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「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.4

在宅酸素療法での退院を目指して

生後2ヶ月から入院生活が始まり、りさが7ヶ月になった頃…
私は、書くことができなくなっていた日記を書ける日も出てきました。
当時記したものは全て残してあり、読み返すとまるでタイムスリップしたような感覚になる程、鮮明に思い出します。
7ヶ月になった頃の日記には、「病名や原因ははっきり言ってドクターもわからない…」と書いてあります。
私は、わからない辛さも強くありましたが、「本当は大したことなくて、ある日完治できる奇跡が起きるかもしれない」という希望も持っていました。

当時の日記を少し記します。

りさはおてんばで、抱っこしてブンブン揺らすとすごく大きな声でキャッキャと良く笑い、膝の上に立たせるとツンツン踏ん張ってもくる。寝返りも上手になりました。おしゃべりも盛んになってきて、「アババ」とか「ウーウー」とか良く言います。
本当に可愛くてたまらない。
今は辛いけど、この子の為に頑張ろう!
そう思うのです。
りさに会うたびに…    必ず良くなると信じて…

「早く退院して一緒に暮らしたい」という思いが、毎日つのっていました。
9ヶ月になるとやっと離乳食が始まって、初めての「ひな祭り」は病院で迎えました。
「初節句」を家でみんなでお祝いできないのが寂しかったので、せめて洋服だけでも手作りして着せてあげたい!と奮起しました。
私は、お裁縫が本当に苦手なのですが、本を買い型紙を作って母に手伝ってもらいながら完成させたことを覚えています。
当日はプレイルームに飾ってくれてある「お雛様」の前で手作りの洋服を着せて、写真を撮りました。
病棟のお友達やママたち、そして看護師さんに「りさちゃん、とっても可愛いね」と言ってもらえて嬉しかったことも、昨日のことのように思い出されます。

当時の私は、りさと会えない時間は家でパンを焼いたり、りさの洋服やスタイなどを作ったりして過ごし、友達と会ったりする心の余裕はなくなっていました。

9ヶ月を過ぎたある日…
「在宅酸素療法」が適用になって、退院に向けてやっと動き出しました。
だからと言ってこの病気との戦いが終わるわけではないので、不安はありましたが一歩前進したこと、りさと一緒に暮らせることがとても嬉しかったのです。
そこから、退院に向けての勉強や準備が始まりました。

そんな中、りさは病院で1歳の誕生日を迎えました。
その日は、母と一緒に可愛い洋服を買って、おもちゃも買って面会に行くとりさは大喜びで遊んでいました。
すると「ママ」と初めて呼んでくれたのです。
私は、聞き間違いかと思い、「この人はだあれ?」って自分を指差して聞きました。
すると、「ママ、ママ」と言ってくれて本当に嬉しかったのです。
生後2ヶ月から入院生活を送っているりさにとって、私が「ママ」だとわかってくれてるのかとても不安だったから、本当に嬉しかったのです。

そんな嬉しい出来事がある反面、病気の予後はわからないが悪くなる確率の方が高いと言われている現実がありました。
ドクターとのお話を受け止めきれず体調が悪くなり、病院に点滴を受けに行ったことも何回もありました。
そして、やっと退院の為の外泊練習が始まり、頑張っていた矢先…
私の身体に異変が出始めたのです。
舌が荒れている感じや、顔がとても暑くてのぼせて、とにかく怠くて、怠くてどうにもならないのです。
気持ちに体がついてこない…
今思えばこの時が、私の自律神経失調症やうつ病の始まりだったのです。
でも、退院に向けて頑張りたい思いが勝りなんとか乗り切っていました。

そしてりさが1歳3ヶ月になった10月13日、長かった入院生活を終えやっと退院できたのです。
やっと、一緒に暮らせることになったのです。
酸素投与のための鼻カニューレを長く伸ばして家の中を移動できるようにしたり、
一日3回時間を決めて聴診器で呼吸数を計り、食事量などを細かく記す「りさちゃん日記」を毎日つけて通院の時に持って行きました。
予防注射を打てなかったので「ガンマグロブリン」を点滴していましたが、感染予防のため、通院以外の外出も当分の間は禁止となりました。
でも私は、りさと一緒に暮らせるだけで充分だったのです。
普通は当たり前の生活が、私にとっては大きな幸せになっていました。

次回に続きます。


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