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長塚 節の生家

 今度こそは、最後まで読んでやると意気込んで、長塚節の長編小説『土』を読んでいる。これまで、何度か挑戦したが、その延々と続く重苦しさに耐えられず途中で投げ出したのである。東京朝日新聞に掲載することを推挙した夏目漱石さえも序文に「作としての『土』は、寧ろ苦しい読みものである。決して面白いから読めとは云い悪い。」と書いている。そんな小説を読む気になったのは、舞台となっている茨城県の常総市石下付近が僕の小屋とは比較的近く、そこで営まれていた明治時代の農民の風俗、習慣、自然の移ろいなどを知りたいと思ったからだ。

生家の表門

 漱石は、序文の中で「『土』の中に出てくる人物は、最も貧しい農民である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に産み付けられて、土と共に成長した蛆同様に憐れな百姓の生活である」と書いている。こうした百姓の生活を観察して、精密に直叙しえるのは長塚 節君以外にはいないと言っている。案内してくれたおばあさんによると、『土』の登場人物の農民たちは長塚家の使用人を、また小説に登場する「おかみさん」は、実母をモデルにしたそうだ。長塚節は、自分の周辺の人や自然を緻密に観察して小説に書いたのだろう。それゆえに『土』は、当時の農民の暮らしの実像をかなり正確に反映しているのである。

 生家の母家

 都会の上流社会の教養人である漱石からすれば、同時代にこのような世界が、同じ関東平野にあるとは信じられなかったのかもしれない。だから「余はとくに歓楽に憧憬する若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、此の『土』を読む勇気を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと言い募る時分になったら、余はぜひ此の『土』を読ましたいと思っている。」とも書いている。 『土』が新聞に掲載されたのは1910年だから、まだ100年前の話である。祖父や祖母が生きた世界である。今でも同じような生活をしている国はいくらでもある。漱石の言葉は、現代の我々に向かっても投げられているのだ。

中門(薬医門)

 どんよりとした天気の中、長塚節の生家を訪ねた。地元のおばあちゃんが案内してくれた。屋敷林に囲まれた大きな屋敷である。表門は、長塚節の誕生を祝って、翌年の明治14年(1880年)に建てられた。母家は、豪農であった祖父の久右衛門(1829-1886)が建てたという。庭の右脇の柿の木は、果実がみのると師事していた正岡子規に送っていたそうだ。その梢にはノウゼンカズラがオレンジ色の花を咲かせていた。これは長塚節が、九州から持ってきて植えたものだそうだ。また、通用玄関前の糸ススキは、長塚節が自ら植えたものだそうだ。今では、青々とした大株に育っていた。

現在の石下町(左奥が長塚節の生家方面)






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