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「半自伝的エッセイ(26)」チェスと将棋どちらが難しいか(2)

といっても、アメリカに行くにあたってはいくつかのハードルがあった。まずは費用である。往復に飛行機を利用するとなると、向こうでの滞在費に事欠くことになりそうだったから、とりあえず旅行会社に行って話を聞いてみた。やはり航空券は高かった。とても飛行機には乗れない。そうなると、船で行くしかないのだが、西海岸までの船であれば二週間ほどで着くらしいものの、私が目指していたのは東海岸だったから、そこからまた列車に乗るか飛行機を使わないといけない。東海岸に行こうとするとイギリスだかオランダだかで乗り継ぐらしいのだが、いずれも数ヶ月掛かるという。西海岸行きの船であっても二週間ほどで着くやつはそれなりの運賃を支払わなければならなかった。

もうひとつの懸案が、千秋さんから預かったセキセイインコだった。誰か信頼できる人に預けないといけない。小鳥を飼ったことがある人は周囲にはいなかったから、預ける人を見つけるというこちらのほうが難しい問題だった。仮に預けられる人が見つかったとしても、そんなに長くはお願いできないだろう。となると、あまり長くは向こうに滞在できない。だとすれば、飛行機で行くしかないが、航空券を買うだけの費用はなかった。

そんなことを堂々巡りで考えていたらあっという間に4月になっていた。渡米のことで調べ物があってあちらこちらに行ったりしていたから、チェス喫茶「R」に来たのは久しぶりだった。そこに戸田さんがいた。戸田さんは、ふたつぐらい大きなサイズのダブダブのトレーナーに、やはりダブダブのズボンを履いていた。これが戸田さんのいつものスタイルだった。どう見てもカタギには見えないのだが、常にニコニコしていて、それがかえって戸田さんに凄みを与えていた。歳はおそらく40代だった。
「藤井君、昼飯食った?」と、戸田さんが私に訊いた。
「いや、まだですが」
「じゃあ、今日は付き合ってよ」
「いいですけど」
二人でチェス喫茶「R」を出て、しばらく歩くと、戸田さんは路上駐車していた車のドアを開けた。それはベンツだった。私は車には疎かったが、ベンツといってもクラッシックカーに近いような車だった。それが最新のベンツだったら、私は引き返していたかもしれない。
車を出してしばらくすると、「この車、どう?」と、戸田さんが尋ねてきた。
「古いベンツですよね?」
「そう。いい音するでしょ」
そう言われれば、確かにエンジンの音と振動が全身に響いてくるようなところがあった。
「エンジン、ばらして、組み立て直したところなの。今日は試運転」
「そうなんですか」
「俺、こういう車好きでさ」と、戸田さんはいかにも愉しげに言った。エンジンをばらしたり組み立て直したりというのが戸田さんの趣味なのか職業なのかわからなかったが、戸田さんの人となりの一端を知ったような気がして、私は少しだけ戸田さんに親近感を抱いた。
「藤井君は馬とか競輪とかやるんでしょ?」
「はい、たまに」
「今日はこれ以上にすごいエンジン音聞かせてあげるから」と言って、戸田さんはハンドルの上部を叩いた。
しばらくして到着したのは競艇場だった。
「舟、やったことある?」車から降りると戸田さんが言った。
「いや、初めてです」
「ビギナーズラックっていうから今日は儲けていきな」

競艇場に入るとすでにレースが始まっているのか、まだ水面も見えないのに、ものすごい爆音が聞こえてきた。
「まず腹になにか入れようか」と言うと、戸田さんには目的があるように、まっすぐに場内の食べ物屋の前まで歩いて行った。その後ろを付いて行った私に、
「牛のモツ煮が絶品だから」と戸田さんは言った。
私はその薦められた牛モツ煮ライスを注文した。戸田さんも同じものを頼んでいた。平皿に牛のモツ煮、丼にライス、小皿に沢庵という実にシンプルな食べ物であったが、これが本当に美味しかった。
「初めてならしばらく見(ケン)してな。今日は9レースがおいしいから」と、牛のモツ煮を食べならが横で戸田さんが言った。
言われたとおり、食べ終えてから私は舟券を買わずに数レースを見ていた。1=3で360円とか、1=4で240円とか、2=1で450円とかの配当が続いた。一体どうやってこんな低配当で儲ければいいのか私にはわからなかった。わかったのは、どうやら1号艇が圧倒的に有利らしいことだった。
戸田さんが私の横に座り、私の手から競艇新聞を取ると、赤ペンでなにかを書き始めた。「ほれ」と言って戸田さんは私に新聞を返してきた。そこには何点かの買い目が書かれていた。6=4とか6=5とか5=4とか今まで見てきたレースからはあり得ないような買い目だった。戸田さんは私の耳元で「次は1が飛ぶから」と言った。半信半疑であったものの、私には競艇の買い方がわからないのだから、目をつぶって戸田さんの買い目に有金すべてを乗った。

9レースが始まった。最初のカーブで2号艇が1号艇を外に押すように回ると、その外から捲りに行った3号艇も割りを食ってさらに外に振られた。開いた内に4、5、6号艇が殺到した。バックストレッチではその3艇がほぼ並んでいたが、最内にいた6号艇が次のカーブを周り終わると先頭に立った。そのままであれば、戸田さんの買い目で当たりだった。
実際にそうなった。オッズがどのくらいだか見なかったのだが、払い戻すと私のジーンズの前後のポケットは札の厚みで膨らんだ。戸田さんは帯封付きの札束をいくつか受け取り、それを無造作にズボンのウエストと腹の間に差し込んでいた。
「帰ろうか」そう戸田さんは言った。
帰りの車中、私は戸田さんに訊いた。
「どうして1号艇が来ないって読めたんですか?」
「う〜ん、それは言えない。それよりも、藤井君、また賭けチェスやりたくない?」
そう言われて、私は自分が無性に金を賭けてチェスをやりたいことに気づいた。戸田さんもチェス喫茶「R」の別部屋の常連だった。というか、別部屋の主のような存在だった。別部屋がなくなって戸田さんは寂しさというか手持ち無沙汰を覚えていたのかもしれない。私はこの一ヶ月ほどアメリカに行きたいと思い、その目的を叶えるために右往左往していたが、よくよく考えると、私の目的というのは、セントラルパークで賭けチェスをやりたいということであり、週末にあちこちで開かれているという賞金ありのトーナメント大会だった。チェスで強くなりたいというのは掛け値なしの本音ではあったが、その裏には金を賭けてチェスをやりたいという、どうしようもない渇望があったことは否定できない。実際のところ、チェス喫茶「R」の別部屋で賭けチェスができなくなってから、私のチェスの研究はどこかおざなりになっていた。

「マスターに迷惑かけられないから、マスターには内緒だけど、場所を作ろうと思っているんだけど、藤井君どう?」と、戸田さんはハンドルを軽快に操作しながら言った。
「ぜひ」と私はなんの躊躇もなく答えていた。
それから一ヶ月もしないうちに、その場所は出来上がっていた。入り口はとある古い喫茶店なのだが、トイレに行くために一旦外廊下のような通路に出ると、トイレの扉の少し先にまた扉があり、そこを開けると地下の部屋に続く階段があった。地下室は二十畳ほどの空間で、そこに5脚のテーブルが並べられ、その上にそこそこ立派なチェス盤が置かれていた。この場所は先崎さんが会社の子会社だかを通じて用意したらしかった。
現金なもので、また賭けチェスができるようになると、私はチェスの研究、それもやや中断していた定跡の研究にまた力を入れるようになった。チェスの定跡は人類の叡智みたいなものだったが、かといって万能というわけではなく、どの定跡であってもどこかに瑕を抱えていた。ゆえに、改善の余地が残されていたのだった。再び賭けチェスをやるようになり、定跡の研究にまた没頭し始めると、アメリカに行きたいという熱情はすっかり冷めてしまった。

ある夜、アパートの部屋に戻り、大学から送られてきていた封書を開けた。去年も受け取っていたから内容は知っていた。学費を納付せよというものに違いない。納付しないと強制退学だか除籍になるという脅しである。大学に未練はなかったが、もう少し学生の身分でいたいという思いもあった。それに、戸田さんに儲けさせてもらった金額は一年間の学費を上回っていた。週明けに銀行で振り込みの手続きをして、私はあと一年はひとまず学生でいることを選んだ。その時は知る由もなかったのだが、この時の選択が私の運命を変えることになった。

五月の連休明けだったと思うが、私は学生証を更新するために久しぶりに大学の校内に足を踏み入れた。学生課で新しい学生証を受け取り、そのまま帰ろうとキャンパスを出ようとしたところ、後ろから「藤井君」と私を呼ぶ声がした。大学に知り合いや友達はほとんどといっていいほど存在しなかったから、空耳だと思ったが、その声には聞き覚えがあった。振り向くと、百合ちゃんが立っていた。一年以上あるいは二年近く会っていなかったが、ますます綺麗な女性になっていた。初夏の日差しに黒髪が美しかった。私が少しの後悔とともに百合ちゃんに見とれていると、「よかった。やっと見つかった」と百合ちゃんは言った。
「ん?」
「探してたの」
「僕のこと?」
「うん。Rにも行ったの。だけど、しばらく来てないってマスターが言ってた」
たしかに私は賭けチェスのほうに入り浸っていてチェス喫茶「R」にはしばらく行っていなかった。
「アパートの場所、知らないし」
そういえば、百合ちゃんをアパートに呼んだことはなかった。
「でも、どうして僕を探してるの?」
「ほら、わたし、ポーランド語を専攻してるでしょ」
そう言われても私はその事実を知らなかった。きょとんとしている私を尻目に百合ちゃんはどんどん話を進めていった。

かいつまんでいうと、こういうことだった。
去年の夏に百合ちゃんはポーランドの大学に短期留学した。その大学から招待状が届いた。大学主催のチェス大会に参加しませんかというものだった。往復の航空券や宿泊代も支給される。学食も利用し放題。大会に優勝するか3位までに入るとその大学の奨学金がもらえる(優勝は全額、以下は半分と三分の一)。参加するには男女のペアでなければいけない。どちらも学生であること。いずれも同大学の学生か同大学への編入を希望していること。などなどだった。

私は素朴な疑問を口にしなければならなかった。
「もし優勝したりしたら、僕もその大学に行くということ?」
「もし藤井君が希望すれば」
「でも、ポーランド語もポーランドのこともまったく知らないけど」
「大丈夫。奨学金を辞退すればそれと同じだけのお金がもらえるの」
なるほど、ようやく私にも話の筋がわかってきた。百合ちゃんは奨学金をもらってその大学に編入をしたい。私はその権利を金に換えればいい。しかし、まだわからないことがあった。
「でも、どうして僕なの?」
「藤井君、ソ連のチェスに詳しいでしょ」
「もしかしたら少しは詳しいかもしれないけど」
「大会に参加するのはほとんどがその大学の学生なの。で、みんな例外なくソ連時代にチェスを憶えた人。それに対抗できるのは、藤井君だけ」
「それはちょっと僕を買い被りすぎじゃないか?」
「わたしとポーランドに行ってチェスをやるの嫌?」
私の知っている百合ちゃんはこれほど押しの強い感じではなかったが、数年のうちに自分を主張できる女性に変貌していた。なんだかそれが私には嬉しかった。大学に行っていない私は自分の学年が何年なのかよくわかっていなかったが、頭の中で指折り数えると四回生のはずだった。百合ちゃんも当然そうだろう。それだけの年月が経っていたのだった。
「わかった。ポーランドに行く。で、その大会はいつなの?」私はそう答えていた。
「七月」
あと二ヶ月ぐらいしかなかった。

私はたしかにソ連時代のチェスに少々は親しんでいた。郷田さんからは、ソ連のチェス雑誌以外にも、学校で使うチェスのテキストなどももらっていた。それらによると、というかそれらしか情報がなかったのだが、ソ連邦の学校で習うチェスはかなりかっちりとした正統派のものだった。徹底的に定跡を頭に叩き込むスタイルだと想像された。もしそうだとすれば、私が研究してきた定跡の外し方が役に立ちそうだった。また、攻守のバランスを取るスタイルが徹底されているようなので、こちらから手待ちのような手を指すと相手は迷うことがあるかもしれない。それ以外にも穴はありそうだった。そんなことをみっちりと二ヶ月かけて百合ちゃんと詰めていった。二ヶ月といっても百合ちゃんはきちんと授業にも出ていたから、土日に集中して研究、特訓した。ある時は、百合ちゃんからもいいアイデアが飛び出してきた。

結論だけをいうと、私たちはトーナメントの決勝まで駒を進め、そこで負けた。準優勝という結果は悔しかったが、まあ上出来だともいえた。私が奨学金を辞退してその金を百合ちゃんにあげれば、百合ちゃんは学費の心配をすることなく二年間この大学に編入して卒業資格を得られる。
トーナメントの翌日、友人たちとの旧交を温めるという百合ちゃんには付き合わず、ひとりでクラクフの街を歩くことにした。おそらく二度と来ることはないだろうから、観光地的な場所には向かわず、大通りから外れた細い路地を探索して歩いた。一件の骨董店があった。古いものを扱っているはずなのになぜかショーウインドウに飾られた品々が輝いて見えた。私は店内に入った。棚を端から眺めていると、その大きさと比較して身分不相応なスペースを与えられている指輪があった。その指輪を凝視している私の後ろから、店主らしき初老の男性が声を掛けてきた。どうもその指輪の来歴などを説明してくれているらしいのだが、店主の英語は聞き取りにくく、私の英語能力も中途半端だったから、半分も理解できなかった。それでも私はその指輪を買うつもりにもうすでになっていた。百合ちゃんにあげるために。
日本を立つ前、ポーランド行きのことを戸田さんに話した。すると戸田さんは、餞別だと言ってまとまったお金をくれた。「絶対にその子をモノにしろよ」と言って。指輪の金額と戸田さんがくれた餞別の額がほとんど同じだった。偶然にしてもよくできたストーリーだと思い、私は大袈裟に言えば運命のようなものを感じてその指輪を購入した。

帰国した日の夜、私たちは百合ちゃんのアパートの部屋にいた。ワインやらなんやらを買い込んで来て、ささやかな祝勝会を開催した。ワインボトルを二本空にした時、私はクラクフで買った指輪を百合ちゃんに渡した。
「バカ」と言って百合ちゃんは私の頬にキスした。
「わたし、ポーランドに行っちゃうけど、二年待てるの?」と百合ちゃんは言った。
「チェスをやってる」そう私は答えた。

二年後、私たちは結婚した。結婚したといっても式をあげるわけでもなく、ただ籍を入れただけだった。それでも私たちは幸せだった。しばらくして、妻となった百合ちゃんのお腹に新しい命が宿った。それからほどなくして、百合ちゃんが篤たい病気に罹っていることがわかった。それも、余命一年か二年かという病気に。とても母体が持たないということで堕胎せざるを得なかった。しかし、闘病の甲斐なく百合ちゃんは一年半ほどで亡くなった。

亡くなる二週間ほど前、病院のベッドの横に座っていた私に、「ねえ、チェスやらない?」と百合ちゃんは言った。
「いいよ」
「わたしが黒」
「後手でいいの?」
「うん」
チェス盤を持ち込んでいたりしなかったから、私達は口頭でd4、d5などと符号を交互に言い合って指し進めて行った。百合ちゃんは序盤過ぎのある局面でQe7という手を指した。それを見て、いやそれを聞いて、私は次の符号を言うのを躊躇した。なぜかといえば、それは黒が絶対にやってはいけない手だったから。ポーランドに行く前に二人で特訓した時、何度も確認した手筋だった。Qe7以降、黒がどんなに最善の手を指しても、長手数ではあるものの白があと30手ほどで勝ってしまう悪手だった。
「ねえ、藤井君、わたし、知ってるから」と百合ちゃんは言った。私達は結婚してからもそれまでの呼び方で通していた。
「なにを?」
「自分の命が長くないこと」
医師も私も百合ちゃんに本当のことは伝えていなかった。頑張れば治る病気だからと伝えていた。
「どうしてそんなに弱気になっちゃったの?」と私は聞いた。
「いいよもう、演技しなくても」そう百合ちゃんはやさしい穏やかな声で言った。
私には返す言葉がなかった。
「他の人に言われたくないの。藤井君が私をメイトして。できる?」
そうだったのか、それでわざと黒番を選び、二人で何度も何度も確認した、絶対に負ける手を百合ちゃんは指してきたのか。私の両の目から涙がこぼれた。自分は百合ちゃんをメイトできるのか? 自問した。まだ演技を続けるのか? 覚悟を決めた百合ちゃんを前にして、それはもうできなかった。

私は泣きながら二人で特訓した手筋を再現していった。あと十数手で黒が、つまり百合ちゃんが負ける局面まで、二人で符号を進めていった。百合ちゃんが布団の下から右手を差し出した。それはチェスにおける投了の儀式だった。私はその手を握り返した。
「ありがとう」
百合ちゃんは、私の目を見つめ、しっかりとした口調でそう言った。

この回続く


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