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辞める予定の会社への思い出を振り返る。

私が今の職場に就職したのは、
2008年4月。
今年で14年目だ。

製薬会社を名乗っているが、
実際に作ってるものは工業用薬品だったり、
食品添加物だ。

私は高卒で今の会社に入社した。
勉強できないし、コミュ症だから、
営業は向いてないと先生に言われたし、
体を動かすのは好きだからという理由で、
製造という職種で探し、
最初は地元の就職を望んでいたが、
女性の製造はとっていないと言われ、
第1希望は切り捨て。

第2希望の高校の先輩達が何人かいると
言っていた今の会社に
面接と就職試験に行き、
なんとか受かった。

私が入社するくらいのときに
創業100周年を迎えたらしい。

高卒を製造現場に入れるのは
経験抱負な会社だったが、
だけど、高卒女子を
現場に入れるのは初の試みだったらしい。

経験抱負なパートのおばちゃんは1人いたので、
それが唯一の救いだった。

入った当初は当たり前だが、
右も左も分からない状態。

中学はソフトボール部で、
高校ではサッカー部のマネージャー。
そんな部活経歴を持つ私は、
部活を引退した後の
数ヶ月のコンビニのバイトしか、
働く経歴がない。
礼儀も言葉遣いもままならない状態だった。

そんな私含めた
同期の高卒と大卒と院卒の方達と
1週間くらい新入社員研修を受け、
研究職、営業職、品質管理職、事務職、製造職と
それぞれ配属の部署へ旅立っていった。

私の部署は食品添加物を作る製造の部署だった。
自分で言うのもあれだが、
真面目さと負けず嫌いを発揮して、
がむしゃらに頑張った。
男性ばかりの製造現場に
私は初めて正社員の女性として働くのだから。

1年目は会社側も様子見のようだった。
個性的な先輩達に支えられながら、
1年目を終える。

現場でフォークリフトが
乗れるようにならないとなので、
1年目のボーナスを使って
車の免許を取りに行き、
習得したあとに会社指定の場所で
フォークリフトの免許も取りに行った。

そんな初の資格を取りながら
少しずつ仕事を覚えていったが、
なんせ私は失敗ばかり、
そして、よく先輩に怒られた。
というか当時のみんな20代で若いから尖ってて、
理不尽に怒られた。

何をしても怒られ、萎縮し、
様子を伺ってはまた怒られ、
毎日辛かった。

2年目〜3年目が特にきつかった。
よく3年は続けろというが、逃げたかった。

学生時代みたいなつまらない仮病使って
休んだりした。

でも休んだら体調管理がなってないと言われ、
その都度謝らないといけないので、
休むのも面倒くさいので、
やはり耐えながら仕事した。

一時期、板挟みで怒られ過ぎて、
もう耐えれないと思って
昼休みに課長に
辞めると言いに行こうとしたが、
当時、総括リーダーだった人が
あからさま泣きそうな私の顔を見て瞬時に
呼び止めて話を聞いてくれ、
辞めるのは思いとどまった。
後で理不尽な叱られは一時期なくなった。
きっと話してくれたのだろう。

それから現場の先輩である後の主人と縁があり、
お付き合いし、お互い仕事後の
一緒に過ごす時間を励みに頑張った。

入社3年目には私と主人と結婚。
理不尽に怒りちらしていたリーダーや
先輩達は会社を辞めたり、移動したり、
年齢と共に性格が丸くなったりと、
それぞれの道へ(笑)
私が会社を辞めるのを止めてくれた
統括リーダーは課長へ。
主人は製造のリーダーになった。

色んな変化はあったが
4年目〜8年目までは大変だけど、
色々できることも増え、
なんだかんだ楽しく仕事できた。
リーダーである主人が負担を
かなり背負っていたのは否定できないが、
本人は許容範囲内だと笑ってた。

結婚してから4年くらいは
大好きなバンドを追いかけ、
ライブ遠征を生きがいに過ごし、
それ以降は
不妊治療をすることに。

入社9年目に差し掛かる頃に
3年の不妊治療を経て妊娠し、
産休に入った。

子供ができれば会社辞めれるだろうなんて、
甘い考えがあったが、無理だった。
子供が生まれ、約1年も満たない育休を経て、
子供を0歳10ヶ月の時に保育園に預け、
時短で職場復帰。社会人10年目の春だった。

復帰するまでの間は
主人の仕事の愚痴を聞きながら
職場の状況が分かっていたので、
ありがたいことにまた同じ部署で
同じ現場に復帰することができた。

リーダーである主人が
私の復帰する場所を確保してくれたのだ。
時短なので、効率よく仕事を引き継げる
予定を立ててくれたので助かったけど、
やはり保育園の呼び出し洗礼は受けるので、
そこはやっぱり申し訳無さがあった。
でも、職場は温かく見守ってくださった。

そして社会人11年目の頃、
職場の人事もまた変わり、
守ってくれた部長も辞め、
信頼してた課長は部署移動し、
変わってしまった。

私と主人は部署は一緒だったけど、
配置が代わり、初めて離れての作業。
主人は別のグループのリーダーになり、
私はそのまま。

この時を境に不満はまた募る。
今思えば私は主人に甘えすぎていた。
持ってる知識を活かしながら、
家に帰ってきて仕事の話をして
主人の知恵も借りながら、
仕事をしなければならない位になっていた。

同時に嘱託と派遣社員の揉め事に挟まれながら、
製品の最終工程、充填作業で正社員としての仕事。
別の配置の社員の仕事の不注意にもイライラしながら、
適度な会話は避け、人に信用信頼もせず、
確実にこなすことだけを考えて仕事していた。

主人が配置が変わってからの
新しいリーダーにも勝手に不満をもって、
最初の頃はこうしたほうがいいんじゃないかとか
言っていたけど、そんなことをしていたら、
昔、私に理不尽に怒鳴り散らしていた
先輩みたいになってしまうと思いやめた。

人が変わればやり方だって変わるのは当たり前だし、
相当逸脱していないやり方じゃない限り、
何も言わなくなった。

そして、主人からの言葉が舞い降りる。
「娘が小学生になったら、会社を辞めてもいいよ。」と
理由としてはよく子育て世代に引っかかる問題。
「小1の壁」だ。

私たちは自宅から
約1時間以上かかる場所に職場があり、
時短がない限り、就業時間には間に合わない。
何より子供を鍵っ子にして先に家を出て、
子供より遅く帰宅するなんて、
今の時代にはリスクが高すぎる。

小学校低学年までは子供の学校からの帰宅は早いし、
近くに実親は住んでるが、
実家にも生活があるので無理に頼れない。
子供を持つ以上、
私たち一家は自分たちで何とかしたい派なので、
遅かれ早かれぶち当たる壁である。

今現在保育園にも預けているが、
朝は早朝の有料時間に預けて、
夕方は定時に帰らしてもらって、
ギリギリ有料時間を避けて迎えに行けている状態。

娘には0歳から保育園に預けて、
時短が解除になった
2歳児クラス(実質年齢は3歳になるクラス)から
早朝預かりをしている状態だ。
5年間も早朝預かりをして、
帰りは同じクラスの子が1人もいない中、
上のクラスや下のクラスの子と
遊びながら待っていてくれている。

そんな娘の頑張りも見ているから、
交代で迎えに行ってくれていた
主人も気にしていたようだ。

私の意見としたら、
今の会社を辞めれるという嬉しい知らせ。
小1の壁の件は覚悟しているということ。
実母も私たち娘が小学校を卒業するまでは、
専業主婦だったことの経験談も踏まえて。
やっぱり今の会社は辞めたい意見だ。

一緒に働いてきた主人と
お互いの頑張っている姿を励みに
続けていた今の会社。

今の会社に入社しなかったら、
主人との結婚も正直なかったので
感謝しかないけれど。
ようやく新たな一歩を踏み出せそうです。

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