RAMUNOS

筑波山麓の雑木林に囲まれた山小屋で猫のピーと棲んでいます(二住生活)。 自然とくに植物…

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筑波山麓の雑木林に囲まれた山小屋で猫のピーと棲んでいます(二住生活)。 自然とくに植物と珈琲と本が好き。 ここでは自然の移ろいや日々の出来事をnoteします。

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  • 植物たち

    身の回りの植物たちをメモします

最近の記事

ハスの花

茨城県は、レンコンの生産量が日本一である。霞ヶ浦に近づくにつれ次第にハス田があちこちに目立つようになり、湖畔近くになると見渡す限り一面のハス田が広がる。夏、今頃は花の季節。白やピンクの花や蕾が、濃緑の大きな葉の間から首をもたげている。時折吹く風が葉をそよがせて、葉裏の薄緑色をチラリとのぞかせる。 ハスは、魅力的で神秘的な植物である。原産地はインド亜大陸とその周辺で、それが中国を経由して日本に帰化した。ハスの葉が濡れないのは葉にミクロの突起があって水滴との接触面を小さくしてい

    • 真壁の祇園祭

      益子に行った帰り、今日から真壁町の祇園祭が始まるというので五所駒瀧神社へ宮出しを見に行った。この神社は、創建が平安時代の長和3年(1014)というから相当に古い。承安年間(1171)に、真壁城の初代城主の平長幹の一族が鹿島神宮の祭神武甕槌命の分霊を勧請したという。以降、真壁氏の氏神として崇められて、江戸時代には笠間藩主の祈願所でもあった。神仏混淆の時代にも、神道祭儀一筋を守り通してきたそうである。 五所駒瀧神社は、樹木が鬱蒼と繁り、広い境内を谷川が横切って流れている。地面一

      • 絵日記のような一日

        僕の小屋にはクーラーがない。朝夕はいいものの、こう暑くては耐えられない。そこで、峠を越えて隣町まで「かき氷」を食べに行った。抹茶あずきを食べて一旦は暑さが治まったが、よせばいいのに、帰り『国指定史跡 真壁城址』との案内板を目にして、つい見学したくなって寄ってしまった。日差しが強く照りつける午後一時半頃のこと。訪れている人は僕の他に誰もいない。日陰の全くない野原をあちこち歩き回った。歩いているうちに「オオ!ここが虎口か」「二の丸はこの辺か?」「ここは曲輪か」・・・だんだん面白く

        • 野辺の石仏

           以前から、いつも通る道路脇の小祠が気になっていた。どんな神様が祀られているのか道路側に背をむけているのでわからない。今日こそ確かめようと車を停めて近づいた。それは、原色に塗られた石仏だった。赤子を抱いているから慈母観音だろう。稚拙な色使いが、かえって不気味なほどの生々しさを感じさせる。  ふと見ると、祠の梁から二本の何かが垂れ下がっている。動物の足だ。はじめ誰がこんなところに動物の死体を置いたのだろうかと思ったが、横に回ってその正体は猫だとわかった。キジ猫が梁を跨ぐように

        ハスの花

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        • 植物たち
          7本

        記事

          珈琲缶

           先日、コーヒー道具を紹介したが、一つ大切なものを忘れていた。それは、コーヒー保存缶である。コーヒーはすぐに香味が飛んでしまう。湿気、酸素、それに紫外線が大敵だ。これらを避けるために、これまでにガラス瓶、陶器、プラスチックなどをいろいろ試してきた。そして、ついに数年前、「金属製の茶筒」が一番優れているという結論に達した。以来、銅(大)、真鍮(中)、ステンレス(小)の三つの茶筒を愛用している。図らずも三種類の金属が揃った。  毎日、このどれかに触れないことはない。金属の硬く冷た

          珈琲缶

          ランチを食べに鉱泉宿(昔)まで

           足を踏み入れたとたん、「おっ!ここは、昔、来たことがあるぞ!」と思った。東西に伸びる廊下、その先が行き止まりになって、左の階段を登れば二階の部屋、そして右に階段を降りれば風呂。廊下の突き当たりの下は、現在は駐車場になっているが、かつては中庭があった。それを囲むように回廊がめぐっていて別館に続いている。確か、昔は伝正寺鉱泉『桜井館』と言っていた。後で調べたら、『桜井館』の創業は慶應3年(1869)で、2016年に廃業とある。現在は経営者が変わって『うり坊』と称している。  

          ランチを食べに鉱泉宿(昔)まで

          ヤマユリの花が咲いた

           溶けてしまいそうな暑さの中を、小屋まで戻ってきたら、昨日まで蕾だったヤマユリが咲いていた。小屋の北側斜面に沿って田舎道が走っている。毎年、今頃の季節になると、この道沿いにヤマユリが一斉に咲くのだ。日本の野草では例外なほどの強烈な芳香を放つ。散歩する人は甘い香りに酔いしれる。  日本の野山は、美しいユリの宝庫である。ヤマユリをはじめ、日本固有種のユリが多く自生している。現在、世界中でもてはやされている園芸種のユリの多くが日本の野生種を品種改良したものである。日本は、「百合の

          ヤマユリの花が咲いた

          すずむし風鈴

           山の木々の間を抜けた風が、青田をなびかせ、民家の縁側に吊り下げられた「すずむし風鈴」を鳴らす。その涼しげな澄んだ音色が心地よい。  すでに、風鈴は二つも持っていて小屋の軒下に吊り下げているが、どうしても民家のと同じ風鈴が欲しくなった。しかし、あちこちと探したが同じものとは出会わない。ところが、先日、隣町の花木センターの中にある薄暗い雑貨店で見つけた。煤けた団扇だの、色褪せたプラスチック製の玩具、汚れたような縫いぐるみなどに混じって吊り下がっているのを発見した。かなり前から、

          すずむし風鈴

          コーヒーのある暮らし

           コーヒーを焙煎していたら、宅配便の女性が先日注文したガアテマラの生豆を届けてくれた。ドアを開けたら、「良い香りですね!」という。「今、コーヒーを焙煎しているのです」と答えた。僕の小屋は、豆を焙煎しているかコーヒーを淹れて飲んでいるかで、コーヒーの香りが漂っていることが多い。  コーヒーが好きなので長い間飲んできたが、自分で生豆から焙煎して飲むようになったのは数年前からだ。焼いた豆を買ってきて飲むのでは、もの足らなくなり、とうとう焙煎にまで手を出してしまったのだ。いざ、自分

          コーヒーのある暮らし

          長塚 節の生家

           今度こそは、最後まで読んでやると意気込んで、長塚節の長編小説『土』を読んでいる。これまで、何度か挑戦したが、その延々と続く重苦しさに耐えられず途中で投げ出したのである。東京朝日新聞に掲載することを推挙した夏目漱石さえも序文に「作としての『土』は、寧ろ苦しい読みものである。決して面白いから読めとは云い悪い。」と書いている。そんな小説を読む気になったのは、舞台となっている茨城県の常総市石下付近が僕の小屋とは比較的近く、そこで営まれていた明治時代の農民の風俗、習慣、自然の移ろいな

          長塚 節の生家

          Apple教の信者

           前に僕が続けてきたものの一つにパソコンがあると書いたが、実は僕は筋金入りのApple教の信者だと言ってもいいだろう(笑)。50年以上もずうっとAppleのマシンと一緒だったからだ。生身のスティーブ・ジョブスにも目の前で会っているし、1986年1月にアメリカで発売されたMacintosh Plusから使い始めて、現在でもiMacを愛用している。このMacintosh Plusは確か4MBのSIMMが載っていて、128K(1984年)、512Kに続いて、Appleの3番目のMa

          Apple教の信者

          日記帳

           何をやっても長く続かない僕でも、日記と植物とパソコンと坐禅は例外で何十年と続いている。日記などは、その日の出来事や考えたことを書かないでは眠れない。昼間に不快なことがあったり、自分に嫌気がした日には、それを日記に吐き出さなくては気持ちが収まらないのである。また、無常に過ぎ去って行く時間を少しでも引き留められるかのような錯覚を持てる。  僕の日記は、自分の気持ちを文字にして吐き出すためのいわばゴミ箱みたいなものだから、後日、読み返すことも無いし、絶対に他人に見せるものではな

          初夏の午後

           益子の西明寺と円通寺を回った後、遅めの昼食に蛤のボンゴレを食べた。たくさんの大きな蛤の上にパスタが乗っている。キャベツとトマトのソースが良い味を出していた。  このレストランは丘の上にあって眺めがいい。遠くの山並みを眺めていたら、先ほどまで後ろの席で食事をしていた若いカップルが庭に現れた。恋人同志なのだろうか。男性が女性の上着を優しく脱がせて、二人でブランコに乗った。ガラス窓越しに、食後のコーヒーを飲みながら彼らを眺めた。初夏の日差しが彼らを照らしている。若さが眩しい。

          初夏の午後

          川又集落の散歩

          どこか遠くへドライブでもしようかと小屋を出たが、ふと、車の中から過ぎ去る景色を眺めてもつまらなく思えてきた。そこで、近くの集落を散歩することにした。ここはいつも車で通り過ぎるだけで、これまで集落の中に足を踏み入れたことが無い。神社脇の空き地に車を停めて、カメラを肩にかけて歩き始めた。  杉木立の間から大きな屋敷が見える。生垣が屋敷を囲んで、その上から真っ白な土蔵がのぞいている。村人の姿がない。あたりはシーンと静まり返っている。道路からわずか数百メートル入っただけなのに流れて

          川又集落の散歩

          野ばら畑

           散歩していたら、畑一面に白い花が咲いているのを目にした。何だろうかと近づいた。バラの畑だった。それも野ばらだった。車から降りたら甘い香りに包まれた。ミツバチがブンブンと飛び回っている。ひとり、野ばら畑の中に入り花に埋もれて陶然とした気持ちになった。  しかし、なぜ、観賞用でもない野ばらを、こんなにも栽培しているのかがまったく解らない。気になってしかたがない。聞くにも誰もいない。しばらくしたら、おばあちゃんが野道をやってきた。そこで、なぜ、こんなに野ばらを栽培しているのかと

          野ばら畑

          花束

           以前から近くを通る度に、この電柱の支柱から首を出している植物は何だろうかと思っていた。今日、それがわかった!ノイバラだった。 誰かに捧げるかのように、田んぼ脇の黄色い支柱の上で丸く茂り、一面に白い花を咲かせている。  思わず、車を停めて眺めたら、気持ちがスーツと軽くなり、風景も明るさを増したようだった。