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「半自伝的エッセイ(4)」 チェスと幸福

チェス喫茶「R」の別部屋で出会った人に先崎さんがいた。先崎さんは中堅どころの工作メーカーで部長あたりの役職に就いているらしい五十過ぎ(見た目)の男性で、どこが気に入ったのかよく私をチェスの相手に指名してくれた。

先崎さんは海外駐在が長かったらしくヨーロッパのチェス事情に詳しかった。

「向こうだとみんなというと大袈裟だけど大体チェスやるんだよね。でね、チェス盤を挟むことも結構あるんだな。それは娯楽とか関係を深めようとか、そんな意味もあるけど、こっちの人柄とか性格とかを、それで判断するんだよ」

「これから取引しようかという相手とある時ね、チェスをやったの。ずっと若い時だよ。僕もそれなりに指せると思っていたから、相手に花を持たせるか、それともドローにするか、そんなこと忖度せずに負かしちゃうか、そんなこと考えながら指していたら、その相手がね、あなたとの契約は考えさせてくれって、いきなり言うんだよ」

「どうしてですかって僕が尋ねたら、”ミスをしてもそれは問題ない。リカバリーできる可能性があるからだ。しかし、どんな局面でも最善の手を指さないといけない。あなたは契約が欲しくて手を抜きましたね”って見抜かれちゃってさ。こっちは接待麻雀ぐらいの気持ちでやってたわけよ」

その先崎さんがある時、「うちでね、チェス同好会みたいなの作ったんだよ。これから海外拠点を任せようかっていう若手を集めてね。でね、君に講師をお願いしようかと思って」と私に打診してきた。
「だったら先崎さんが教えればいいんじゃないですか?」
「いや、ほら、僕はなんて言うか、上司だろ。僕が教えることが絶対とか思って欲しくないわけよ。もっと、フレンドリーにやってもらいたくてさ。君なら年齢が近いからさ」

そんなやりとりがあって私は毎週土曜日の午後に先崎さんの会社でチェスを教えることになった。同好会には五人の男女がいた。先崎さんの指示でチェスのルールを覚え、一応は指せるぐらいにはなっていた。私が頭ごなしに教えるというもの烏滸がましいので、まずは毎回最初に一局指してもらい、その棋譜を全員で検討する流れにした。同好会は五人という奇数だったから、余った一人とは私が指した。

理工系の大学を卒業して入社した人ばかりだからなのか、みんな飲み込みが早く、三ヶ月もすると独自の研究を披露する人まで現れた。そんな中で、上達が遅い人が一人いた。先崎さんの当初の話では若手を集めたということだったが、上達が遅いその人、佐々木さんは、二十代に混じって一人だけ四十代の男性だった。

佐々木さんの上達が遅いのは年齢のせいばかりとは言えなかった。佐々木さんは将棋のアマ四段だか五段の強豪で、単にその癖が抜けないだけだった。柔軟性が乏しいという意味では年齢のせいも、もしかしたらあったかもしれないが、相手のキングの周辺にナイトやビショップやポーンをとにかく集めてしまうのだった。将棋で相手玉を寄せていく感覚だったのだろうと思う。チェスは遠くから効く駒が多いので、メイトできる筋がないのであれば、そんなに駒を相手のキングに寄せる必要はないのだが、佐々木さんは将棋が強いばかりにどうしても将棋の感覚で指してしまうらしかった。

私が講師みたいなことを引き受けてから半年ぐらい経った晩秋だった。佐々木さんの姿がなかった。「今日は佐々木さんは?」私が尋ねると、チェス同好会の四人はそれぞれの顔を交互に見合うようにして、しばらく無言だった。

「亡くなったんです」チェス同好会の中で一番若い女性が言った。
「えっ、どうして?」私は聞かずにはいられなかった。それはそうだろう、先週まで変わらずの姿を見せていたからである。
私の質問にやはり四人は顔を見合わせていた。
「自殺されたと聞きました」一番若い女性が言った。
「自殺?」
「はい」
「いつですか?」
「一昨日だそうです」
まさかチェスの腕が上がらないから自殺したとは思えなかったが、私はなぜか居心地の悪さを感じた。

翌日、佐々木さんの葬儀に出た。受付にはチェス同好会の四人が座っていた。喪主の席に座っていた佐々木さんの奥さんと思われる女性は終始俯いていた。その横に高校生ぐらいの女の子と学生服を着た中学生ぐらいの男の子が座っていた。焼香を終えて会場の外に出ると、先崎さんがタバコを吸っていた。隣で私もタバコに火をつけた。
「亡くなられた理由はわかったんですか?」私は尋ねた。
先崎さんは無言で首を振り、タバコをフィルター付近まで灰にすると、
「無理させちゃったかな」と言った。
「無理というと?」
「もう一花咲かせてあげたかったんだけど、彼にとっては出世とかはどうでもよくて、家族と幸せに暮らしていければそれでよかったのかもしれない」
「佐々木さんに目をかけていたんですか?」
「海外の拠点を一つ任せようと思ってた。でも負担だったのかもしれない」
その時、普段から黒のスーツを着こなしていますという雰囲気の男が近寄ってきて言った。
「副社長、車のご用意ができました」
「すぐ行く」そう言って先崎さんは私に向けてとも黒のスーツの男に向けてともなく、「佐々木の子供の面倒は会社でみるから」と言い、葬儀会場の外に歩いて行った。

(続く)

文中に登場する人名等は全て仮名です。


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