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野辺の石仏

 以前から、いつも通る道路脇の小祠が気になっていた。どんな神様が祀られているのか道路側に背をむけているのでわからない。今日こそ確かめようと車を停めて近づいた。それは、原色に塗られた石仏だった。赤子を抱いているから慈母観音だろう。稚拙な色使いが、かえって不気味なほどの生々しさを感じさせる。

 ふと見ると、祠の梁から二本の何かが垂れ下がっている。動物の足だ。はじめ誰がこんなところに動物の死体を置いたのだろうかと思ったが、横に回ってその正体は猫だとわかった。キジ猫が梁を跨ぐようにして昼寝をしていたのだ。せっかく、田んぼからの涼しい風を受けて寝ていたのに、僕の気配を感じて目が覚めたようだ。「近づくな!早く去れ!」と言わんばかりに睨みつけられた。

 この祠のあるところは、田舎道が左右に分かれているところである。ここは、昔から集落にとって大切な場所なのだろう。その股にあたるところに、慈母観音、隣に地蔵菩薩像と大きな二十三夜供養塔が建っている。
 顔が風化してノッペら坊になった地蔵菩薩には、薄い襦袢と毛糸で編んだカーディガンのようなものが着せてあった。それらが雨風や陽に晒されて色褪せている。慈母観音に色を塗ったのと同じ人物が着せたのだろう。同じ雰囲気が漂っている。なぜか、近くの集落に住む信仰心の厚い老婆を想像した。老婆が一人、村外れのこの地に来て菩薩に色を塗り地蔵に着物を着せたのだ。まさか、亡くなった親族が着ていたものではないと思うが・・・・。

 僕が石仏や仏像が気になって足を止める訳は、こうした造形物が無数の人々の信仰の対象となってきたからだ。何百年間の無数の人々の願いが注がれ、その蓄積が単なる鉱物を、ただの石でなくしたように思えるからだ。

 昔の女性が、貧しく厳しい生活の中で子供を産んで育てるのは、今の我々には想像ができない程の苦労があっただろう。医学の未発達の社会では病気になってもなすすべがない。多くの人や子供が亡くなっただろう。その時、唯一頼れるのは、野辺の慈母観音の石仏だけだったのかもしれない。今日出会った石仏にも、無数の女性たちの思いが込められている。僕は仏像を前にすると、つい、仏そのものよりもそれを信仰した人々の苦しみや暮らしを思いやってしまう。石仏を見ると、どことなく悲しさと寂しさ、そしてやすらぎを感じる理由はこの辺にあるのかもしれない。

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