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私のフォーカルジストニア体験記その2
回復へ向かったキーポイント 前回のその1では、私の発症時のことについて綴りました。
今回はフォーカルジストニアと向き合う約10年間の中で、回復に向かい始めた頃のことを綴ります。
回復に向かい始めた一番の大きなきっかけは、「フォーカルジストニアの症状を冷静に受け入れること」
「戦うのではなくて、そのままを受け入れる」
そのことが感じられるようになれたのは、NLP心理学を学び自分を少しずつ知ること
私のフォーカルジストニア体験記その1
なんか指が強張る 私は、フォーカルジストニアという疾患を知りませんでした。
今思うとそれも症状を悪化させてしまった原因の一つだと思います。
指の最初の違和感は「強張り」でした。
でも、なんとか弾けていたので私の練習の仕方が悪いと思い込んで、さらに練習時間を増やし必死になっていたら最初の違和感から約3年後に右手がコントロール不能になりました。そこで初めて、フォーカルジストニアという病名を聞いたのです
フォーカルジストニアは、自分を受容し、自己変容するチャンス!
発症してから日々、そして今思うこと
フォーカルジストニアを患うことは、人生においてとても大きな試練だと思います。人生に逆境はつきものですが、私も数々の試練を与えられました。
私事になりますが、20年前に8歳の愛娘が難病で天国に旅立ちました。
それからの私は、心と体のバランスを崩しつつなんとか仕事や生活をしていました。
一番状態が酷かった頃を超えて、ピアノにやっと向き合い始められたなと思っていた矢
フォーカルジストニア回復へのヒント〜アレクサンダーテクニーク×NLP心理学Youtubeライブ配信のお知らせ〜
明後日、6月22日(水)19:00 ~(60分程度)
私がフォーカルジストニアを回復させるためにお世話になっているアレクサンダーテクニーク講師の土橋健一さんとYouTubeライブ配信をします。
右手がコントロール不能になり、ほぼピアノが弾けなくなってしまった私ですが
おかげさまでかなり良くなりました。
自分なりになってしまった原因、回復し始めたきっかけなど感じることを素直にお話ししたいと思います。
「8歳で80年生きた天使」〜プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.9
ママが髪の毛なかったら…ママはどう思う?年齢を重ねるにつれて、自分の髪の毛がないことをりさが精一杯受け止めていたのはわかっていました。
家ではフェイスタオルをかぶって髪の代わりにしてヘアゴムで結んだり、三つ編みのついたカチューシャをつけたり…そして、大好きなバービー人形の髪を綺麗に三つ編みして遊んでいました。
私は、そんなりさの様子を見るのが本当はとても苦しかったのです…
でも、「りさはもっと辛い
「8歳で80年生きた天使」〜プロジェリア症候群の娘と生きた8年〜No.8
もう生えてこない髪の毛りさの髪の毛は1歳半にはほぼ抜けてしまいました。
「もうきっと生えてくることはない」と思っていながら微かな期待も持ち続けていました。
しかし、プロジェリアの診断を受けてからはその期待は持てなくなりました。
小さな頃は、帽子をかぶって過ごしていましたが、りさが社会デビューするにあたって私は「イジメられたらどうしよう…」と悩み、外出する時はウイッグをつけるようにしようと思いまし
「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.7
プロジェリアの確定診断〜今を大切に精一杯生きること娘が2歳の冬のことでした。
「プロジェリア」という難病の確定診断を受けたのは…
800万人に1人という難病。
1年で通常の10倍のスピードで体が老化してしまう。
当時は治療法はもちろん、原因もわかっていませんでした、
「お母さん、残念ですがりさちゃんは長くは生きられません。ご自分の人生のことも考えてください」と、ドクターに言われました。
そんな
「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.6
りさとの社会デビュー
退院して半年が過ぎたころの4月…
ようやく短時間(30分)の人混みを避けた外出の許可が出ました。
私は、まず初めにりさを公園に連れて行くことにしました。
誰もいない時間帯をねらって、あまり人が来ない公園を探しておきました。
そして決行の日!
4キロの酸素ボンベを持って、初めての公園にワクワクしながら向かったことを覚えています。
車で探索して見つけといた公園に到着しまし
自分を大切にすること
今日は、心についてのことを書きたいと思います。
いろいろな逆境を経験したことから、私は「心理学」をとても勉強したくなりました。
心理学と言ってもいろいろな種類があり、そしてまた指導者も切磋万別でたくさんいらっしゃいます。
私は、実践心理学のNLPから入り、現在も同じ先生の元でNLP以外の勉強を続けています。
でも私は、NLPを学びたかったのではなくその先生に習いたかった…
それが、たまたまNLPで
「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.5
りさとの生活1年3ヶ月の入院生活を終えて、家での生活が始まりました。
一番不安だったことは、りさにとったら病院が安心する場所になっていて泣かれるのではないかということでした。
何せ生後2ヶ月からずっと病院にいた訳ですから、自分の家を知らないのです。
でも、その不安はすぐになくなりました。
りさは、ずっと一緒に家で暮らしていたかの様に、良く笑い、私の手作りの離乳食を食べ、楽しそうに遊んでくれました。
「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.4
在宅酸素療法での退院を目指して生後2ヶ月から入院生活が始まり、りさが7ヶ月になった頃…
私は、書くことができなくなっていた日記を書ける日も出てきました。
当時記したものは全て残してあり、読み返すとまるでタイムスリップしたような感覚になる程、鮮明に思い出します。
7ヶ月になった頃の日記には、「病名や原因ははっきり言ってドクターもわからない…」と書いてあります。
私は、わからない辛さも強くありましたが
病児やママに笑顔で輝いてもらう為に
ここ数年、自分の人生の方向性や、生き方についていろいろ考えています。
現在も、ピアノ講師、心理セラピストとして活動していますが、ずっと心の中にある想い…
それは、病児や支えているママに私ができることを形にしたいということです。
天に還った娘が残していってくれたこと。
それは、辛いことも多かったけど楽しかったことももたくさんありました。
私がピアノ講師のせいか、娘も小さい頃から音楽を聴いたり、ピア
「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年 No.3
1年3ヶ月の入院生活で感じた多くのこと 生後2ヶ月から入院生活を送っていたりさにとって、面会時間だけに会いに行く私を自分の「ママ」と感じてくれてるのか…
看護師さんと過ごす時間の方が長い生活。
私が面会から帰るときも、後追いしないりさ。
後追いされるのも辛いけど、私は時間になったら帰ってしまう人と理解しているのだろうと思うと寂しかったです。
りさはベットにいて私は椅子に座っているというスタイル、少