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「半自伝的エッセイ(3)」 チェス、やるんですか?

チェス、やるんですか?
そんな声が聞こえたような気がした。
「チェス、やるんですか?」
今度ははっきりと聴こえた。そちらに目をやると同じぐらいの背丈の男が私の顔を覗き込んでいた。そういえば、私の左隣にはさっきから腕を組んで盤面を見ている男がいた。
「チェス、やるんですか?」
その男にまた訊かれた。
「たぶん」何かしら返事をしないといけない気がして私はそう答えた。
「たぶん?」男はそう言って、直前までチェスを指していた座っている男と目を合わせた。座っていた男は私の顔を見た。
「指す?」立って腕を組んでいた男が私に向き直って言った。「八代、一局指してみなよ」
八代と呼ばれた男は座ったまま、「いいですけど」と答えた。
「じゃあ、本田、席譲ってあげて」
そう言われて女の子が立ち上がった。
成り行き上、指さないわけにはいかなくなった私は、椅子に腰を下ろした。座面には女の子の臀部の体温が残存していた。温かかった。
「先後はどうしますか?」八代が立っている男に尋ねた。
「お前が黒」
「いや、僕が黒で」私は言った。
男二人はまた顔を見合わせた。
「黒でいいの?」立っている男が言った。
「はい」

チェスは先手後手でだいぶ有利不利が大きい。その違いは将棋の比ではない。もちろん先手(白)が圧倒的に有利である。しかし、私は不利と言われる後手の戦略ばかり研究していたので、実を言えば白の指し回しをまだ充分に知らなかった。指し始めて数手で八代がそれほどの棋力の持ち主でないことがわかった。ただ単に定跡をなぞっているだけだったからである。そのまま指していくと白は陥穽に落ち込む。二十手指さないうちに八代は投了した。

八代は立っている男に「部長、すみません」と言って頭を下げた。私はその時、実際の駒を動かして誰かとチェスを指すのは初めてだった。それを気取られないように表面上は平静を装ってはいたが、頭の取れたルークとビショップの区別が瞬時にはつかないことがあり、それなりに焦ってはいた。

今度は部長と呼ばれた男が八代をどかすようにして私の前に座った。
「白でも黒でもいいけど」部長が言った。
「また黒で」私は言った。
部長と呼ばれるだけあって盤の向こうにいる男は簡単に私の研究に嵌ることはなかった。私の研究は中盤あたりまでは自分で言うのもなんだがかなり完璧だった。だが、力戦に移るとまだまだ修行が足りないようで、徐々に形勢を損ねている感覚があった。
「ドローで」部長は言った。
私は同意した。正直なところ助かったと思った。

その日から私はチェス研の半一員のようになった。正式には部員ではないものの、時折顔を出して数局指したり、団体戦に出たりした。どこかの団体に属すると言うのがどうも苦手だった私だが、チェス研に半分入ったのは、もちろん百合ちゃんがいたためである。本田と呼ばれた女の子である。百合ちゃんは今年入学したばかりで、つまり私と同学年で、驚いたことに同じ学部、同じ学科の生徒だった。授業に出てこなかったことを激しく後悔した。

百合ちゃんは肩より長く伸ばした黒髪が美しい女性だった。身長は百五十センチちょっとで小柄、いつもふんわりとしたスカートをはいていた。しばらくして知ったところによると、百合ちゃんは茨城の出身で大学進学に合わせて上京し一人暮らしをしていた。

暮れも押し迫った頃である。私と百合ちゃんは居酒屋で飲んでからカラオケ屋に入った。その頃にはそれぐらいの仲にはなっていた。百合ちゃんは石川ひとみの『まちぶせ』などを歌い、その美声を私は堪能した。私は百合ちゃんの声を聴いていればそれでよかったのだが、そういうわけにもいかず、中森明菜の『スローモーション』などを歌ったりした。

二時間ほどカラオケ屋で過ごし、外に出ると一面真っ白だった。居酒屋で飲んでいる頃からチラホラと降ってはいたが、こんなに積もるとは思わなかった。足首の上まで雪があった。
「電車、動いてないよね」百合ちゃんが言った。
「そうかも」
「うちのほうが近いかな」

百合ちゃんのアパートの部屋はアパートとは言いながら私の部屋とは別世界の感があった。ユニットバスながら自宅で風呂に入れるし、台所もそれなりに広く、ワンルームとはいえ十畳ぐらいはありそうだった。私は勧められるままにシャワーを浴びて冷えた躰を温めた。その後に百合ちゃんもシャワーを使った。ベッドの端に座っていた私の隣に湯上りで上気した百合ちゃんが腰を下ろした。百合ちゃんのほうから唇を合わせてきた。百合ちゃんはバスタオルを巻いただけの姿だった。

それなのに、私はできなかった。できなかったというのは肉体的な意味ではない。唇を合わせた時から私のペニスはこれ以上ないほど屹立していた。初めて百合ちゃんを見た時に劣情を覚えたぐらいだからこの機会をふいにするのはどう考えてもおかしかったが、それでも私はできなかった。いつしか私は百合ちゃんを聖母マリアのように感じていた。触れることができるのであれば触れたいが、そうしてはいけないような気持ちになっていた。

そんなことが何度かあって、百合ちゃんは私から離れていった。当たり前である。初めて躰を委ねようというのに、それに応えられない男に価値を見出せないのは当然である。「わたしって魅力ない?」そんなことを百合ちゃんに言わせてもしまった。

私はチェス研から距離を置き、その頃知った「R」に入り浸り、チェスの研究にそれまで以上に没頭した。

続く

文中に登場する名前、団体名はすべて架空のものです。

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