デビューをしました。

次回に続きます。




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