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【短編訳】 最後の授業 (1873)
19世紀フランスの自然主義作家アルフォンス・ドーデによる、戦災としての「文化」の悲劇。
普仏戦争 (1870-71)
プロイセン 対 フランス
負けたフランスはアルザス・ロレーヌ地方を割譲した
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フランスの地図のうちアルザス・ロレーヌ地方が塗り潰されている
朝に家を出たときは、サボろうと思っていた。もう遅刻する時間だったし、まず国語の宿題をやっていない。またハメル先生にこっぴどく叱られてしまう。
暖かくて、空気の透きとおった朝、ツグミが清らかに歌っている。わざわざ行って怒られるより、このままぶらぶらしている方がいいよなあ。
そう思っていたのに、草地のむこうに演習中のプロイセン兵がいたから、急いで学校へ向かった。なるべくそっちを見ないようにしながら。
街角に何人かタムロして、新しい貼り紙を眺めていた。この2年間、いつもそうやってニュースが貼り出されてきた。フランスが敗けたことも、戦後のもろもろも、すべてそこで知らされた。
「またなにかあったのかな」
そう考えながら、足は止めなかった。すると鍛冶屋のヴァヒターが貼り紙から目を離さず叫んできた。
「小僧! あんまり急いでこけるなよ!」
いつもの冷やかしだと放っておいて、息を切らしながら、学校へと駆けこんだ。そのまま教室へ、ハメル先生の王国へ──
だいたい朝の授業前は大騒ぎだ。机をガタガタまさぐる音、教科書を大声で音読する声、あちこちのわめき声、バベルの塔なみにやかましい。
「静かに!」
王の一声が飛ぶ前なら、うまく忍びこめるだろう。ぼくはドアから自分の机までの道なりを思い描いていた。
でも、その朝は違った。静かすぎる。水を打ったような静けさだ。みんなもう席についていた。ハメル先生は、いかめしい長定木を小脇に抱えて、むっつり黙りこんで、教壇を行ったり来たりしている。
顔が熱くなってくる。こんな静寂の中に入っていくなんて、恥ずかしい。先生にも筒抜けだ。怖い。
でも、めざとくぼくを見つけた先生の目に、怒りの色はなかった。いつもじゃありえないくらい優しい声で、
「きみぬきで始めてしまうところだったよ、フランツくん。さあ早くお掛けなさい」
と言われて、ぼくは素直に席へついた。
落ち着いたら、ハメル先生が正装なのに気づいた。フリルつきの白シャツに深緑のフロックコートを羽織って、黒シルクのカロッタ*までかぶっている。まるでお役人が監察に来るときみたいだ。
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(カトリック聖職者につきものの帽子)
驚いたことに、いつもは空いている後ろの席が埋まっていた。街の人々だ。三角帽子をかぶったハウザーじいさんが、街の名士の面々が、市長さんまでが、そろって居住まいを正している。
教室じゅうが荘厳なほど、どこか悲しげなまでに、静まり返っていた。ハウザーじいさんは、隅の折れ曲がったぼろぼろの教科書を膝の上に開いて、大きなめがねを通して、しみじみと見入っていた。
不思議に思っていると、ハメル先生が椅子についた。そして、さっきのように優しく、でも重々しく、語り始めた。
「みなさん。わたしがみなさんに授業をするのは、本日が最後になります。プロイセンの命令によって、これからアルザスとロレーヌにある学校では、ドイツ語で授業をしなければならなくなりました。新しい先生が明日、到着します。つまり本日が、フランス語を学べる最後の授業になるのです。だから、みなさん、よく聞いておいてください──」
最後の授業! あれほどまじめにやってこなかった国語の、最後の授業!
ぼくはそのとき、苦手だからってサボってきたことが急に恥ずかしく思えた。重たいだけだった教科書が、なんだか古くからの親友みたいな気がしてならない。簡単に「さよなら」なんて言えやしない、むりだ。
ハメル先生は今日で辞めるから正装しているのか。ぼくは納得した。これまでさんざん叱られてきたこと、あの長定木でひっぱたかれてきたことなんて、とっくに忘れていた。
街のみんなが来ている理由もわかった。みんなサボったりふまじめだったりして教室にあまり来なかったことを、後悔しているんだ。そして40年もここで教壇に立ってきたハメル先生に「ありがとう」を言いに来たんだ。
そんなことを考えていたら、
「──ではフランツくん、おねがいします」
指名された。
ぼくが音読! 最初から最後まで大きくはっきり間違えず、苦手な国語を!
「…………」
ダメだった。一発めの単語でつまずいてしまって、うつむいて、立っていることしかできなかった。ドキドキ胸がうるさい。
「フランツくん、顔を上げましょう。怒りはしませんよ。きみはこれまで十分に怒られてきましたからね、十分すぎるほどに」
ハメル先生が優しげに言った。
「みなさん、わたしたちは毎日、『時間もないし、勉強は明日でいいや』としがちですね。その結果が今日です。アルザスにもう明日はありません。『フランス人のくせに、自分のことばもまともに使えないのか』と言われることでしょう。それはわたしたちのせいです。フランツくんだけのせいじゃない、われわれ全員のせいです」
いつものように教室の隅々にまで響きわたる声だ。
「大人が、子供を教育するということに関心を払ってこなかったせいです。子供に大人の手伝いをさせたり、大人がすべきことを代わりにさせたり、大人みたいな振る舞いを強いたりしてきたせいです」
それから話題は、フランス語がいかに美しいことばであるか、いかに後世へとつないでゆくべきものであるか、忘れられてはならないものであるか、と広がっていった。
「もしひとつの国が、奴隷のようになってしまっても、その国が母語を忘れなければ、いつだって自由になれるものです」
そうして先生は、教科書を読み進めた。ぼくは初めてしっかりまじめに聞いた。よく理解できた。いかにも単純で簡単なことだった。
先生はいろんなことをしゃべった。まるで自分の知っているすべてを、今のうちに教えておきたいかのようだった。
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最後の課題が配られた。新しく刷られたきれいな紙だ。上の端っこに整った手書きで、
France, Alsace!
と記されている。
鉛筆のこすれる音ばかり、後はなにも聞こえない。コガネムシが教室へ飛んできても、いちばん年少の生徒でさえ見向きもせずに、課題のなぞり字に一生懸命とりかかっている。
校舎の屋根に、数羽のハトが泊まっていた。
「ハトもドイツ語で鳴けって言われるのかな」
クークーいう鳴き声を聞きながら、ぼくはふと思った。
ときどき課題から目を上げてみた。ハメル先生は椅子に腰かけたまま、40年めの教室の至るところに視線を注いでいた。色褪せた机のひとつひとつを、熱心に励むひとりひとりを、じっと見ていた。
Ba Be Bi Bo Bu
課題を済ませた年少の子たちが、先生につづけて歌いだした。ハウザーじいさんも、いっしょに歌っていた。声はふるえていた。
とつぜん教会の鐘が打った。正午だ。祈りのうたが聞こえる。窓の向こうでトランペットが鳴り響いた。プロイセン軍の演習が終わったらしい。
ハメル先生が立ち上がった。
「みなさん、いや、友よ、わたしは、──わたしは、──」
真っ青な顔で、しゃべりかけて、言葉が出てこない。すぐにチョークを取って、大きな手で、力づよく、黒板に書き殴った。
VIVE LA FRANCE!
そうして立ちすくんだ。
「今日の授業は、これでおしまいです」
微動だにしない背が、いつものことばを告げていた。
完
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(少女がもつ枝葉はオーク、日本でいうスギ=神の宿る木)
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